説教「神の国接近宣言」

2018年2月18日、六浦谷間の集会 
「受難節第1主日

説教・「神の国近宣言」、鈴木伸治牧師
聖書・エレミヤ書31章27-34節
    ヘブライ人への手紙2章10-18節
     マルコによる福音書1章12-15節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・134「いざいざきたりて」、
    (説教後)讃美歌54年版・515「十字架の血に」

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 今朝は受難節第一主日としての礼拝です。前週の2月14日が「灰の水曜日」です。この日から四旬節、受難節、レントといろいろな言い方がありますが、40日間、主イエス・キリストのご受難を仰ぎ見つつ歩むのであります。「灰の水曜日」の「灰」というのは、苦しみや悲しみを持つとき、頭から灰をかぶるのです。旧約聖書の時代でありますが、灰を頭にかぶったり、灰の中に座るのは悲しみや苦しみを現しました。ヨブ記の中にも記されています。義人ヨブが苦しみのどん底に落とされてしまいます。もともとヨブは神様のお恵みのもとに、正しく歩んでいました。その姿に対してサタンが神様に言います。「ヨブが神様を敬うのは、神様がヨブにお恵みを与えているからである」と言うのです。神様のお許しを得て、サタンはヨブを苦しみのどん底に落としてしまいます。たくさんの財産もなくなり、ヨブ自身も体中に皮膚病ができ、灰の中に座り、陶器のかけらでかきむしっていたのであります。灰は頭にかけることもあります。苦しみや悲しみを現す意味なのであります。主イエス・キリストの十字架に至る40日前から、イエス様の苦しみ、悲しみを受け止めつつ歩むことがキリスト教の歩みであります。40という数字は、聖書の人々がエジプトで奴隷として生きること400年であり、その後、エジプトを出て荒れ野の40年間を彷徨します。さらに主イエス・キリストは40日間、荒れ野の試練を受けるのであります。40という数字は聖書的には深い意味があるのです。
 灰の水曜日から40日間、主イエス・キリストの十字架の救いを仰ぎ見つつ歩むことです。40日の中には主の日である日曜日は入りません。日曜日を除いた2月14日からの40日間なのであります。この40日間なので「四旬節」と言われ、ドイツ語では「レント」と言っています。この受難節は主イエス・キリストの十字架のご受難を受け止めつつ歩みますので、なるべく質素な生活を過ごすのです。40日間、おいしいものを食べたり、楽しく騒いではいけないとなると、それでは今のうちに楽しもうということになるのです。従って、灰の水曜日の前、一週間くらいを謝肉祭、カーニバルとして過ごすのです。四旬節の間は肉を食べてはいけないとの慣わしに従うので、今のうちに肉をいっぱい食べ、楽しく過ごしましょうということでカーニバルのお祭りがあるのです。ローマカトリック教会の中で行われた習慣が今に至っても行われているのです。娘の羊子がスペイン・バルセロナに滞在していますが、バルセロナカトリック教会では、灰の水曜日礼拝を行い、礼拝出席者には頭に灰をかけられるということでした。
 前任の大塚平安教会時代、関係する知的障害者の施設が、毎年秋になると楽しいイベントを行っていました。まあ「○○祭」と言うような意味で、模擬店を出したり、盆踊りをしたりしていました。ある年、恒例のイベントを「カーニバル」との名称で開いたのでした。その時、職員の皆さんにカーニバルの意味をお話してあげました。その年はカーニバルとの名称で開催してしまっているので訂正はできませんが、翌年からはその名称は避けて「○○祭」と言う従来の名称にしたのでした。
 私たちは謝肉祭はしませんが、主イエス・キリストの十字架を仰ぎ見つつ歩みたいのです。主の十字架には決して及びませんが、生活の中で痛みのある生活をすることが必要であるということです。ある方はこの40日間はコーヒーを飲まないとか、いつもバスに乗っていたのに、歩いて電車の駅まで行くとかにより、イエス様の苦しみに与るのです。その生活を克己の生活と言います。克己の生活でできたお金を克己献金としてささげる方もおられるのです。昔は教団から克己献金袋を送られてきましたが、何時のときからか、なくなってしまいました。人に強いられてするのではなく、自分の生活の中で、自分ができる克己の生活をしつつ、主イエス・キリストの十字架を仰ぎ見つつ歩みたいのであります。主イエス・キリストはご受難を歩み、そして復活へと導かれていくのです。このご受難、主イエス・キリストが十字架にお架りになり、それにより私達の罪が贖われたのであります。救いの完成です。救いとは、私たちが「神の国」に生きることなのです。この受難節は、イエス様が救いの十字架への道を歩まれるのですから、「神の国」が近づいてきたことになるのです。イエス様ご自身、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言されています。十字架により神の国が近づいているのであります。

