説教「イエス様の教え」

2018年1月28日、六浦谷間の集会 
降誕節第5主日

説教・「イエス様の教え」、鈴木伸治牧師
聖書・箴言2章1-15節
    コリントの信徒への手紙<一>2章6-10節
     マルコによる福音書4章1-9節
賛美・(説教前)讃美歌54・122「みどりもふかき」、
    (説教後)讃美歌54・501「生命のみことば」

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 前週月曜日から火曜日にかけて大雪になり、翌日の火曜日の朝は雪かきで大変でした。2014年2月にも大雪でした。そのときよりは積雪も少ないようで、それに火曜日はよいお天気になり、瞬く間に雪がとけました。皆さんも大変であったでありましょう。家の周りの道路の雪かき、家のベランダにもたくさんの雪が積もり、処理するのが大変でした。久しぶり雪かきと言う慣れないことをしたので、体中の痛みが残りました。都会の皆さんは雪になれていないので、交通機関も大変な混乱になってしまいます。雪が降り、早めの帰宅となりますので、夕方の各駅は大変な混みようでした。私は、その日は幼稚園の職務で、いつもは車で出掛けていますが、雪の予報でしたので電車とバスで行きました。帰りは午後3時頃には帰宅したのですが、かなり電車が混んでいました。月曜日のお昼頃から雪が降りだし、幼稚園の子ども達は大騒ぎして喜んでいました。雪が降って喜ぶ地域、困り果てている地域、同じ日本の国でありますが、地域によって受け止め方が異なってきます。少しは雪国の皆さんのご苦労を示されたと思います。
 2014年の大雪の翌日は横須賀上町教会の礼拝説教でした。いつもは連れ合いのスミさんと共に車で出掛けていましたが、車では危険なので電車で行くことにし、その日は私一人で出かけました。自宅から追浜駅まで歩くこと20分くらいです。しかし、まだ、朝の8時頃は雪道であり、あまり人が通っていないので歩くのが大変でした。我が家の子供たちが杖を持って歩くように知らせてくれましたので、登山用の杖ですが持参しました。やはり杖があると、道を歩くのに楽でした。杖を持って歩くこと、何か人生の指針を与えられるようであります。私の連れ合いは持って歩いていますが、杖が歩行の支えとなると思うと安心できるのです。私の持っている杖は登山用のもので、折りたたみ式になっています。登山をするときは、山の起伏を歩くときには、大いに杖を頼りに歩くことができるのです。歩く支えとなることは大切なことであります。雪道を杖の支えで歩いたことから、人生の支えと言うことをつくづくと示されたのであります。私達は自分の人生を歩く時、何かの支えを持っています。それは家族の支えであり、友人の支えであります。そして、自分に指針を与えてくれるような格言でもあります。趣味を喜びとすることも人生の支えであります。支えを基として生きること、そこに勇気と希望が与えられて歩んでいるのです。
 私達にとって人生の支えはイエス・キリストの十字架の救いであります。聖書に証しされている救いの事実をしっかりといただき、人生を支えとしているのであります。本日も私達はイエス様によって示される御心を支えとして示されるのであります。
 1月も終わりの日曜日になりました。教会の暦はこの時期になると受難節となることが多いのです。今年は2月14日が「灰の水曜日」、この日から受難週になります。従って、欧米ではそろそろカーニバルの季節になります。カーニバルは受難節になると、イエス様の十字架を仰ぎ見つつ歩みますので質素な生活になりますから、今のうちに美味しいものを食べておこう、楽しく過ごそうということでお祭り騒ぎになるのです。今年は3月25日が棕櫚の主日、受難週となり、4月1日がイースター、復活祭です。この時、イエス様の教えをしっかりといただき、信仰の歩みが力強く導かれたいと願っています。聖書はイエス様の教えを示しており、私達の人生の支えを示してくださり、御心をお示しくださっては私達に人生の指針を与えてくださっているのであります。

