説教「一歩を踏み出す力があたえられ」

2018年2月11日、横浜本牧教会 
降誕節第7主日

説教・「一歩を踏み出す力が与えられ」、鈴木伸治牧師
聖書・ヨナ書1章7節-2章1節、
    マルコによる福音書4章35-41節
賛美・(説教前)讃美歌21・287「ナザレの村里」、
    (説教後)讃美歌21・463「わが行くみち」

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 2月の歩みをしていますが、まだまだ寒さが続き、春の到来を待ち望んでいる状況です。インフルエンザも流行っており、幼稚園では、クラスで感染が多い場合には学級閉鎖をしています。前週の7日の合同礼拝は、やはりお休みが多く、いつもは礼拝堂がいっぱいなのですが、後部座席が空いているほどでした。もう春の兆しを示されていますが、暖かくなって、日々元気に過ごすことを願っています。
 本日は日本の暦では「建国記念の日」とされています。しかし、キリスト教は意味のない建国ではなく、この日を「信教の自由を守る日」としてこの日を迎えています。今朝も礼拝に招かれ、皆さんと一緒に礼拝をささげる導きをいただいています。どのような状況になりましても、信仰の人生を歩みたいのであります。そして今週の2月14日は「灰の水曜日」であります。キリスト教の暦は、クリスマスは12月25日と定められていますが、イースター・復活祭、ペンテコステ聖霊降臨日は毎年異なります。その年のイースターが異なるからです。イースター春分の日のあとの最初の満月後、最初に迎える日曜日をイースターとしています。今年は4月1日がイースターですから、それから40日前から受難節が始まります。そうすると今年は2月14日が「灰の水曜日」になります。この日から四旬節、受難節、レントになります。イエス様の十字架への道を心に示されつつ歩むのです。聖書の世界、昔から悲しみを現すことで、灰を頭に被ることになっています。イエス様のご受難を受け止めることでもあるのです。それで「灰の水曜日」と称しているのです。今朝はまだ降誕節ですが、次週から受難節礼拝です。主イエス・キリストの十字架によって、私たちは新しい一歩を踏み出す力が与えられているのです。新しい一歩は、自分では考えられない新しい一歩となるのであります。
 今朝は「一歩を踏み出す力が与えられ」るのでありますが、「2月14日の導き」との説教題でもよかったかなと思います。2月14日から、いよいよ受難節です。イエス様のご受難は私を救うためであることを示されつつ歩むのです。ところで、この2月14日はバレンタインデーとして知られています。イエス様のご受難どころか、チョコレートの思いが深まるのですが、バレンタインさんもイエス様のご受難によって新しい「一歩を踏み出す力が与えられ」たのです。バレンタインさんについては、伝説的にいろいろと語り継がれています。その頃はローマ帝国でありました。ローマは戦いによってヨーロッパを支配していくのですが、そのために兵力が必要です。ところが若者は戦争に行きたがらないのです。若者が結婚すると戦争にはいかないということです。それでローマ帝国は若者の結婚を禁止したというのです。しかし、バレンタインさんはカトリック教会の神父さんで、若者たちの結婚をひそかに執り行ったというのです。それで処刑されたということです。バレンタインさんが愛を育んでくれたというので、愛を現す日となっているという説明があります。しかし、私は違った説明を信じています。もう大分前のことですが、日本基督教団教育委員会が「キリスト教例話集」を発行しました。その中に紹介されているバレンタインさんのことです。バレンタインさんは修道院に入りました。他の修道僧たちは、歌が上手だとか、素晴らしい絵を描くとか、その特技でイエス様の証しをしていました。しかし、バレンタインさんは何も特技がないので悲しんでいました。ところが、ある日、知り合いに出した手紙がとても喜ばれたことを知り、これからは手紙を書いてイエス様の証しをすることにしたのです。手紙にはイエス様の愛をいつも書いていました。バレンタインさんが亡くなった後、人々はバレンタインさんの愛の手紙を忘れませんでした。という説明です。自分は何もできないと思っていたバレンタインさんの背中を押してくれたのはイエス様でありました。バレンタインの新しい一歩が、大きな証となったということです。
 2月14日ということで、前任の教会時代のことですが、一人の兄弟のことを思い出します。召天された日が2月14日ですので、バレンタインデーを示されながら、その兄弟の証しを示されています。その方は海上保安庁の職務を担っていました。ですから職務を担っている頃は、ほとんど礼拝には出席していませんでした。そして、定年で退職され、それからは礼拝に出席されるようになりました。今まで、ほとんど礼拝に出席されていませんでしたので、どのような方なのか存じませんでした。ある礼拝の時です。礼拝が終わりますと同時に、立ち上がり、「皆さん、私が示された聖書の言葉を聞いてください」と言い、マタイによる福音書5章のイエス様の山上の説教の示しを、朗々とお読みになるのです。礼拝に出席された皆さんは、礼拝が終わり立ちかけたのですが、また座り、その方の聖書朗読を聞くことになるのです。山上の説教の部分を読み進めている訳ですから、なかなか終わらないのです。それで、牧師は「分りました。その辺にして、また次にお読みください」と言い、ようやく終わることになるのです。毎週ではありませんが、おりに触れて聖書の証しをすることになるのです。またか、と思いますが、この方にとって新しい一歩、皆さんの前で証しをする力が与えられているのです。
 新しい一歩がイエス様の十字架によって与えられているのです。受難節を迎えるにあたり、私たちもイエス様の十字架によって、新しい一歩を導かれたいのです。

