説教「目が開ける」

2019年4月28日、六浦谷間の集会 
「復活節第2主日

説教・「目が開ける」、鈴木伸治牧師
聖書・ 列王記下7章1-7節、ヨハネの黙示録19章5-10節
   ルカによる福音書24章28-35節
賛美・(説教前)讃讃美歌21・318「勝利の声を」
   (説教後)讃美歌21・444「気づかせてください」


前週は主イエス・キリストのご復活日、イースターでした。ご復活のイエス様が導いてくださいますので、いよいよ現実を喜びつつ歩みたいのです。私たちはイエス・キリストが十字架により私たちの存在を贖ってくださっていると信じています。それがキリスト教の信仰です。この信仰に立ちつつ、この社会の中で人々と共に歩みたいのです。キリスト教という宗教の世界ですが、宗教は人々が共に歩むことでありますから、排除の姿勢はないはずなのですが、自分が信じている以外の人々を排除する姿が出てくるのです。自分の宗教だけを正しいとし、ほかは間違いであるとすることがあるのです。日本の歴史においても、諸宗教の中には、自分が信じる道を絶対とし、ほかは間違いであると主張しました。今でも宗教によってはそのような傾向を持っています。
 キリスト教にしてもイスラム教にしても、それぞれ真理にもとづいた信仰であります。ところが自分の信仰が絶対であるとし、他を排除すること、歴史を通して争われてきています。そして、今でも宗教間の争いが絶えないのです。つい先日、スリランカの国でテロ事件が起きました。キリスト教の教会の中で自爆テロが行われ、260人近い人が犠牲になったといわれます。いろいろと調査されていますが、当局の発表によりますと、今回の事件は、ニュージランドのイスラム教のモスクがキリスト教によって襲撃され、かなりの犠牲者が出ており、スリランカのテロはイスラム原理主義者がその報復をしたのだといわれています。どうして他の宗教を排除するのか。その宗教を信じ、他の存在の生き方を尊重してこそ、真の宗教者であるのです。
その点、ローマ帝国の歴史は良い面がありました。ローマ帝国多神教の世界でした。神々が実に多いのです。偉大な存在が死んだ場合、その人を神様にしてしまうのでした。そのような姿勢がありますから、他の国を支配するようになった時、その国の宗教はそのままにしておいたのです。ユダヤ教キリスト教ローマ帝国の中では認められていたのです。しかし、キリスト教の人々は、唯一の神様を信じるので、多神教の世界の中では、協調できなかったのです。むしろ、自分たちが迫害を招いたということになるのです。ローマはキリスト教を迫害したのではなく、信じる人々の姿勢を迫害したのでした。
このことは宗教の世界ばかりではなく、どのような人々も一人の存在として認めることなのです。そのようなことに気がつくとき、それが目が開かれるということなのです。人間はいつも自分の常識で判断していますから、他者に対して誤解、偏見を持つことになるのです。人間の根本的な姿、自己満足、他者排除を受け止めなければならないのです。そのような人間の根本的姿勢をイエス様が十字架によってあがなってくださったのです。イエス様の十字架を仰ぎ見つつ歩むとき、一人の存在として祝福の歩みへと導かれるのです。ご復活のイエス様は、今も私達をお導きくださっている信仰を強めたいのです。 

