説教「神の国が近づいたので」

2018年1月21日、六浦谷間の集会 
降誕節第4主日

説教・「神の国が近づいたので」、鈴木伸治牧師
聖書・エレミヤ書1章4-10節
    使徒言行録9章1-20節
     マルコによる福音書1章14-20節
賛美・(説教前)讃美歌54・121「馬槽のなかに」、
    (説教後)讃美歌54・214「北のはてなる」

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 今は寒い冬で、インフルエンザが流行っているというので、注意して生活しています。しかし、注意していたものの、そのインフルエンザに罹ってしまいました。スペイン・バルセロナに住んでいる羊子とイグナシオさんが子供の義也君と共に12月20日に一時帰国しました。彼らを囲んで楽しい日々を過ごしていましたが、どうも体調がよくありませんでした。1月9日は幼稚園の始業式でありましたので、始業日礼拝をささげた後は、帰宅しました。連れ合いのスミさんを病院に連れて行くためです。病院と言ってもかかり付けの医院で、薬をもらうだけなのです。ついでに私自身の診察をしてもらいました。このところ微熱が続いていたからです。そしたらインフルエンザと診断されてしまいました。高齢となると、インフルエンザでも高熱にはならないということです。それでタミフルの薬をもらって安静にしていました。羊子たちは1月10日にはバルセロナに戻って行きましたが、インフルエンザが感染してないか心配でした。しかし、1月16日現在、感染してないようで安心しています。出かけたときは、必ず石鹸で手を洗い、うがい等をしていたのですが、どこかに油断があったようです。高齢でインフルエンザに罹ると危険であるとも言われます。いろいろな病気が併発するとも言われています。気を付けたいと思います。
 私たちが住んでおります横浜市金沢区付近は暖かい地域です。三浦半島の入口であり、気候が温暖な地域であります。私達の子ども達は相模原や海老名に住んでいますが、時々六浦の家に来るのですが、随分と暖かいと言っています。家の中にいても、日中はエアコンもストーブも使わないで過ごすこともあります。それでも夕刻になると暖房していますが、県央地区でもある相模原や綾瀬、海老名では日中も暖房しなければならないのです。随分と気候が異なるようです。隠退して、比較的暖かい地域に住むことができて感謝している次第です。私たち自身、30年間は寒さが厳しい綾瀬市に住んでいたのです。しかし、日本海側の地域では連日の雪で、雪との戦いが大変のようです。この辺は暖かいからと喜んでいる訳にはいきません。早く春を迎えて過ごしたいと思っています。もう5年も前になりますが2103年3月からマレーシアのクアラルンプール日本語キリスト者集会のボランティア牧師として赴くにあたり、今ごろは準備していた頃でした。3月13日に出発し、6月4日に帰りました。マレーシアは常夏の国ですから、寒さということはありません。なにしろ一年中が夏なのですから、寒さ知らずというものです。3月から赴きましたので、日本において花粉症被害も受けず、常夏の国と言っても熱中症になることはなく、過ごし安い国でした。6月に帰って、それから夏が始まりましたので、その年の半年間は夏を過ごしたのでした。
今は寒い時季ですが、毎年、今頃が大学のセンター試験が行われています。大雪で試験会場には遅れて着くので、開始を遅らせている試験会場もありました。入学試験ということでは、私自身の思い出、経験を持っています。私は小学校3年生の時から近くにある関東学院六浦の中にある教会、日曜学校に通うようになりました。日曜学校の生徒はほとんどが関東学院小学部の生徒でした。友達は皆、そのまま中学部に進むのです。そのような友達と交わっているうちに、私自身も関東学院中学部に行きたくなったのです。両親も理解してくれて受験しました。しかし、その受験は失敗に終わりました。小学生のころですが、大きな挫折であったと思います。小学校の先生は、このまま皆と一緒に公立中学校には行きたくないだろうからと、私立中学を勧めてくれたのです。それが横浜高校附属中学校でした。そして、中学生になると共に二人の姉達が出席していた横浜の清水ヶ丘教会に出席するようになったのです。そして教会の高校生の皆さんと交わりをしているうちにも、自分の人生を定める導きが与えられたのです。将来は伝道者、牧師になる道を歩む導きが与えられたのです。私が、もし関東学院中学部に合格していたら、また異なる人生を歩むことになったでしょう。大きな挫折でしたが、私の人生を定める道でありました。
 2018年を歩み出している私達ですが、人生の道を定めつつ歩む導きが与えられたいのであります。今朝は主イエス・キリストが神様の御心、救いを与えるお働きのために、お弟子さんを選任しています。そのことから私達もイエス様のお弟子さんに召されていることを示されるのです。私の人生はイエス様のお弟子さんに導かれているということです。

