説教「生命の導き」

2018年2月4日、六浦谷間の集会 
降誕節第6主日

説教・「生命の導き」、鈴木伸治牧師
聖書・列王記下4章32-37節
    ヤコブの手紙5章13-20節
     マルコによる福音書2章1-12節
賛美・(説教前)讃美歌54・124「みくにをも宝座をも」、
    (説教後)讃美歌54・520「しずけき河のきしべを」

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 今は横浜本牧教会付属の早苗幼稚園の園長の職務についています。この横浜本牧教会には2010年3月に大塚平安教会を退任したあと、その4月から9月までの半年間でしたが教会の代務者と幼稚園の園長を担っています。ですから2016年10月から再び幼稚園の園長に就任しました。次の牧師が就任するまでです。教会は牧師が幼稚園の園長を兼任することになっているのです。その牧師が今年の4月から就任が決まり、3月で職務が終わることになりました。結局、横浜本牧教会には2年間関わったことになります。2年間でありますが、存じ上げている方が天に召されているのです。1月29日には教会員の小角玲子さんが天に召されました。2016年10月に園長に就任したときにはお元気でした。教会では第二日曜日に説教を担当させていただいていますので、礼拝では小角さんとも親しくお交わりをしていました。しかし、その後、お姿が見えなくなりました。入院されていることを示されたのでした。お手紙をいただいていましたので、いずれお見舞いに伺おうと思っていました。しかし、面会もできないようでした。膵臓がんということでした。横浜本牧教会には、忘れられない思い出があります。代務者に就任してまもなく、教会員の婦人が来られ、お祈りしていただきたいということでした。お連れ合いが余命を宣告されているとのことでした。そして、お訪ねし、お連れ合いにはイエス様に委ねることをお話ししたのでした。お連れ合いは洗礼を受けました。その後、危篤ということで病院に行き、枕辺でお祈りをしました。そのとき、お祈りが終わると、がくんとベッドに沈んだようでした。力が抜けて、イエス様にすべてを委ねられたのです。その後、召天されたのでした。
 今朝は日本基督教団の聖書日課による説教ですが、癒しの示しとなっており、私達は病気になれば、神様に癒しのお願いをいたします。私達はいつも神様にお祈りしていますが、病となり、困難な状況になれば、いっそうお祈りが深まるのではないでしょうか。大塚平安教会在任中も病の人の求めに応じてお祈りに駆け付けたことがしばしばありました。私が神奈川教区議長を担っている頃のことです。教区議長は日本基督教団の常議員会に陪席しなければなりません。その常議員会が開催しているとき、自宅から携帯電話に連絡がありました。教会員の夫人が入院されており、明日は手術だと言うのです。牧師先生にお祈りしていただきたいと思って連絡しました、とうことでした。その方は入院したことも、病名についても、今まで連絡されませんでした。従って、牧師は知らなかったのです。しかし、手術前でもあり、不安が募って牧師に連絡したのでしょう。常議員会開催中でしたが、事情を述べて退席し、すぐさま病院へ直行しました。時間も午後9時頃になっていました。面会時間も過ぎておりましたが、面会を許されました。そして姉妹のために神様にお祈りしたのでした。手術は無事に終わり、その後退院されてお元気に過ごすようになりました。
 もう一つの思い出あります。やはり一人の姉妹が病となり、明日は手術と言うことになりました。その前日、いろいろと牧会的な職務に追われ、病院に行くことができませんでしたが、ようやく夕刻になって時間が取れたので病院に伺うことができました。すると面会室でその姉妹がお友達数人とお話していました。私の顔を見た姉妹が、明るい表情で迎えてくれました。その時、「あなたの教会の牧師はお祈りに来ないのか」と言うようなことを言われていたようです。丁度その時に私が伺ったものですから、本当に喜びでありました。お友達は他の教会の方で、牧師が来てお祈りすべきだと思っていたのでしよう。病気の人を訪ねて牧師がお祈りすること、当り前であると思っているのです。もちろん牧師もそのように思っていますが、当たり前以上のことでなければなりません。当たり前ではなく、病の人と牧師が当たり前を超えて神様にお祈りしなければならないのです。
 今朝は癒しを示され、信仰に基づくお祈りについての示しをいただきます。

