説教「新しい導き」

2021年4月18日、六浦谷間の集会

「復活節第3主日」       

                      

説教・「新しい導き」、鈴木伸治牧師

聖書・列王記上17章17-24節

   コロサイの信徒への手紙3章1-11節

   マタイによる福音書12章38-42節

賛美・(説教前)讃美歌21・326「地よ、声たかく」

   (説教後)544「イエス様が」

 

 4月の歩みをしていますが、この4月は新年度であり、新たなる歩みであります。学校、幼稚園も新学期ということで、新しいお友達を迎えての歩みが始まりました。今まで、幼稚園の園長として、新しく迎えた子どもたちと歩みだすわけでありますが、小さい子どもたちが幼稚園に慣れるまで、いろいろなむ取り組みをしながら歩むことになるのです。子どもたちも入園を心に示されてきたのですから、不安を持ちながらも次第に新しい歩みを喜ぶようになるのであります。今年は4月と共に始まりが導かれていること、喜ばしいことです。昨年はコロナ問題で、感染予防のためにも、4月からの始まりが出来なく、6月になってようやく始まることができたのでした。新しい歩みが始まりました。新しい環境、新しい歩みを喜びつつ進めたいのであります。

 新年度は生活上、必ずめぐってくることであり、いつも環境を整え、新しい歩みに馴染むのです。しかし、そのような人生の歩みの中で、新しいお導きがあります。この世の新年度とか、生活上の取り組みではなく、私達の人生そのものの「新しい導き」をいただいているのです。それは信仰の導きですが、イエス・キリストの復活が、私達を新しい歩みへと導いてくださるということです。今年は4月4日がイースター、イエス様の復活祭でした。復活されたイエス様は40日間、復活のお体を人々に示されたのです。お弟子さんのトマスさんは、他のお弟子さんたちが復活のイエス様にお会いしたと言われますが、自分がお会いしてないので、お弟子さんたちの証言を否定するのです。その後、トマスさんがいるお弟子さん達に復活のイエス様が現れました。イエス様はトマスさんに、十字架の傷跡を示しながら、触ってみなさいと言われました。トマスさんは触ることなく復活のイエス様を信じて告白するのでした。「わたしの主、わたしの神よ」と告白するトマスさんに、イエス様は「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と言われたのであります。

 聖書は神様の新しいお導きを証しするのですが、本日は、旧約聖書に登場する預言者エリヤについて記しています。エリヤが登場したころのイスラエルの王様はアハブであり、彼ほど悪い王様はいないとまで言われています。偶像礼拝を行い、偶像の神殿まで造り、人々に偶像礼拝をさせたのであります。神様はこの状況を深く受け止め、審判を与えます。すなわち、イスラエルにはしばらくの間、雨が降らないということであります。神様はエリヤをサレプタに行かせます。そこには一人の女性とその息子がいました。エリヤはその女性に水を所望します。そして、付け加えてパンも要求するのでした。それに対してサレプタの女性は「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壷の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」と言うのです。それに対してエリヤは、「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持ってきなさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい」と言うのです。女性は一握りの小麦粉とわずかな油しか無いと言っているのに、まず私のために作りなさいと言っているのですから、人道的にもよろしくないことを要求しているようです。しかし、女性はエリヤの言うとおりにしたのであります。そして女性と子供は食べるものが与えられ、生きる者へと導かれたのです。

 このエリヤ物語は18章で始まるエリヤと偶像の預言者の戦いの導入の部分なのであります。偶像の預言者たちは権力を欲しいままに振舞っています。それに対して、一人の女性とその息子は、もはや一握りの小麦粉しかありません。死ぬのを待つばかりの親子にエリヤが遣わされたということです。ここに聖書の救済があるのです。女性は人々から相手にされない存在でした。死を待つばかりでありました。その女性が預言者エリヤを受け入れたということです。およそ権力には無縁であり、社会の中にあって忘れられているような存在でありました。しかし、預言者エリヤを受け入れたとき、それは神様のお導きの知恵が与えられたということですが、神様の恵みと力がこの親子に与えられたのです。今朝の聖書は、神様の恵みと力がこの親子に現されたことを示しているのです。