 救いの約束を与えているのは今朝の旧約聖書エレミヤ書であります。31章27節以下でありますが、31章は全体が「新しい契約」との主題のもとに預言が記されています。エレミヤの時代は大きな国々の狭間にあって揺れ動いていた時代であります。一方ではバビロンと言う国があり、またエジプトの国があり、小国であるユダはその狭間にあって、どちらの国に傾くかと言うことでした。バビロンの侵入の脅威がある中で、国の指導者達はエジプトに傾き、エジプトの力に頼ろうとしています。それに対してエレミヤは人々が生き伸びるために、バビロンに降服することを主張するのであります。戦いではなく、降伏して生き伸びると言うことなのです。そのエレミヤの勧告は無視され、むしろエレミヤを裏切り者とするのでした。このエレミヤ書の終わりの方で、聖書の人々はバビロンに滅ぼされていくことが記されています。人々がバビロンの捕虜として連れて行かれるのであります。今、暗雲漂う中で、エレミヤは神様の救いを宣言しています。人間の力により頼むのではなく、神様の救いに委ねると言うことです。そのことを示しているのがエレミヤ書31章の「新しい契約」なのです。
 今朝は31章27節からです。「見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に、人の種と動物の種を蒔く日が来る」と言われています。人の種を蒔くとは、変な言い方でありますが、人々が増え広がっていくことを示しているのです。多くの人が殺され、犠牲となり、いなくなっています。これからは平和のうちに人が増えていくことを示しているのです。今までは人々の罪、神様の御心に従わなかったので、神様の審判がありました。それが「かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていた」ことなのです。しかし、今や「わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている」と示しています。人々が祝福の歩みとなるよう、聖書の人々を見つめているということです。一人一人が神様の御心をもって生きるよう導いているのであります。
 29節の「先祖が酸いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く」と言う言い方は、個人の信仰を励ましていることなのです。新約聖書の中で、バプテスマのヨハネが現れて神様の御心を示したとき、「我々の父はアブラハムだ」などと思っても見るな、と言っていますが同じことです。アブラハムが祝福された人だから、我々も祝福されていると思ってはいけないと言うことです。アブラハムアブラハム、あなたがたはあなたがたであると言うことです。先祖は先祖、今に生きる人々は今の生き方を求めているのです。先祖とは関係なく、個人として神様の御心をもって生きなさいと示しているのです。そして「新しい契約」を示しています。神様との約束は十戒によって示されました。この十戒を守るならば末長く祝福に生きると言うことです。しかし、守らないならば神様の審判があると言うことです。石の板で示された十戒でした。人々は守ることができなかったのであります。そこで神様は、「わたしの律法を彼らの胸に授け、彼らの心にそれを記す」と示しているのです。もはや石の板を示されて御心を実践するのではなく、私達の心に深く示されるのです。今までは石の板が基でした。そのために幕屋を作り、幕屋の中に石の板を入れた箱が安置されていました。そして神殿まで造り、そこに石の板を収めていたのです。もはや石の板ではなく、私達の心に神様の御心が刻まれているのですよ、とエレミヤは示し、人々を導いているのです。「神の国」が近づいていることを示しているのであります。

