説教「神の国に生きる喜び」

2018年10月28日、三崎教会 
「降誕前第9主日

説教・「神の国に生きる喜び」、鈴木伸治牧師
聖書・ヨブ記38章1-18節
    ルカによる福音書12章13-31節
賛美・(説教前)讃美歌21・355「主をほめよ わが心」、
    (説教後)讃美歌21・579「主を仰ぎ見れば」


 今朝の日本基督教団の礼拝主題は「創造」ということであります。神様の創造の世界を示されるということであります。その創造から示されることは、旧約聖書の創世記であります。創世記の初めには天地創造が記されています。宇宙の最初のことは誰も知ることができません。それで、学者にしても宗教界にしても、最初はこのようにしてできたと示しているのです。私たちは聖書の創世記をもって、地球の始まりを信じている訳ではありません。聖書は神様を証しすることであり、聖書の創世記には信仰的な真理が示されているのです。創世記によれば、最初は「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」ということです。信仰において記しているのです。そのような状況に神様は言われるのです。「光あれ」、すると光が存在したというのです。そして、神様は次々に言われます。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」と言われると、そのようになったのです。つまり大空にも水があり、大地にも水があるということです。古代の宇宙観でもあります。雨が降ってくるのは、大空の水が、それを支えている雲が破れて降って来るのです。こうしていろいろな物が出来ていきますが、古代の考え方が反映していることを示されます。この創造の世界は信仰を持って記しているのでありまして、これが科学的にも言われる天地の始まりだと示しているのではありません。神様の御心を示しているのが創世記ということなのです。
 新しい状況が作り出されること、それは人間の歴史において、人間が挑んできたことであります。今の歩みにおいて、いろいろと不都合があり、それではどうしたらよいか、ということで新しいものが作り出されてきたのです。人間は考えることは必ず実現するとまで言われています。しかし、すぐには新しい状況になるものではありません。徐々に新しい状況が導かれてくるのです。今週の10月31日は宗教改革記念日であります。宗教改革によって、今の私たちの信仰の歩みが存在するようになったのです。それは中世の時代、16世紀の頃、紀元1600年の頃であり、今は2018年ですから、約500年前になります。それで今年は宗教改革500年ということで、改めてその意義が見直されているのです。
 キリスト教イエス・キリストの十字架の救いを信じる人々です。しかし、イエス様はキリスト教として人々を導いたのではありません。当時のユダヤ教社会にあって、真に神様の御心を示し、十字架への道を歩まれたのです。その後、イエス様のお弟子さんたちは、イエス様の十字架の救いを人々に宣べ伝えて行きました。そこで成立するのが原始キリスト教です。そのキリスト教は次第に人々に浸透していきました。その頃、ローマ帝国がヨーロッパ世界を支配していたのです。当初はキリスト教を迫害しますが、ついにローマはキリスト教を国家の宗教としたのでした。帝国は滅びていきますが、キリスト教はローマを中心に発展していくのです。ローマ法王を中心にカトリック教会が存在するようになるのです。発展するということ、しかし発展は堕落を伴うということです。16世紀の世界はその堕落が深刻になっていました。大きな教会を建設するために資金集めをするのですが、免罪符と言うお札を売ることになります。その免罪符のお札を買うと、罪が赦されるというものです。お札を買えば、悪者も善人になれるのですからも、人々は喜んで買うのでした。「これが信仰なのか」と疑問を持ったのがマルチン・ルターという人でした。ルターは免罪符ばかりではなく、当時の教会の歩みに、いろいろな疑問を持ち、問題点を書き出して教会の扉に張り付けたのでした。これが大問題となり、ルター派は教会から破門されますが、ルターはドイツに逃れ、そこで真の信仰、聖書に基づいた信仰を人々に示すのであります。そこで新しいキリスト教ができるのです。カトリック教会というのは、公同教会と言う意味です。それに対して、カトリック教会に抗議して、プロテストしてできたというのでプロテスタント教会と称するようになりました。マルチン・ルターは私たちが「神の国に生きる喜び」を得るのは信仰によってであると示したのでした。