 その人生の指針を旧約聖書が示しています。まず、旧約聖書箴言の示しをいただきましょう。箴言は針の言葉であります。針のようにちくちくと私たちの心を刺します。それは神様の御言葉が真実であるからであり、偽りがある私たちの心を刺すのであります。箴言とはそのような意味合いで記されているのです。箴言は神様の知恵を私たちに示しています。知恵と言う場合、長い歴史の中で培われてきた事柄であり、生きて行く上に大変便利であり、生活の糧になる場合を考えます。例えば、漢方と言い、長い歴史の中で人間のためになる薬草等は知恵の産物でもあります。先祖代々にわたり、培ってきた生き方があり、それらも歴史に育まれた知恵であります。
 私の書斎には、以前「健康十訓」という格言を掲げていました。手ぬぐいに書かれているもので、旅行した際、土産物屋で売っていたので、面白いので買い求め、部屋に掲げていたのです。健康のためにこのように努めましょう、というわけです。「小肉多菜」の説明は「お肉ほどほど、野菜たっぷり、健康もりもり」ということです。「少憂多眠」の説明は「くよくよしたって同じ、とっとと寝てしまおう」ということです。その他にもありますが、なるほどと思います。このような人生訓、あるいは格言というものは、生活から生まれてきた人間の知恵でもあります。それはそれで参考になりますが、私たちの命そのものを導くものではありません。このわたしを一人の存在として真に生かす存在、主イエス・キリストの教えに向かいたいのであります。
 聖書で知恵と言う場合、人間の長い経験で生み出されたものではなく、神様の御心をいただくことが知恵ということなのです。箴言2章は「父の諭し」とされています。父親が子どもを諭す設定で神様の御心が示されているのです。「わが子よ、わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして、知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら、分別に呼びかけ、英知に向って声を上げるなら、銀を求めるようにそれを尋ね、宝物を求めるようにそれを捜すなら、あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろう」と示しています。御言葉に向う姿勢を導いているのです。示される御言葉に全身を傾け、そこから指針をいただく姿勢です。神様のお示しに全身を向けるなら、「神を知ることに到達するであろう」と示されています。そして、「知恵を授けるのは主」であると断言しています。人間の経験から生まれることではなく、神様のお心が知恵であり、人間が祝福の人生を歩むことへと導かれるのであります。
 「また、あなたは悟るであろう。正義と裁きと公平はすべて幸いに導く、と。知恵があなたの心を訪れ、知識が魂の喜びとなり、慎重さがあなたを保ち、英知が守ってくれるので、あなたは悪い道から救い出される」と示しています。神様の御心をいただくことが知恵のある生き方なのです。自分の思いや経験では行き詰まりがあるのです。箴言1章7節に「主を畏れることは知恵のはじめ」と示しています。神様に心を向けることが、知恵ある生き方へと導かれることを示しているのです。従って、この箴言は「父親の諭し」とあるように、親が子に、高齢者が若者に知恵を示し、祝福の人生を促しているのです。その知恵をいただいて生きるとき、ただ教えられたことを聞くのではなく、その教えの意味、その教えの奥にあるもの、それを自らが尋ねるとき、知恵の力が増し加わるのであります。
 旧約聖書では、動物の中で反芻する動物は清いとされ、反芻しない動物は汚れているとしています。反芻は食べて飲み込んだものを再び口に戻して噛み砕くのであります。このことから「先生の言葉を反芻する」と言う言い方がありますが、知恵は示された御言葉を、「はい、分かりました」で終わるのではなく、一度飲み込みますが、再び心に示されて御言葉の意味を示されるのであります。神様の御言葉を繰り返し心に示されることなのであります。このようにして箴言は人々を導き、人生の指針を与えているのです。