 病む者を癒してくださるのは神様の力であります。そして主イエス・キリストが人々に癒しを与え、導きを与えておられます。今朝は「癒しの主」の示しをいただきたいのであります。主イエス・キリストは私たちの癒しの主であることを示されるのであります。
 旧約聖書は神の人といわれるエリシャの癒しが示されています。ある日、エリシャがシュネムという場所に行きます。シュネムには裕福な夫婦がいて、その婦人がエリシャをもてなすのであります。エリシャはそこを通るたびに彼らの家に立ち寄るようになります。すると、婦人の提案でエリシャ用の部屋を階上に造ることになりました。エリシャが来たときはその部屋で休むことになったのです。エリシャは神の人でもある自分に仕えてくれる裕福な婦人に、神様の御心を伝えることになります。彼らには子どもがいませんでした。あなたがたに子どもが与えられると神様の御心を示すのであります。そして、1年後には彼らに男の子が与えられたのでした。
 今朝の聖書は列王記下4章18節以下であります。裕福な夫婦に与えられた男の子は大きくなりました。何歳になったのかは記されていませんが、この男の子が「頭が痛い」と言い、間もなく死んでしまうのです。婦人は子どもの死を受け止めると、すぐにエリシャのもとに赴きました。そして、エリシャに子どもが死んだことを伝えたのであります。そして、自分と一緒に子どものところに来ていただきたいとお願いするのです。婦人はエリシャに子どもを生き返らせてくださいとも言いません。ただエリシャに苦しい姿を示しているのです。エリシャは婦人と共に子どものところに行きます。子どもはエリシャのために造られた階上の部屋に置かれていました。エリシャはそこで神様に祈り、子どもを生き返らせたのであります。エリシャが「あなたの子を受け取りなさい」と言うと、「彼女は近づいてエリシャの足もとに身をかがめ、地にひれ伏し、自分の子供を受け取って出て行った」のであります。
 聖書はこの婦人が神の人であるエリシャにひたすら心を向けている姿を記しています。エリシャをもてなし、エリシャのために階上に部屋を用意したりします。子供が死ねば、すぐにエリシャのもとに行きます。いろいろと何かを言うのではなく、ひたすら神の人エリシャに心を向けている姿を聖書は証しているのです。まず神の人に心を向けている姿があります。信仰に生きる姿であります。聖書はこの婦人の信仰を示しているのです。生活上のことは導かれていくことを示しているのです。癒しが目的ではなく、神様に心を向け、神様を仰ぎ見つつ生きることです。祝福の歩みが導かれることを示しているのであります。

 新約聖書マルコによる福音書2章1節以下は「中風の人を癒す」主イエス・キリストを示しています。中風と言う言葉は日常の生活ではほとんど使われない言葉です。昔は中気とも言いました。脳梗塞脳出血等により半身不随、手足の麻痺などの状態を中風と言っています。イエス様がカファルナウムの町に来て、ある人の家におりますと、大勢の人々がお話しを聞きにやってまいりました。戸口のあたりまでも人がいます。もはや家の中には入れないのです。そこへ4人の人が中風の人を運んできました。床に寝ているまま連れて来たのでしょう。とにかくこの人をイエス様の前にお連れするということであります。しかし、戸口までも人がいっぱいで入ることはできません。それで4人の人は屋上に上がり、イエス様がおられるあたりの屋根をはがして、そして上から中風の人を床に乗せたままつり下ろしたのであります。5節に示されるように、イエス様はその人たちの信仰を見ました。そして、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。あなたの病は治るといわれたのではなく、罪が赦されるといわれたのであります。このことは、当時の社会の考え方を理解しなければなりません。当時の人々は、病気は罪を犯したためだと考えていたのです。本人が罪を犯したか、家族の者、あるいは先祖が罪を犯したので病気になったとか考えたのです。旧い時代はそのような考えが普通でありました。
 旧約聖書ヨブ記の主題も罪の問題であります。義人ヨブが今までは幸せに生きていますが、突然不幸になります。ヨブ自身も体中の皮膚病になり苦しんでいます。3人の友達が見舞いに来ますが、口をそろえてヨブの罪を指摘するのです。こんなことになったのはヨブが罪を犯したからだと決め付けます。それに対してヨブは、自分は潔白であり、身に覚えのないことであると反論します。そうした論争が続きますが、ヨブは自分の存在そのものが罪に生きる存在であることを示されるのであります。自分の存在の悔い改めに導かれ、再び祝福の歩みとなったことをヨブ記は記しています。因果応報の考えは旧い時代においては普通の考えでありました。新約聖書の時代もそのような考えがあったのです。
 イエス様はこの中風の人に対して、人々が罪のかかわりで見ていますから、「あなたの罪は赦される」と言われたのであります。そこにはユダヤ教の律法学者が数人いました。彼らは心の中で、「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と思うのです。イエス様は彼らの心の中を知り、「なぜそんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われたのであります。ここで言われていることは、分かりにくいと思います。結果がすぐに出る癒しの言葉よりも、罪の赦しの言葉のほうが優しいかも知れません。しかし、イエス様は人々が因果応報的に考えているので、癒しにあたり罪の除去を示したのであります。それに対して神を冒涜するものだというので、改めて「わたしはあなたに言う。床を担いで家に帰りなさい」と言われたのであります。この人は癒されました。もはや罪とのかかわりではなく、主イエス・キリストに全身を向けることで癒しが与えられたのであります。主イエス・キリストに全身を向けたのは4人の人たちであります。人の家の屋根まで剥がすほどイエス様に全身を傾けているのです。そして、中風の人自身もイエス様に全身を傾けていたのであります。イエス様の癒しが豊かに与えられたのであります。
 中風の人が癒されたとき、確かに病気は癒されました。それと同時に、この人はイエス様が「あなたの罪は赦される」と示されたように、自分自身の罪をしっかりと受け止めたのであります。まず自分自身の罪なる姿をイエス様に投げかけているのです。全身が癒されたのであります。まず、自分の姿を神様に投げ出すことであります。そこに癒しが導かれてくるのであります。