 旧約聖書ヨブ記において、創造の世界を示され、新しい信仰の生き方が導かれています。ヨブ記は文学的な記述により神様の御心を示しています。 ヨブ記の設定は、義人ヨブさんが神様の御心に従い、神様を敬いつつ歩んでいます。10人の子ども達、たくさんの財産があり、まさに恵まれた人でした。ある日のこと、天上において神様の御使いたちが神様の前に集まります。神様はサタンに対して、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」というのであります。するとサタンは「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」というのです。私たちはサタンといえば、悪魔的な存在と思っています。しかし、旧約聖書の世界は、サタンは神様のお使いの一人なのです。サタンが勝手に悪いことをすることはできません。神様のお許しをいただいて、人間に被害を与えるのであります。要するにサタンは、ヨブが信仰深いのは、神様がお恵みを施しているからだと主張しているのです。ヨブに恵みが無くなれば神様を呪うとまで言っています。
 すると神様は「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には手を出すな」と言われました。サタンは早速実行にかかります。ヨブの子ども達は災害で皆死んでしまいます。多くの家畜、財産も失われてしまうのです。どん底に落とされたヨブでした。その時、ヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と告白するのです。サタンの予言であった「神を呪う」ことはしません。むしろ、どん底の苦しみの中から神様を賛美しているのであります。サタンは、ヨブは自分自身に痛みがあるなら、必ず神を呪うと主張します。神様の赦しを得て、サタンはヨブ自身に被害を与えるのです。ヨブは体全体が皮膚病になり、陶器のかけらで体中をかきむしるのでした。その時ヨブは、「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸をもいただこうではないか」と告白したのであります。サタンの思惑は外れたのであります。ヨブ記はそこまでがプロローグであり、そこから本論に入ります。本論は三人の友人とヨブの論争になります。そして神様の介入があるのです。
 ヨブの災難を知った三人の友人が見舞いにやってきます。彼らは、ヨブがこのような災難に遭うのは、ヨブが悪いことをしたからであり、悔い改めることであると結論づけます。その為、三人は順次慰めの言葉を述べますが、それは悔い改めの勧告であったのです。それに対して真っ向から立ち向かったヨブです。罪と言い、悔い改めを迫っていますが、全く身に覚えのないことであります。三人の友人とヨブとの激しい論争が本論で続くのです。
 そこで、今朝の聖書は、ついに神様が登場する場面であります。「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった」のであります。「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか」と示し、神様の創造の御業を示されています。その創造の業の中にいるヨブであり、何事を論じても、まことに小さな存在であることを示しているのです。「お前は一生に一度でも朝に命令し、曙に役割を指示したことがあるか」と言われます。創造に関与しているのかということです。小さな存在が、神様の創造に対して何を語れるかということです。ついにヨブは悟るのです。「あなたは全能の神です。わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」と告白するのでした。自分には罪がないと主張して来ました。三人の友は因果応報的に悔い改めを迫っていました。罪がないと主張するヨブでしたが、神様の偉大なる創造の中で、まことに小さな存在であること、自分を主張している自分自身が罪の存在であることを、ヨブは知ることになったのであります。自分において潔白を証明するのではなく、神様の御心において生きていることの証しこそ大切であることなのです。
 自分を受けとめ、自分がそれ以上でもそれ以下でもない、この自分を神様が導いてくださっていることを知ることであります。
映画のお話になりますが、「100歳の少年と12通の手紙」という映画があります。私は感銘を受けて数回も鑑賞しています。物語は、オスカーという少年は白血病になり、余命いくばくもないのです。両親は隠していますが、次第にオスカーは自分の命を知るようになります。元女子プロレスラーのローズさんは言葉もぞんざいなのですが、なぜかオスカーはこのローズさんには心を開くのです。ローズさんは故郷の言い伝えになぞらえて「一日を10年と考えて生きよう。そして毎日、神さまに宛てて手紙を書こう」と勧めます。サンタクロース同様に神さまの存在を信じられないオスカーには、気の進まないことでしたが、毎日の出来事と自分の考え、疑問を書き綴るうちに、オスカーにとって神さまは確かな存在者となっていくのであります。毎日、手紙を書くと、ローズさんが風船に手紙をくくりつけ、空に飛ばしていくのです。一日が10年ですから、10日間で100歳になりました。神様に自分のすべてを委ねて神様のもとに召されていくのでした。
 自分を受けとめること、この自分を神様が導いてくださっていることを信じることであります。自分で自分の何を論証し、自分を証明しようとするのでしょうか。ヨブは知ったのです。ただ、神様の御心を求めて生きることであるということであります。「神の国に生きる喜び」が与えられるのです。