 私達に主イエス・キリストが福音の喜びを与えてくださいました。福音とは喜びの良き訪れであります。従って、キリスト教でなくても福音という言葉は使われます。困っている状況に朗報がある。福音が訪れたと言われることがあります。私たちは主イエス・キリストにより与えられる福音であります。イエス様の十字架の救いが前提となる福音であります。十字架による救いの喜びを世の人々にお知らせするのです。そのお知らせをし、福音のもとに人々を招くことが、イエス様の救いをいただいている私達の務めであります。
 旧約聖書におきましては、神様の救いを人々に示す人を「預言者」と称しました。預言者の前は「先見者」とか「神の人」とも言われています。あるいは士師記に登場する「士師」とも言われる人々です。神様の召しをいただき、神様の御心にあって働く人々なのです。今朝の働き人は預言者エレミヤであります。預言者は人々に神様の御心を示し、正しい方向に導く働きをする人であります。
 今朝は預言者エレミヤが若い時に神様の召しをいただく状況が記されています。エレミヤ書1章4節、「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。』」と言われたのであります。生まれる前からエレミヤが預言者へと召されていたのであります。それを聞いたエレミヤですが、「ああ、わが主なる神よ。わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と言うのであります。エレミヤは自分を「若者」と言っています。その若者と言うのはヘブライ語ではナアルであり、ナアルは20歳未満の年齢であります。エレミヤの言うとおり、まさに「若者にすぎない」のであります。しかし、神様は言われます。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、誰のところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と言われるのでありました。「あなたと共にいる」とは神様が働き人に使命を与えるときには、必ず言われる言葉であります。モーセが神様の召しをいただいたとき、それはエジプトにいる奴隷の人々を救い出す大きな役目でした。モーセは「わたしは何者なのでしょう。どうして、エジプトの王様のところへ行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導きださねばならないのですか」と躊躇するのです。それに対して、神様は「わたしは必ずあなたと共にいる」と言われ、モーセを励ますのであります。モーセの後継者ヨシュアに対しても、「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる」と励ましています。
 「若者にすぎない」と言ってはならないのです。モーセは「わたしは口が重い」と言いました。つまり口下手と言うわけです。しかし、モーセが口下手なら、モーセの兄アロンをモーセの口とし、モーセが全体の指導者となるのです。「何々にすぎない」、「私はこんな者だから」、「そういうことはできない」等、私たちは自分にとって不都合なことに対して、いろいろと理由をつけて避けようとします。しかし、聖書の人々は、神様の召しに従っています。若者に過ぎなくても、口下手であったとしても、神様の召しは優れた者を召すのではなく、ただ神様のお心にある人を召しているのであります。「見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威を委ねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために」と神様はエレミヤに力を与え、神様の働き人としてのすべての業を与えているのであります。エレミヤは神様に押しだされて、人々の中で御心を語り続けたのでありました。