 旧約聖書で示されたシュネムに住む夫婦が、ひたすらエリシャに心を向けたのは神様に全身を向けていることを示しているのです。子供が生まれない状況でありましても、エリシャから子供が与えられることを告げられた時、夫人は「私をあざむかないでください」と言いつつ、エリシャの言葉を信じていたのです。そして子供が死んでしまった時にも、エリシャに全身を向けていたのです。神様の御心が示されたのでした。新約聖書の示しは、中風の人は何も言ってはいません。四人の友達がこの人をイエス様のところに連れてきたのです。しかし、この人は何も言っていませんが、友達の助けを借りて全身をイエス様に投げかけているのです。周りの人がいろいろなことを言っているのですが、この人はひたすらイエス様に全身を投げかけていることが示されます。そして、イエス様の祝福をいただいたのでした。ただこの自分を神様に投げ出すこと、それが「生命の導き」なのです。イエス様が「生命の導き」をくださっているのです。
 やはり前任の大塚平安教会時代のことです。一人の姉妹が入院していました。私達が横浜市内にある病院にお訪ねした時、丁度検査の結果を聞きに行くところでした。そしてお連れ合いと共に検査報告を聞きに行きました。私達はしばらく面会室でお待ちしていました。やがてご夫妻は帰ってきました。姉妹の顔色は決して良いものではありませんでした。お連れ合いが私達に向かって、こんな大きな癌が見つかったんですよ、と両手の指で大きさを示されました。姉妹は下を向いてじっとしていました。そこで牧師としてお祈りをささげたのです。御祈りが終わると、牧師先生がこの場にいてくださって、本当に安心できました、と述べられました。死を宣告された思いでいたときに、牧師がいてお祈りをしてくれたということ、平安が訪れたと言われるのです。この姉妹は牧師のお祈りと共に全身を神様に投げかけたのです。言い知れない平安が与えられたのでした。それから数年はお元気に過ごされていましたが、神様のもとに召されていったのです。もはやご御自分の死を悟り、ご家族や教会の皆さんへのお別れの言葉をノートに書き残されていました。神様に全身を投げ出してのご召天です。祝福のうちに喜びつつ天に召されたと示されています。
 肉体の病、身体の状況の癒しがあることを私たちは心から願っています。そして、神様に病を癒してくださいとお祈りしています。神様は私たちのお祈りをお聞きくださっています。そして、それと共に罪の赦しのお祈りを求めておられるのです。そのために神様は主イエス・キリストを十字架で死なしめ、流された血による罪の贖い、赦しを与えてくださったのです。イエス様の十字架の救いを仰ぎ見ましょう。私たちに代わり、罪の体、病の身体、不自由な身体を十字架の血により清めてくださっているのであります。生命の導きを与えてくださるのは、十字架の主イエス・キリストであります。
<祈祷>
聖なる御神様。十字架のイエス様が私たちのすべてをお癒し下さっていますことを感謝いたします。生命のお導きをいただきつつ歩ませてください。主の名によって、アーメン。