説教「風はやみ、導かれ」

2022年2月27日、六浦谷間の集会

降誕節第10主日」     

                      

説教・「風はやみ、導かれ」、鈴木伸治牧師

聖書・ヨナ書1章13節-2章1節

   ヘブライ人への手紙2章1-4節

   マルコによる福音書4章35-41節

賛美・(説教前) 讃美歌21・287「ナザレの村里」

   (説教後) 讃美歌21・463「わが行くみち」

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 2月の歩みをしているうちにも、すでに2月も終わりますが、まだまだ寒さが続き、春の到来を待ち望んでいる状況です。新型コロナウィルス感染予防は続きますが、春の到来は明るい希望でもあります。春になるころ、春一番という風が吹きまくることになっています。毎日、朝起きると天候が気になり、外の状況を確認したり、天気予報等で確認したりします。今は寒さが気になりますが、今日はお天気なのか、雨なのか、確認しながら過ごしているのです。天気予報では風の予報もしていますが、風の予報はあまり気にしてないようです。しかし、春になるとき春一番と言われる風が強く吹き、困ることがあります。帽子が飛ばされたり、家の周りに置いていたものが吹き飛ばされたり、結構な被害が出て来るのです。しかし、その後は穏やかな日々となり、春の日差しを喜ぶようになるのであります。そういう意味では、今の季節は一番天気が気になる時なのでしょう。

 自然というものは通常は穏やかであり、自然の移ろいを喜んでいるのですが、その自然が荒れる時があるのです。雨は雨でも大雨となり、川の氾濫、土砂くずれ等の災害を起こします。今は雪の季節で、特に日本海側は大雪となっており、物流が止まってしまうという災害が起きるのです。また海は、いつもは波は静かですが、大風で荒れ狂うこともあり、地震により洪水がおき、これも大変なことになるのです。このように私達は自然の変化とともに歩んでいますが、その中にあって信仰が導かれていることを今朝の聖書は示しているのです。「風はやみ、導かれ」ているのです。

 「風はやみ、導かれ」ている人々、聖書はいろいろな人を示しています。自分の力ではない、神様の導きをいただいて、新しい一歩を踏み出した人として、今朝は旧約聖書ヨナ書を示されています。ヨナ書は物語でありますが、預言書として示されています。「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている』」と神様はヨナに言われています。このヨナ書は聖書の民ばかりでなく、すべての国の人々が神様のお心に生きることの示しであります。ニネベはアッシリア帝国の大都市でありました。その大都市が悪に染まっているので、神様はヨナを通して神様の御心を示し、お救いになろうとしているのであります。ところが神様のご命令をいただいたヨナは、そのご命令を不服とし、ニネベではない別の方角に向うのであります。するとヨナが乗っている船が、海が大荒れになり、今にも沈みそうになるのであります。その時、ヨナは船底に寝ているのでした。船長はヨナをたしなめ、こんなに船が沈みそうになっているのに、寝ているとは何事か、と言われるのでした。船の人々は船が危なくなっているのは誰かのせいなので、くじを引いて誰であるかをはっきりさせることにしました。くじはヨナに当たりました。ヨナはそこで告白します。海が大荒れになっているのは自分のためであると言いました。神様のご命令から逃げたからであります。だから自分を海の中に放り投げてくれと言います。船の人たちは躊躇するのですが、ヨナの申し出のとおり、ヨナを大荒れの海の中に放り込みます。すると大荒れがぴたりと止まり、海は静まったのであります。海に投げ込まれたヨナを大きな魚が飲み込んでしまいます。

 そこで今朝の聖書になります。ヨナは三日三晩、魚のお腹の中で過ごします。そしてヨナはそこで悔い改め、神様のご命令に従う決意をいたします。すると大きな魚はヨナを吐き出します。そこがニネベの大都市でした。ヨナは神様の御心を示し、悔い改めるよう人々を諭します。するとニネベの大都市の人々は一斉に悔い改めるのであります。王様自身も悔い改めるのでした。悔い改めたニネベの大都市の人々に対して、神様は審判を与えず、救いを与えたのであります。神様の救いは諸国の人々に与えられているのであります。そのために神様はヨナに使命を与えました。ヨナはそのご命令から逃れようとしますが、新しい一歩を踏みだす力が与えられたのです。旧約聖書にはいろいろな人々が登場しますが、いずれも気を弱くしている人に、神様が力を与え、新しい一歩を踏み出しているのです。神様のお導きは、私達を新しい一歩を踏み出させてくださっているのです。