 新しい一歩を踏み出すことは、聖書はいろいろな人を示しています。自分の力ではない、神様の導きをいただいて、新しい一歩を踏み出した人として、今朝は旧約聖書ヨナ書を示されています。ヨナ書は物語でありますが、預言書として示されています。「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている』」と神様はヨナに言われています。このヨナ書は聖書の民ばかりでなく、すべての国の人々が神様のお心に生きることの示しであります。ニネベはアッシリア帝国の大都市でありました。その大都市が悪に染まっているので、神様はヨナを通して神様の御心を示し、お救いになろうとしているのであります。ところが神様のご命令をいただいたヨナは、そのご命令を不服とし、ニネベではない別の方角に向うのであります。するとヨナが乗っている船が、海が大荒れになり、今にも沈みそうになるのであります。その時、ヨナは船底に寝ているのでした。船長はヨナをたしなめ、こんなに船が沈みそうになっているのに、寝ているとは何事か、と言われるのでした。船の人々は船が危なくなっているのは誰かのせいなので、くじを引いて誰であるかをはっきりさせることにしました。くじはヨナに当たりました。ヨナはそこで告白します。海が大荒れになっているのは自分のためであると言いました。神様のご命令から逃げたからであります。だから自分を海の中に放り投げてくれと言います。船の人たちは躊躇するのですが、ヨナの申し出のとおり、ヨナを大荒れの海の中に放り込みます。すると大荒れがぴたりと止まり、海は静まったのであります。海に投げ込まれたヨナを大きな魚が飲み込んでしまいます。
 そこで今朝の聖書になります。ヨナは三日三晩、魚のお腹の中で過ごします。そしてヨナはそこで悔い改め、神様のご命令に従う決意をいたします。すると大きな魚はヨナを吐き出します。そこがニネベの大都市でした。ヨナは神様の御心を示し、悔い改めるよう人々を諭します。するとニネベの大都市の人々は一斉に悔い改めるのであります。王様自身も悔い改めるのでした。悔い改めたニネベの大都市の人々に対して、神様は審判を与えず、救いを与えたのであります。神様の救いは諸国の人々に与えられているのであります。そのために神様はヨナに使命を与えました。ヨナはそのご命令から逃れようとしますが、新しい一歩を踏みだす力が与えられたのです。旧約聖書にはいろいろな人々が登場しますが、いずれも気を弱くしている人に、神様が力を与え、新しい一歩を踏み出しているのです。神様のお導きは、私達を新しい一歩を踏み出させてくださっているのです。

 新約聖書も主イエス・キリストにより新しい一歩を踏み出す人々を示しています。マルコによる福音書は4章においてイエス様の教えが記されています。今までイエス様のお話を示されていたのですが、その後、イエス様と共に湖の向こうへ行くことになりました。ところが船を進めていると突風が起こり、船は波をかぶって、水浸しになるほどでありました。しかし、イエス様は船の艫の方で枕をして寝ておられました。それで、弟子達は寝ているイエス様を起こします。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言うのです。するとイエス様は起き上がり、風を叱り、湖に、「黙れ、静まれ」と言われました。すると、風はやみ、すっかり凪になったのであります。その時イエス様は弟子たちに言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われたのであります。「まだ、信じないのか」と言う言葉はとても重い言葉であります。今まで神様の御心,お導きを話されてきたのです。「まだ信じないのか」とイエス様は言わなければならないのです。神様の力、神様の導きを示されてきたのです。今朝の聖書の前では、「種を蒔く人のたとえ」、「からし種のたとえ」を示し、さらに病気の人を癒したり、大いなる業を示されていたのです。そのように教えられ、示されながらも、弟子達は「まだ信じない」のであります。繰り返しイエス様は弟子たちに神の国の力、導きを示されているのです。自分が導きをいただいていることを悟ることなく、現実の困難に音をあげてしまうのであります。これだけ御心を示しても「まだ信じないのか」と言われています。弟子達は湖の奇跡を示され、非常に恐れつつ、「いったい、この方はどなただろう。風や湖さえも従うではないか」と言うのでありました。思いもよらない奇跡を行われるこの方はどなたなのだろう、との弟子達は改めてイエス様を見たのであります。「まだ信じないのか」と言われて、イエス様のお弟子さんたちは、「一歩を踏み出す力が与えられ」たのであります。