 私達の心に、また胸に刻まれているのは主イエス・キリストの十字架であります。十字架は私達の救いであります。教会の屋根の上に十字架を見なくても、教会の中で十字架を示されなくても、十字架は私達の心に、胸に刻まれているのです、それは救いのしるしであります。その救いの十字架を与えてくださったのが主イエス・キリストなのです。神様は旧約聖書以来、歴史を通して人々に救いを与えて来られたのです。しかし、今こそ真の救いを主イエス・キリストによりお与えになったのです。「神の国」を私たちの現実に与えてくださるのです。
 今朝の新約聖書はマルコによる福音書1章12節から15節までですが、イエス様が世に現れる初期の頃が示されています。12節以下の「誘惑を受ける」はイエス様の40日間の荒れ野の修業です。マタイによる福音書は4章に、イエス様が悪魔から誘惑を受け、その誘惑内容まで記しています。少なくとも三つの誘惑がありました。食べることの誘惑、神様のお守りの誘惑、国々の支配者となる誘惑等です。いずれもイエス様は悪魔、サタンの誘惑を退けていることを示しています。ところがマルコによる福音書は「サタンから誘惑を受けられた」としか記していません。40日間、荒れ野において様々な誘惑を受けたということです。その誘惑を退けたとか、サタンに勝った等とは記していません。「誘惑を受けた」としか記していないのです。人間として生きる様々な誘惑は、この世に現れたイエス様の人間としての課題でもあると言うことです。サタンや悪魔はこの時ばかりではなく、十字架に至るまでサタンの誘惑があったということです。マタイのように悪魔をやっつけてから人々の前に現れたというのではなく、十字架に至るまで悪魔がつきまとって、常に誘惑していたということをマルコは示しているのです。
 イエス様がご受難を受けることを弟子たちに話したとき、それを聞いたペトロはイエス様をわきへお連れしていさめ始めたのであります。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言うのでした。それに対してイエス様は、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われたのであります。まさにペトロの言葉は悪魔の誘惑であったのです。さらに弟子たちと最後の晩餐をしてからゲッセマネの園に行きお祈りしています。十字架の受難が迫っているときです。その時、イエス様はご自身、自分との闘いのうちにお祈りしています。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈っています。これは悪魔の誘惑でもあるのです。その祈りをささげた後に、「しかし、わたしの願いどおりではなく御心のままに」とお祈りしています。この時も自分の中にある悪魔と戦いながら、御心に従う祈りをささげているのです。マルコによる福音書がマタイによる福音書のように、悪魔やサタンの誘惑内容を記さないで、「サタンから誘惑を受けた」としか記さないのは、誘惑は十字架に至るまでついて回るからなのです。
 主イエス・キリストはご自身の誘惑に打ち勝ち、人間の奥にある誘惑をすべて十字架により滅ぼされたのです。私達は自己満足、他者排除をもつものです、それらが誘惑を引き起こしているのです。イエス様の十字架は私たちの罪の姿を滅ぼされ、「神の国」へと導いてくださるのです。マルコによる福音書は、イエス様が悪魔の誘惑を受けた後、イエス様の「神の国近宣言」を示しています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言されたのです。悪魔の誘惑はいつもありますが、イエス様の御心より、神の国へと導かれるのです。

 今は2018年と言う年ですが、西暦はイエス・キリストが出現してから始まっています。しかし、今は誤差があって、イエス様のお生れになったのは紀元前になってしまうのですが、西暦はキリスト歴と言われるようにイエス・キリストをもって始まっています。そうすると救いの創始者は2018年間、私達を救いへと導いておられるのです。今後も救いの基として後世に示されていくでありましょう。私達にとって普遍的な救いは十字架であると言うことです。十字架が私たちを「神の国」へと導いているのです。
 イエス様が人々に現れたとき、まず「神の国近宣言」をされました。イエス様が現れたことで「神の国」が実現しているのですが、人々が真に「神の国」に生きるために十字架にお架りになるのであります。そこで初めて人々が「神の国」に導かれるのです。イエス様は「神の国近宣言」をされて、ひたすらその道を歩まれています。十字架に至るまで悪魔の誘惑を受け続けていますが、「神の国近宣言」は消えることなく、十字架によって「神の国」が実現したのでした。
 前任の大塚平安教会時代、12月の終わり頃に一人の婦人から電話がありました。教会と同じ町に住んでいるのですが、クリスチャンでありながら教会に出席できず、心苦しく思っていたということです。所属教会は川崎にある教会でした。綾瀬市に住むようになり、同じ町に教会があるのだから出席したいと思っていたのです。新年になりましたら出席させてください、と言われるので喜んでお応えしたのでした。そして新年礼拝には出席され、それからは毎週礼拝に出席されるようになりました。婦人会の皆さんともお交わりを深めつつ歩まれるようになったのです。年末に、新年になりましたら礼拝に出席しますという「礼拝出席宣言」は今に至るまで導かれているのです。イエス様が悪魔の誘惑を受けながら「神の国」を実現されたように、婦人の「礼拝出席宣言」は祝福されているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。救いの十字架を仰ぎ見つつ歩ませてくださり感謝致します。いよいよ十字架を負って歩ませてください。主イエス・キリストの御名によりお祈りします。アーメン。