 主イエス・キリストガリラヤに行き、神様の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と人々に示されました。時は満ちた、すなわち今こそ神様のお心に生きる時が来たのですよと示されたのであります。それぞれが真に神様のお心に生きること、それが福音であります。御心と言う福音に生きることであります。今は神様の御心に生きることが福音としていますが、福音が真に私たちの福音になりますのは、イエス様が十字架にお架かりになり、私たちを真にお救いになられることであります。十字架の贖いによって私たちが生きるようになること、それが真の福音であります。しかし、今は神様の御心へとお導きになることであります。
 そのために、主イエス・キリストは福音の働き人を召されるのであります。マルコによる福音書1章16節以下に4人の働き人にお声をかけておられます。イエス様がガリラヤ湖のほとりを歩いていた時、シモンとその兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になります。その彼らに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。二人はすぐに網を捨てて従ったと記されています。旧約聖書に見られるモーセ、エレミヤのように躊躇することなく、自分はできないなどと言うこともなく、彼らは自分達の仕事を後にしたというのです。同じく、その後にヤコブヨハネにも声をかけられました。彼らも仕事を後にしてイエス様に従ったのであります。彼らがイエス様の福音の働き人に召される何の理由も記されません。ただイエス様の御心において働き人へと召されたのであります。ただ一つ示されることは、彼らは漁師でありました。イエス様が言われるように、魚ではなく、人間をとる漁師へと召しているのです。その意味では漁師であった4人の働き人は、意味のある召しであったのでありましよう。人間をとるとは、福音へと導くことであります。神様の御心へと人々を導くことであります。
 マルコによる福音書の働き人への召しは、イエス様が最初から働き人と共に福音を述べ伝えたということであります。例えば、ルカによる福音書の場合は、汚れた霊に取り付かれた人を癒し、多くの病人を癒し、いろいろな町々で福音を述べ伝えた後に漁師をお弟子さんにしているのです。マルコによる福音書の場合は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣べはじめたと同時に4人の漁師を働き人に召したのであります。しかも、声をかけられた人々はすぐにイエス様に従っているのです。この後、2章14節で徴税人レビに声をかけられます。アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われました。すると彼は立ち上がってイエス様に従ったのであります。6章1節では、イエス様が故郷にお帰りになられたとき、弟子達も従ったと記しています。イエス様の召しがあります。するとすぐに従うお弟子さん達、そして福音を喜ぶ人々をマルコは記しているのであります。
 旧約聖書の人々はいろいろと口実を述べて、神様の召しを断ろうとしています。しかし、マルコによる福音書の証しは、福音の働き人はすぐに従っているのであります。口実をのべて断ることもなく、むしろ喜んで福音の働き人になっていくことを示しているのであります。新約聖書でもルカによる福音書の場合は、イエス様の奇跡を示されたペトロやアンデレたちは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言って、自分の至らない姿を告白しています。しかし、マルコによる福音書は、イエス様の召しに、すぐに従う人々を示しています。福音の働き人になるために、あなたは何が不足しているのか、と言っているようです。福音の働き人になることをイエス様が望まれているのに、あなたはどんな理由でしり込みしようとしているのか、と問いかけているのがマルコによる福音書なのです。召しをいただいた福音の働き人は黙々とイエス様について行ったのであります。その福音の働き人は、豊かな祝福へと導かれて行ったのであります。

 前任の大塚平安教会時代、在任中に幾人かの人が伝道者の道を歩むようになりました。一人の青年が、両親が社会福祉の取り組みをされていますので、ある日のこと相談に来られました。自分も将来は社会福祉の仕事をしたいということでした。彼は人との交わりが良く、私はかねがね思っていたのですが、こういう人が伝道者に導かれるということでした。人間的な思いですが、牧師は人々との交わりが大切であります。だから、社会福祉も貴い職務であるけれど、あなたは伝道者になることだ、と勧めたのです。彼は、今まで考えてもいない道を示されたのですが、すぐに勧めを受け止め、今は牧師として歩んでいます。何回か彼の説教を聞きましたが、大きな声で堂々とお話しをしています。良い伝道者になったと思っています。それからもう一人の方を紹介しておきましょう。やはり大塚平安教会時代ですが、なかなかの勉強家で、大学の通信教育で学び、見事に卒業しました。これからは教会学校に力を注ぎたいと言われるので、これからは伝道者の道を歩みなさいと勧めたのです。そのとき、彼女は60歳前後であったと思います。彼女はすぐに神学校に入りました。そして、今では主任牧師として力強く伝道者の道を歩んでおられるのです。
 伝道者は神様の召しが与えられているのです。その召しに対して、自分であれこれと理由をつけて断るのではなく、神様の召しに従うことなのです。
「人生の道を定める」こと、それは主イエス・キリストにあって定めることです。豊かな祝福の人生が与えられるのです。神様の召しをいただいているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。人生の道をイエス様と共に歩ませてくださり感謝いたします。主の福音を携えて世の人々に証させてください。主イエス様のみ名によりおささげします。アーメン。