 新約聖書も主イエス・キリストにより新しい一歩を踏み出す人々を示しています。マルコによる福音書は4章においてイエス様の教えが記されています。今までイエス様のお話を示されていたのですが、その後、イエス様と共に湖の向こうへ行くことになりました。ところが船を進めていると突風が起こり、船は波をかぶって、水浸しになるほどでありました。しかし、イエス様は船の艫の方で枕をして寝ておられました。それで、弟子達は寝ているイエス様を起こします。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言うのです。するとイエス様は起き上がり、風を叱り、湖に、「黙れ、静まれ」と言われました。すると、風はやみ、すっかり凪になったのであります。その時イエス様は弟子たちに言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われたのであります。「まだ、信じないのか」と言う言葉はとても重い言葉であります。今まで神様の御心,お導きを示されてきたのです。「まだ信じないのか」とイエス様は言わなければならないのです。神様の力、神様の導きを示されてきたのです。今朝の聖書の前では、「種を蒔く人のたとえ」、「からし種のたとえ」を示し、さらに病気の人を癒したり、大いなる業を示されていたのです。そのように教えられ、示されながらも、弟子達は「まだ信じない」のであります。繰り返しイエス様は弟子たちに神の国の力、導きを示されているのです。自分が導きをいただいていることを悟ることなく、現実の困難に音をあげてしまうのであります。これだけ御心を示しても「まだ信じないのか」と言われています。弟子達は湖の奇跡を示され、非常に恐れつつ、「いったい、この方はどなただろう。風や湖さえも従うではないか」と言うのでありました。思いもよらない奇跡を行われるこの方はどなたなのだろう、と弟子達は改めてイエス様を見たのであります。イエス様のお弟子さんたちは、「一歩を踏み出す力が与えられ」たのであります。

  自然の中にあってお導きくださっているイエス様のことについては、もう一つの記録があります。マルコによる福音書の場合は6章46節以下にされています。海の上を歩くイエス様としてマタイもヨハネ福音書も記しています。いずれもパンの奇跡のあとです。5千人の人々に五つのパンで養ったというお話です。これは驚くべきことでした。たった五つのパンしかなかったのに、そこにいた5千人の人々のお腹を満たしたのですから、お弟子さん達ばかりではなく多くの人々がイエス様のお導きを示されたのです。その後、お弟子さん達は船に乗って向こう岸に渡ろうとします。イエス様は山に行かれ、しばしお祈りをしたのでした。お弟子さん達が船を漕いでいると逆風が吹いてきて前に進められなくなりました。漕ぎ悩んでいたのです。そこへイエス様が逆風の中、荒れ狂う波の上を歩いて通り過ぎようとしていたのです。お弟子さん達は幽霊だと思い恐怖の声をあげました。その時イエス様は、「安心しなさい。わたしだ」と言ってお弟子さん達を落ち着かせ、お導きになられたのでした。

 これらの聖書は、自然の荒れ狂う中でも、イエス様が厳然とおられて私達を導いてくださっていることを示しているのです。

 私達は日々、健康が与えられ、何事もなく過ごすことが願いです。しかし、いろいろなことを受け止めながら歩むことが私たちなのです。健康な身体はいつも健康とは限りません。病があり、どこかの痛みが出て来るのです。だから、すぐにも治りたいと思いますが、そういうわけにもいきません。そのような弱さを持つとき、すぐにも治る道が求められるのです。一つは宗教がその役目になっています。信仰を持つことによって、病が癒されるということです。特に新興宗教は癒しと密接に結びついているのです。この宗教を信じれば治るというのです。病院の待合室にいたりすると、いつの間にか近づいてきた人が、宗教の入会を勧誘するのでした。この宗教に入れば治るとのことです。病気と宗教は結びついているのです。

 どのような状況でも、その状況を受け止めつつ歩むこと、それが宗教の意味なのです。祈れば治るという短絡的なことではなく、もちろん治ることが願いですが、この現実を受け止め、その現実を共におられてお導きくださっているのが主イエス・キリストである、という信仰なのです。私達は目が見えると言っても、本当に見ているか。自分の好みしか見ていないのです。身体の痛みが治ることと共に、どのような状況であろうとも、喜びつつ過ごすことが、癒された身体なのです。ひと時、風が吹いて悩みますが、その風を受け止めて歩み、導かれて祝福の歩みとなるのです。

<祈祷>                                                                                                                       

聖なる神様。イエス様が新しい一歩をお導きくださり感謝致します。十字架を仰ぎ見つつ歩ませてください。キリストの御名により。アーメン。

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