 主イエス・キリストは神様の教えを多くの人々に教えて人生の指針を与えておられます。その中で心から御言葉に向かうことを導いておられます。今朝の聖書はイエス様が具体的な教えをされておられます。イエス様の種を蒔く人のたとえを示されましょう。
 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った」と始められています。種を蒔いていると、ある種は道端に落ちたということです。聖書の時代の種蒔きと言うのは、バラバラと蒔くのです。日本の場合は、畝を作り、丁寧に蒔いていきます。バラバラと蒔くので、種によっては風に乗って別のところに落ちるのです。道端に落ちる種もあります。道端に落ちた種は鳥が来て食べてしまったということです。他の種は、石だらけの土の少ないところにおちました。これは畑の端のほうで、そこはあまり耕してもいないので、土の下は石がたくさんある状態でした。すぐ芽を出しますが下からの水分がなく、太陽の熱で涸れてしまうのであります。そして、他の種は茨の中に落ちました。茨は雑草の生えているところです。畑と道端の境が茨の状態です。そこに落ちた種は、茨が生えているくらいですから芽が出るのです。しかし、茨に邪魔をされて実を結ばないのであります。そして、多くの場合、種は良い土地に蒔かれるのです。そこでは芽生え、育ち、豊かな実を結ぶということであります。「あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍にもなった」と言うことです。このたとえ話をされたイエス様は、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われ、人々へのお話を終えるのであります。このイエス様のたとえ話を聞いた人々は、このお話をどのように受け止めたのでしょう。面白いお話と思う人、当たり前のことを話していると思う人がいたでありましょう。お話しの奥義を求めなければなりません。
 群衆がいなくなった後で、お弟子さん達がイエス様にたとえについて聞きました。その時、イエス様は「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」と言われました。人々が真に聞く耳を持たず、悟ろうとしないからです。そこでイエス様はお弟子さん達にたとえの奥義を示されました。それについては4章13節以下で示しています。すなわち、道端に種が落ちること、道端は固いので種は土の中に入りません。いわば種を受け付けないのです。それは人の心の姿なのです。御言葉をはねつけてしまう姿勢です。石だらけの土地に落ちた種は芽が出ます。それは御言葉を喜んで受け入れる人です。しかし、根を張ることができないので、苦しいことがあるとつまずいてしまうというのです。茨の中に落ちた種も芽を出しますから、御言葉を受け入れる人です。しかし、御言葉をいただくものの、この世の思い煩い、富の誘惑、欲望が心に入り込み、御言葉の成長を止めるというのです。しかし、良い土地に蒔かれた種は芽を出し、健やかに成長するのです。御言葉が成長する姿勢をもっているからです。
 この種を蒔く人のたとえ話は、御言葉にどのように向くかを示しています。神様の御言葉を、よく耕された良い土地として受け止めるならば、祝福の成長があるということです。御言葉をいただく姿勢です。旧約聖書で示されているように、神様のお心に向くこと、それが知恵であり、生きる祝福になるのであります。ここで、注意しなければならないのは、この種を蒔く人のたとえ話を示されて、自分は道端である、石だらけの場所である、茨のような場所であると思ってしまうことです。だから私は御言葉が育たない、信仰が薄いと結論付けないことであります。ある場合には道端のような時もあり、石だらけの土地のような状況にいることもあり、茨の土地のような状況であることもあります。しかし、多くの場合、私たちは良い土地として、御言葉をいただき100倍の祝福へと導かれているのであります。神様に心を向ける限り、良い土地の状況なのです。知恵が与えられる状況なのです。従って、今朝も御言葉をいただくために、この礼拝へと集められているのです。祝福へと導かれています。神様の知恵が与えられているのであります。

今朝はイエス様による「種を蒔く人」のたとえを示されました。特に、ここではみ言葉に向かう姿勢を励まされています。み言葉、すなわち「イエス様の教え」を示されるとき、では「イエス様の教え」とはどのような教えであるかということです。そのことで示されるのは、マタイによる福音書19章16節以下に記される「金持ちの青年」です。一人の青年がイエス様に、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と聞くのです。それに対してイエス様は、「掟を守りなさい」と言われました。青年が「どの掟ですか」と聞きますので、改めて旧約聖書で示されている十戒を示すのです。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」と言われました。青年は「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」というのです。するとイエス様は、「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言われたのです。青年はこの言葉を聞いて、悲しみながら立ち去って行ったというのです。イエス様が青年に改めて十戒を示されたとき、一つの戒めは言いませんでした。「欲してはならない」との戒めです。言わなかった代わりに、「隣人を自分のように愛しなさい」言われたのです。青年は十戒にはない言葉を言われたのですが、気に留めなかったようです。「欲してはならない」の代わりに「隣人を愛しなさい」と言われたのですが、青年は気が付かなかったようです。「みな守っている」といるという青年に、「欲してはならない」の戒めを示したのです。「欲してはならない」ことは「隣人を愛する」ことでありました。だから、具体的には「施しなさい」と言われたのです。「持っているものを売り払いなさい」と言われたとき、それができないことは「欲してはならない」という戒めを守ることができない自分を知ることになったのです。
「イエス様の教え」とは、「隣人を自分のように愛する」ことです。それは具体的には「欲してはならない」ということなのです。「欲する」ことは人間の基本的な罪となるのです。人間の基本的な罪を救われるために、イエス様は十字架にお架かりになり、自己満足、他社排除から解放してくださったのです。救いの道を示されたのでした。
<祈祷>
聖なる神様。「欲する」ことから十字架によりお救い下さり感謝いたします。隣人を愛する者へとお導きください。イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。