説教「自分の十字架を担いつつ」

2021年3月7日、六浦谷間の集会

「受難節第3主日

                       

説教・「自分の十字架を担いつつ」、鈴木伸治牧師

聖書・ヨブ記1章1-12節

   ペトロの手紙<一>4章12-19節

   マタイによる福音書16章13-28節   

賛美・(説教前)賛美歌「生きて愛して祈りつつ」

   (説教後)賛美歌「主の祝福」

新型コロナウィルスの感染について、今も留意しつつ生活していますが、今や世界中の人々の重荷となっています。その重荷は人によっては異なりますが、コロナの故に差別されたり、批判されたり、人間が作り出す重荷でもあるのです。

今朝のマタイによる福音書16章24節に「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と主イエス・キリストが示しています。「自分の十字架」とは、苦しみを担いつつ歩むことでありますが、その苦しみは主イエス・キリストを信じて生きるが故に苦しみがあり、困難が伴うことでもあります。信仰における困難な歩みでありますが、必ずしも信仰におけるということばかりではなく、自分の身体の状況の苦しみもあります。ヨブ記で示されますように、何だかさっぱりわからない苦しみの現実ということもあります。やはり、自分の十字架ということになるのであります。その十字架の救いを信じて歩むことが、「祝福への道を歩む」ことなのです。 

 旧約聖書ヨブ記に登場しますヨブは、考えられない苦難に出会います。彼は正しい人で、神様を畏れ、悪を遠ざけて生きていました。7人の息子と3人の娘が与えられ、羊7千匹、らくだ3千頭、牛5百くびき、雌ロバ5百頭の財産があり、使用人も大勢いたのであります。彼は東の国一番の富豪であったと聖書は紹介しています。その彼が苦難に生きることになるのであります。ヨブ記の最初の部分は苦難の意義が記されています。ある日、神様の前に天使たちが集まります。神様はサタンに言うのです。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を恐れ、悪を避けて生きている」と言うのでした。するとサタンは神様に反論します。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」と言うのです。神様はサタンに「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな」と言われるのです。それでサタンはヨブに苦難を与えるのであります。旧約聖書におきましては、サタンは天使の存在であり、神様のお許しのもとに人間に苦難を与えるのです。

 ヨブは愛する10人の子どもを失います。さらに、豊かな財産もすべてなくなってしまうのであります。どん底に突き落とされたヨブであります。しかし、ヨブはサタンが思っていたように神様を呪いませんでした。「わたしは裸で母の体を出た。裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と告白するのです。サタンはヨブの全身に皮膚病を与えます。陶器のかけらで体中をかきむしりながら、「わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸をもいただこうではないか」と告白したのでありました。どんなに苦難のどん底に生きようとも、神様を信じて生きるヨブの姿を示しているのであります。

 ヨブ記は最初に苦難に生きるようになったヨブを示し、その中でも信仰に生きるヨブを示しています。そのヨブを三人の友人が見舞いに来ます。見舞いに来たものの、三人の友人は、ヨブがこのように苦難に生きるのは、ヨブが悪いことをしたからだと言い、悔い改めを迫るのです。しかし、ヨブにとっては身に覚えのないことです。因果応報的には考えられないのです。ヨブと三人の友人との論争が中心となります。しかし、最後には神様が登場します。そして、ヨブ自身、罪はないと主張していますが、人間として罪の中にいることを悟るのでした。

 苦難と信仰、苦難と人生を考えるとき、苦難を取り去るために信仰があるのではありません。苦難に生きながらも、信仰を持って生きることなのです。信仰があるから恵みに満たされ、幸福になれるというのではありません。信仰が幸福の目的ではありません。信仰が苦難からの脱却ではありません。信仰に生きるとは、喜びのときはもちろんですが、苦難にあっても神様を仰ぎ見つつ生きることなのです。その信仰の人生が永遠の生命への祝福に導かれるということなのであります。そのために、私たちは自分の信仰を問わなければならないのであります。

 主イエス・キリストはお弟子さん達に信仰を問うています。マタイによる福音書16章13節以下であります。イエス様はお弟子さん達に、人々がイエス様をどのように受け止めているかと尋ねました。弟子達は、「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。他に、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」と答えました。すると、イエス様は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねました。「あなたはメシア、生ける神の子です」とペトロが答えました。「あなたは救い主です」とペトロは告白したのであります。もともと漁師であったペトロでありますが、イエス様に招きの言葉をいただき、イエス様に従うことになりました。まさに、この方はメシアであると信じたのであります。他の11人の弟子達も同じでありましょう。しかし、彼らの信じているメシアは主イエス・キリストが救い主として現れたこととは違うことでありました。メシアは救い主であります。その救い主は権威ある方であり、力があり、まさに世を救い、社会を救う方であるのです。要するに王様のような権威と権力の存在でもありました。

 お弟子さん達の信仰を問い、告白を受け止めたイエス様であります。だから、御自分の救い主としての道順をお話になりました。「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」のであります。すると、ペトロはイエス様をわきへお連れして、いさめ始めたのであります。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とペトロは力を込めて言いました。イエス様は振り向いて、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」とペテロに言われたのであります。ここにペトロ達、お弟子さん達の救い主観と主イエス・キリストの救い主の道がはっきり違うことが示されるのであります。弟子達は極めて人間的な救い主の希望であります。この世を平和に導く王としての救い主でありました。イエス様の救いとは、十字架への道なのであります。時の指導者達の妬みにより十字架に掛けられることになりますが、神様は人間がどうしても克服できない原罪を、イエス様の十字架によって取り去る方向をお作りになったのであります。

 そのように極めて人間的な思いの救い主告白をお弟子さん達から聞きました。しかし、それでもイエス様はその信仰告白を受け止め、告白を祝福されたのでありました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」とイエス様はペトロを祝福するのであります。極めて人間的なペトロでありますが、次第にイエス様の真の救い、十字架と復活の信仰へと導かれていくのであります。イエス様の救いは苦難を通して実現されるのです。その苦難に与ることが救いの道なのであります。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と主イエス・キリストは言われました。自分を捨てるということ、それは自己満足を捨てるということであります。自分の思いを超えて、主イエス・キリストの示された、「自分を愛するように、隣人を愛する」ことであります。自分を超えることにより、不都合なことを担わなければなりません。それが自分の十字架なのです。自分の十字架を担いつつ主イエス・キリストに従うことが、私たちの信仰の人生なのです。

 自分の十字架を担う、ということで、何か重いものを感じますが、今の自分の生活を歩むということです。その場合、今の生活が喜びなのか、苦痛なのか、そのように思わなくてもよろしいのです。今与えられている生活は神様のお導きであると示されることです。今の自分の生活をいつも悲観的に受け止める人がおられますが、この歩みは神様のお導きであると思うならば、喜びの現実でもあるのです。今の生活は、十字架を担うというような状況ではありません。普通の生活を歩むということが、十字架を担いつつ歩むということなのです。特別な状況ではなく、今の生活が十字架を担う歩みなのです。祝福の歩みでもあるのです。

<祈祷>

聖なる御神様。十字架によりお救い下さり感謝いたします。自分の十字架を担いつつ歩ませてください。キリストの御名によって、アーメン。

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