 私達は生活の中で胸騒ぎを経験します。あるいは周囲の状況で不安を感じることがあります。そういう意味では、地震や災害の不安をいつも持っている私達であります。あるいは世界的にも不安定な状況です。イスラム過激派と言われる人々の、無差別の破壊があります。平和な日本でありますが、なんとなく暗い影が漂っているような面もあります。旧約聖書は戦いの最中でありますが、戦うものは常に不安が付きまとっているのです。聖書はイスラエルの国が相手のアラム軍に対して手を出せないのであり、いつ滅ぼされるかという状況でありました。この列王記下では神の人と言われるエリシャが神様の御心を人々に示している時代です。ところがイスラエルの王様はこのエリシャを面白くないと思っています。王様の至らぬ姿をずけずけと言うからです。それで、王様は使者をエリシャにさし向かせて言わせるのです。「この不幸は主によって引き起こされた。もはや主に何を期待できるのか」というのでした。エリシャが言う神の言葉は信用できないと言わせているのです。それに対してエリシャは使者に言います。「明日の今頃、サマリアの城門で上等の小麦粉1セアが1シェケル、大麦2セアが1シェケルで売られる」というのです。当時の流通から考えて、要するに四分の一で売られるということです。100円の物が25円で売られる。それほど物が豊富になるということです。しかし、現実には人々は食べることにもこと欠いている状況です。強敵アラム軍に対して、城の中で困り果てているのです。だから、エリシャの言うことは信じられないし、そんなことはありえないと思うのです。王様からの使者は「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう」というのでした。神様が窓を造って、この国をご覧になっても、そんなことは起こらない。神様は助けることはできないと言っているのです。
 この神の人エリシャの言葉を信じなかったので、現実に神様が救いを与えられたとき、この王様からの使者は、人々に踏みつけられて死んでしまうのです。神様の救いの御業が与えられました。アラム軍の兵士は、神様が戦車の音や軍馬の音、大軍の音をアラム軍の陣営に響き渡らせたので、イスラエルの陣営が、周辺の国の軍隊と共に攻めてきたと思います。それでアラム軍の兵士は我先にと逃亡していったのでした。だからアラムの陣営は誰もいなくなったのです。人々から追い出されている重い皮膚病の人々が、空になったアラム軍の陣営に入り、飲食をしたり貴金属を盗んだりしていましたが、これはイスラエルの王様に報告しなければならないと思うのでした。報告を聞いた王様は、誰もいないアラム軍の陣営から、食料を始め必要な物を運び出したのでした。それにより、今にも死を選ばなければならない貧困の状況から救われたのでした。物がたくさんあるので安く売られるようになったということなのです。王様の使者は人々に踏みつけられて死んでしまいます。それは神様の御心を信じなかったからであると示されています。
 こうしてイスラエルは戦わずして勝利を収めたのでした。それも神様の導きであったのです。戦車の音や軍馬の音、大軍の音をアラム軍の陣営に響き渡らせたのは神様でした。戦いの中にある兵士はその様な音には敏感でした。不安の心が拡大されて、恐ろしい思いへと変えられていったのです。しかし、心を静めているならば、その音は風の音であったかもしれません。雷の音であったのかもしれません。神様が風を与え、地を揺り動かしたのであります。人間の心が騒ぐことになるのです。パニックという状況があります。置かれている状況が良く分らないままに、とにかく危ない状況であると判断して、人々の騒ぎになります。確かに危ないのでありますが、状況判断が必要であるのです。
 主イエス・キリストは時々「静まれ」と言われています。イエス様とお弟子さんたちが船に乗って向う岸に渡ろうとしています。すると激しい突風が吹いてきて、今にも沈みそうになるのです。その時、イエス様は艫の方で寝ていたと言われます。お弟子さんたちは恐ろしくなり、イエス様を起こし、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えるのでした。そこでイエス様は起き上がり、風を叱り、荒れ狂っている湖に、「黙れ、静まれ」と言われました。すると風はやみ、湖は凪になったと記しています。確かにイエス様は風や荒れ狂う湖に向かって「黙れ、静まれ」と言っていますが、むしろお弟子さんたちの心に向かって言われたのでした。静まってこの状況を見つめる、そこには神様のお導きがあると示されるのです。
 こうしてイエス様は静まる心を導いておられるのですが、今朝の新約聖書は「静まる心」ではなく、「燃える心」もお与えになるイエス様を示しているのです。