 神様は苦しむ人、苦境に生きる人、悲しむ人を決して見過ごしにはいたしません。新しい導きを与え、世の人々から忘れられている存在をしっかりと受け止め、導いてくださるのであります。

 旧約聖書のメッセージは、一人の存在に神様が新しい導きを与え、知恵を与え、顧みてくださることであります。そしてそのメッセージを確実に示しているのが新約聖書の主イエス・キリストの救いなのであります。

 サレプタの女性は聖書の人ではなく、外国の人でありました。外国の人をも顧みてくださる神様が証されていたのであります。主イエス・キリストもカナンの女性を顧みています。カナンの女性の娘が悪霊に取り付かれて苦しんでいます。それで、このカナンの女性はイエス様に懇願するのです。イエス様はこのカナンの女性の信仰を祝福しました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と言われたとき、その娘の病気が癒されたと聖書は示しています。(マタイによる福音書15章21節以下)。

 このようにして主イエス・キリストは救いを人々に与えています。しかし、人々は真にイエス様に求めるのではなく、保証を求めているのであります。今朝の聖書、マタイによる福音書12章38節以下は、人々がしるしを欲しがることが記されています。イエス様に「先生、しるしを見せてください」と言うのです。イエス様に感心を示しているようでありますが、それには「しるし」が必要なのであります。保証となるものがあれば、イエス様を信じると言うことであります。直接、主イエス・キリストを信じるのではなく、むしろしるし、保証を信じるという姿勢なのです。それに対して、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」とイエス様は言われました。

旧約聖書におきまして、ヨナは神様のご命令を受け、ニネベの都に行かなければなりません。ニネベは悪徳に栄え、このままでは滅びるのであります。神様はヨナを預言者とし、悔い改めを導く使者としたのであります。ところがヨナは、この働きを不本意とし、ニネベ行きの船ではなく、別の方角に向かう船に乗ってしまうのでした。神様はヨナが乗る船に大波を与え沈みそうにさせます。このことで、ヨナは悔い改め、神様の御心に従うのでした。ニネベの人たちは心から悔い改めたのであります。これが「ヨナのしるし」であります。主イエス・キリストはニネベの人たちが悔い改めたのに、人々が神様のお心に反する生き方をしており、救い主が現れたのに、そのメッセージを聞こうとしない人々を示しているのです。

南の国の女王についても示されています。旧約聖書においてダビデの後を継いだソロモンは知恵のある存在でした。その知恵は神様のお心でありました。その知恵を求めて外国人の女王がやってきたのであります。ソロモンが神様の知恵に満たされていたとすれば、主イエス・キリストは神様の救いとして世に現れた方でありました。今や現実に救い主が現れているのに、しるしを求め、イエス様を信じることにおいて保証を求めている人々でありました。神様のお導きの知恵をいただくこと、それは新しいお導きに委ねることであります。イエス・キリストを信じる信仰であります。

 神様は一人の存在に新しい命を与えられています。主イエス・キリストは新しい命を与えるために現れたのであります。特に社会の中で弱き存在、小さき存在が新しい命を与えられ、力を与えられたのであります。今朝は「新しい導き」として示されていますが、説教で示されることは、いずれも主イエス・キリストの十字架の贖いであります。毎週、いろいろな題を付けて聖書から示されていますが、示されることは一つであります。主イエス・キリストの十字架による救いをいただくことなのです。十字架の救いを信じることが、神様のお導き、新しい導きをいただくことなのです。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力なのです。」(Ⅰコリント1章18節)と示されていますが、この愚かな十字架こそ神様のお導きの知恵なのです。「それは神の知恵にかなっています。神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救われるのです」と示されています。

<祈祷>

聖なる御神様。十字架によりお導きを与えてくださり感謝いたします。お導きにより豊かな祝福の人生となりますよう。イエス様のより、アーメン。

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