 先ほども示されましたが、2月14日は「灰の水曜日」であり、またバレンタインデーでありますが、この日に召天された方のお証を示されました。やはり2月14日に召天された方がありました。この方のお子さんは教会の幼稚園を卒業されました。その後、教会にも教会学校にも出席していませんが、大学受験の時になって牧師を訪ねて来たのです。浪人中であり、ある日、なんとなく牧師を訪ねて来たのです。勉強に疲れたといい、何かと、いろいろの話しをして帰りました。その後も勉強に疲れたといいつつお話しに来られたのです。大学受験に合格したら教会に出席するとまで言うようになりました。そして、春になり、大学の入学試験に臨みました。合格しました。合格したら教会に行くと言っていたのに来ないので、電話してみました。そうしましたら腰痛で入院しているということでした。それでお見舞いに行ったのですが、転院したというのです。腰痛と診断されて入院していたのですが、腰の痛みが激しくなり、横浜市大病院に転院しました。すぐさま手術が行われましたが、もはや手遅れであったのです。腰痛と診断されましたが、実は腰のあたりに腫瘍があり、手術しましたが、下半身麻痺になってしまったのです。その彼をお見舞いするようになりました。毎週、木曜日の午後にはお見舞いし、いろいろとお話をするようになりました。もちろん、当初はショックで希望を無くしていましたが、次第に希望を持ち始め、車椅子の運動選手になることを目指すようになりました。お見舞いでは聖書やキリスト教について、むしろ彼が求めるのでお話しをしていました。すると、彼は信仰へと導かれたのです。退院したら教会で洗礼を受ける決心までしたのです。ところが病状は重くなるばかりであり、腫瘍も転移していました。それでも彼は退院したら教会で洗礼を受けることを望んでいたのです。そのとき、彼のお父さんが、この状態では退院できないと示され、洗礼を希望しているのであれば、この病室で受けることを勧めたのです。そのとき、お父さんは息子さんを励ますために、「自分も一緒に洗礼を受けるから、ここで洗礼を授けてもらおう」と勧めたのでした。洗礼は教会でと願っていた彼ですが、お父さんの励ましにより病室で受けることになりました。それが5月のペンテコステの日で、約一か月後には召天されたのでした。ここでお話をしているのは、召天された彼ではなく、彼のお父さんです。信仰を持っていたのではありません。病状が悪化する息子さんを見つめて、息子のために、自分もキリスト教の洗礼を受ける決心をしたのです。今まで礼拝に出席していたのではありません。何だかわからない世界に、息子さんのために、一歩を踏み出したのであります。この一歩は、このお父さんの深い信仰へと導かれたのでした。以後、礼拝にはご夫婦で出席するようになり、信仰の月刊誌「信徒の友」を隅々まで読み、至るところに赤線を引いていました。その後、教会の役員にもなっています。やがてお母さんも洗礼を受け、ご夫婦で信仰生活をされるようになったのです。そして召天された日が2月14日でありました。
 2月14日は「一歩を踏み出す力が与えられ」る日として、お二人のお証を示されています。新しい一歩を踏み出すために、神様は私たちに今の状況を与えてくださっているのです。神様がお導きくださっていますから、心配しないで一歩を踏み出すことを示されました。キリスト教の世界に一歩を踏み出す力が与えられています。2月14日はイエス様が私たちをお救いになるためにご受難を歩み始められたのです。イエス様が私たちの一歩を踏み出させるために十字架の贖い、救いを与えてくださったのです。
<祈祷>
聖なる神様。イエス様が私たちの新しい一歩を踏み出せるために、ご受難の道を歩まれました。感謝致します。いよいよ祝福の歩みへとお導きください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。