 前週は主イエス・キリストのご復活を与えられました。その復活されたイエス様のお導きが今朝の聖書であります。ルカによる福音書は24章においてイエス様のご復活を記しています。イエス様が十字架に架けられ、埋葬されたのは金曜日でした。翌日の土曜日は安息日なので、何もできない掟があります。それで三日目の日曜日の朝早く、マグダㇻのマリアさん、ヨハナさん、ヤコブの母マリアさんや他の婦人たちがイエス様のお墓参りに行きますと、イエス様のご遺体がないことを知りました。イエス様のご遺体がないということで途方に暮れていますと、輝く天使が現れたのです。そして言われたことは、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられるころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」と言われたのです。婦人たちはそのイエス様の言葉を思い出したのです。思い出した婦人たちは、そのまま受け止めたのです。それでお弟子さんたちに伝えたのです。お弟子さんたちは、この話はたわ言のように思えて信じなかったのであります。しかし、お弟子さんのペトロさんはお墓に行き、中を覗いたのであります。確かにイエス様のご遺体はありませんでした。ペトロはこの事実に驚きながら家に帰ったのでした。
今朝は、「ちょうどこの日」でありますから、イエス様の復活された日曜日です。二人のお弟子さんが都エルサレムからエマオという村へ向かって歩いていました。すると途中でイエス様が近づいて来て、一緒に道ずれになったのであります。しかし、二人のお弟子さんはイエス様であることが分りません。道ずれの人は、どんな話をしていたのか聞くのです。それで二人のお弟子さんは、イエス様が時の指導者たちに捕えられ、十字架に架けられ、埋葬されたこと、婦人たちがお墓に行ったとき、天使が現れて「イエスは生きている」と告げたこと、お弟子さんたちもお墓を見に行きましたが、ご遺体がなかったこと等を話したのでした。すると道ずれのイエス様は、聖書が預言していること等、聖書全体の救いをお話ししたのでした。それでも二人のお弟子さんは道ずれの人がイエス様であることが分りません。そして、とうとうエマオの村に着きました。二人のお弟子さんは、もう夕方なので一緒に泊まることを勧めるのです。そして、一緒に食事をしました。その時、イエス様はパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて二人のお弟子さんに渡されたのです。その時、二人の目が開け、道ずれの人がイエス様であると示されたのでした。しかし、その時は既にイエス様は見えなくなっていました。二人のお弟子さんは、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合ったのです。それですぐにエルサレムに行き、お弟子さんたちに会いました。するとお弟子さんたちもご復活のイエス様にお会いしたということを話しあっていたというのです。二人のお弟子さんもイエス様とお会いし、心が燃えたことを報告したのでした。
 道連れになった人がイエス様であることが分らなかったことは、お弟子さんたちの思いが、イエス様が死んでしまったということです。その前提にありますから、イエス様であることが分らなかったのでした。しかし、道連れの人が聖書の話しをされたとき、彼らの心は燃えていたのです。聖書の救いを全体的に示されたからです。しかし、ただ聖書の話しを示されたことより、イエス様ご自身が共におられたのですから、心が騒ぐのです。そして、食事の時のパンを与えられたこと、お祈りの事で目が開かれたのでした。まさにこの方はイエス様ご自身であると示されたのでした。彼らは「心が燃えた」のです。ご復活のイエス様のお導きを自分の身体に示されたからでした。イエス様のお導きは「心が燃える」のです。

 前週の日曜日はイエス様の復活祭でした。イエス様が十字架に架けられて、死んで葬られますが、三日目にご復活されたことが聖書に記されています。今朝も、エマオへの途上、二人のお弟子さんがイエス様に出あったのに分らなかったことが示されています。実は、現代の私たちも、イエス様のご復活を昔の出来事と信じていることもあるのです。聖書の時代にそのようなことがあり、今年もご復活のイエス様をお祝いしています。しかし、ご復活のイエス様は今のことなのです。それを信じなければイースターの真の意味はないのです。イエス様は2000年前に復活されたのですが、今のご復活として信じなければならないのです。
 以前、まだ神学生の頃ですが、北海道の教会に夏期伝道に行きました。夏期伝道というのは、神学生が夏休みに一つの教会に行き、実践的に牧師の研修をするのです。私は北海道の教会に夏休み中、夏期伝道をさせていただきました。その教会は、決して大勢の人が礼拝に出席しているのではありませんが、比較的多くの中学生、高校生、青年たちが出席していました。教会の牧師は、できるだけそれらの青少年と接してほしいということでした。それで、いつも青年達と交わりつつ過ごしていたのです。ある日のこと、一人の青年が訪ねてきました。いろいろなお話をしたのですが、キリスト教には懐疑的でした。何よりもキリスト教のイエス様が十字架で殺されてしまった、ということが中心にあるようです。その十字架こそ、人間の自己満足、他者排除を救ってくださったのであることを説明しても、十字架で殺されたことが重くのしかかっているようです。随分と長くお話をしていたと思います。もうそろそろ帰る頃、そのイエス様がご復活されたことをお話ししたのでした。すると彼は、「ああ、そうか」と言うのです。何か目が開かれたようだと言うのです。そして、疑問点が解決したように、晴れ晴れとして帰って行きました。イエス様のご復活、それを知ったとき「目が開かれる」姿へと導かれたのでした。
 イエス様のご復活を示されるとき、目が開かれるのです。今も共におられるからです。
<祈祷>
聖なる御神様。イエス様の十字架、そして復活を感謝いたします。「心が燃やされて」、目を開かせてください。主イエス・キリストのみ名によりおささげいたします。アーメン。