 「自分のために富を積むのではなく、神様の前に豊かになりなさい」と主イエス・キリストは教えておられます。神様の御心に生きる者が神様の祝福をいただくのであることを示しておられます。ルカによる福音書12章13節以下はイエス様が人間の生き方について示しておられます。まず、豊かな財産を持っている人を例に挙げています。どんなに財産があり、その財産に依存する生き方は、真の祝福の道ではないと示しているのです。人間はどんなに富を築いても、地上のことであり、天国には関わらないのです。財産で安心しても、天国には結びつかないということです。だから、もし財産があるなら、その財産を用いて神様に祝福されるような証をするべきなのです。
 人間は生きている以上、毎日のさまざまな思い悩みを持っています。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」とイエス様は示しています。よく考えれば、食べること、着ることは大切であり、これらがないことの悩みは深刻であります。しかし、イエス様は、これらを否定しているのではありません。後で、「これらのものは加えて与えられる」と示しているのです。まず、しなければならないことなのであります。「ただ、神の国を求めなさい」と教えておられることです。自分の存在、自分を証明する、自分の位置付け、そういう自分の生き方ではなく、神様がくださる自分の生き方に身を置くと言うことなのです。そのために空の鳥、マタイによる福音書は「トリ・鳥」でありますが、ルカによる福音書は「カラス・烏」になっています。旧約聖書の世界では、烏は汚れたものになります。汚れた烏でさえ、神様が顧みて、養ってくださるのです。自分がどのようであるか、あるいは他者が自分をどう評価しようと、神様がわたしの存在を受けとめてくださっていることを受けとめるべきなのであります。あるいは野原の花を見なさいと示しています。神様が養い、支えてくださっている証が野原の花、空の烏であるのです。まして、あなたがた人間にはなおさらのこと、お恵みをくださり、導きを与えてくださっていると示しておられるのです。私たちは何も思い悩む必要はありません。神様のお導きに委ねることなのです。神様のお恵みを確認することなのです。そして、「ただ、神の国を求める」ことなのであります。そうであれば。必要なものは添えて与えられるのです。
 神の国を求めて生きるとき、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と示しておられます。そして、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」と教えておられます。今朝の聖書の最初に「愚かな金持ち」のたとえを示されていますが、その結びの言葉が、「富を天に積みなさい」ということなのです。「擦り切れることのない財布」を作りなさいと示しています。つまり、お金をいっぱい財布に入れ、そしてすぐにお金が出ていくことなのです。私たちは聖書を読んでお金持ちになることはいけないことであると思ってしまいます。金持ちであり、財産がありすぎて、もっと大きな蔵を作った。そしたら神様にとがめられたお話でもあるからです。しかし、そのお話の終わりにも示されているように、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ」と示されています。そして、「思い悩むな」を教えられ、「擦り切れることのない財布」を示しているのであります。擦り切れることのない財布は天国に富を築くためのものなのです。

 ジョン・ウエスレーという人はイギリスにおいてメソジィスト運動の創始者として知られています。ルターの宗教改革より後の時代になります。キリスト教おいて秩序ある信仰に生きる人々の群れがメソジィスト運動です。信仰覚醒運動を起こした人とも言われます。このジョン・ウエスレーの説教に「大いに稼げ」という示しがあります。「第一に、できるだけ稼ぎなさい。あまり高い金を払って買ったり、それが価するより以上支払ったりすることなく、私たちは稼げる限り稼がなければなりません。しかし、生命を犠牲にしたり、健康を犠牲にして金を儲けてはなりません。第二に、私たちは体の場合と同じように、心をも傷つけることなく、できる限り稼ぐべきです。第三に、私たちは隣人を傷つけることなく、できるだけ稼ぐことです。そして、できる限り倹約しなさい。貴重な金を海中に投げすててはいけません。このようにあなたは大いに稼ぎ、できる限り倹約し、そしてできる限り与えなさい」と教えています。以上は要点を記しました。お金持ちになることは大切なことであります。稼ぎ、倹約し、与える、これがジョン・ウエスレーの示しであります。聖書のイエス様のお示しを取り次いでいるのであります。
 私たちは神様の創造の中に生かされています。自分という存在が大切であることを示されます。しかし、私たちは、やはり自分中心に生きてしまいます。神様は創造の中にある存在が喜びをもって生きることができるように、主イエス・キリストを十字架の贖いにより、私たちが喜んで他者と共に生きるように導いておられるのです。ただ、神の国を求めて生きることです。その場合、ただお祈りして生きると言うのではなく、大胆に稼ぎ、大胆に倹約し、大胆に与えることが求められているのです。それが、神の国を求める生き方なのです。さあ、大胆に十字架に向かいましょう。大胆に稼ぎましょう。そして、「神の国に生きる喜び」をいただきたいのであります。
<祈祷>
聖なる神様。神様の創造の中に生きることができ感謝致します。御心のように大胆に隣人と共に歩むことを得させてください。主イエス・キリストの御名により。アーメン。