説教「人生の土台を据える」

2021年7月11日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第8主日」  

                      

説教・「人生の土台を据える」、鈴木伸治牧師

聖書・エレミヤ書7章1-7節

   使徒言行録19章11-20節

   マタイによる福音書7章24-29節

賛美・(説教前)讃美歌21・411「うたがい迷いの」

   (説教後)讃美歌21・521「とらえたまえ、われらを」

 

 7月の歩みをしていますが、例年ですと、今の時期は各地でお祭りが行われます。しかし、コロナの感染防止で、昨年は中止になり、今年も中止になりました。今は、日本中どこの地域におきましても、お祭り騒ぎは行われていません。今はオリンピックの開催ですが、開催されても無観客というような方向で、楽しい集まりが、いずれも参加できない状況になっています。

数年前には隣組班長という役目があり、お祭りの接待をしなければなりませんでした。前日は提灯行列が来ると言うので、接待に駆り出されました。役員の人たちはいろいろなご馳走を作って、提灯行列の人達の接待をするのです。行列と言っても、20人にも満たない年配の婦人たちで、提灯を持って各地域を周ることでした。そして、翌日はこの地域にも神輿がやって来たり、山車がやって来たりしました。それらの人達に休んでもらうため、接待をするのです。お勤めはそれだけで、後の協力はありませんでした。それでも接待の後片付けやらで、結構時間を要しました。今はお祭りが中止になっています。以前はこのようなお祭りに対して、もちろん傍観的に受け止めていました。今でも傍観的ですが、日本の民族的な行事として受け止めるようになっています。地域の活性化のためにお祭りが行われ、盆踊りがあるのでしょう。ここで宗教の行事だと言う訳にもいかないのです。ですから今は、地域の行事であると受け止めているのです。そのような思いに変えられていますが、バルセロナ生活を通算で約半年していますので、滞在中、いろいろなイベントを経験しました。背景にあるのはキリスト教であります。キリスト教の聖人に関わるお祭りがあり、記念にご馳走を食べ、楽しく過ごすこと、人間の素朴な姿であると思うようになっています。そのように思いますと、日本には様々なイベントがあり、むしろそれらを楽しみつつ過ごすことなのです。人々にとってこれらのイベントが生活の支えになっているようです。土台にもなっているのです。しかし、私たちは聖書によって人生の土台を与えられています。イエス様のお心を示され、土台となり、存在が祝福の人生が導かれているのです。

 人生の土台は主なる神様の御心をいただき、歩むべき道と行いを正して生きることなのです。それが旧約聖書における人の生き方なのであります。今朝はエレミヤ書7章による示しであります。エレミヤは神様に示されるままに人々に言います。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉により頼んではならない」と預言者エレミヤは人々に教えています。これは人々が、我々には主の神殿があるから大丈夫だと思っているので、それに対する警告でありました。神殿があるから、安泰であるし、悪いことも起こらないと思っています。しかし、神殿があるから安泰だと言いつつ、盗み、殺し、偽り、偶像に香をたいているのです。そして、主の神殿に来ては「救われた」と言っているというのであります。11節、「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる」とエレミヤは述べています。神殿は神様が名を置いておられるところです。これは前回もソロモンのお祈りを通して示されています。ソロモンは立派な神殿を完成させました。しかし、ソロモンは神さまがこの神殿の中にお住まいになるなどと思いません。神様が神殿に目を注ぎ、神さまのお名前を神殿においてくださるので、そのお名前に対してお祈りをささげたのでした。エレミヤの信仰も同じであります。だから、名を置いておられる神殿に祈りをささげるのであります。神様の名が置かれているのに、祈ることもせず、ただ神殿の存在を喜んでいる人々に対する示しであります。

このことは主イエス・キリストも示しています。マタイによる福音書21章12節以下はイエス様が神殿から商人を追い出すことが記されています。イエス様は神殿の境内に入ると、そこで売り買いしている人々を追い出したと記されています。「わたしの家は祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」と言われました。エレミヤ書の引用であります。神殿の存在を喜びながら、むしろ自分達の利益の場にしていることに対するイエス様の示しでありました

 人生の土台は主イエス・キリストのお言葉を聞いて行う者であるとマタイによる福音書7章は示しています。7章24節、「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と主イエス・キリストは教えてくださいました。イエス様はマタイによる福音書5章から7章に至るまで、「山上の説教」としてお話しをされているのです。これはマタイという人の編集でありますが、イエス様の御心を集中的にこの所に集め、そして最後のまとめとして記しているのが7章24節以下の「家と土台」であります。イエス様の御心をいただいて、いただくばかりではなく、「聞いて行う者」が人生の土台を持つ者だと示しているのであります。

 今朝は7章15節からであります。まず、「実によって木を知る」との教えがあります。イエス様の御言葉を聞いて行うとき、そこには祝福の果実が生まれてくるのです。従って、ぶどうの木からはおいしいぶどうの実ができるのです。茨からぶどうの実は取れないのであります。イエス様の御心に生きなければ、祝福の果実ができないと言うことを示しているのです。イエス様の御言葉を聞いて行うなら、必ず良い実を結ぶということなのです。ぶどうの木のたとえはヨハネによる福音書にはっきりと記されています。ヨハネによる福音書15章5節、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と示しています。イエス様のぶどうの木につながることにより、豊かな実、祝福される人生へと導かれることが示されているのです。

 さらに21節からは「あなたたちのことは知らない」として示しています。「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」と示しています。ここでも主の御心を行うことが示されているのです。ただ、神様、神様というだけではいけませんと言うのです。神様のお心をいただいているのです。御心のように生きることなのです。

 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」と主イエス・キリストは示しています。イエス様の言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ていると言われます。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった、と言われます。ここで注意したいのは、「倒れなかった」であり、「倒れ方がひどかった」ということであります。イエス様のお言葉を聞いて行う人は、「倒れないでしょう」と言い、聞いて行わない人は「倒れるでしょう」という未来形ではなく過去形になっています

 長い間、幼稚園の園長として歩んでまいりました。毎週、全園児で礼拝をささげていますが、特に3学期の3月になりますと、今朝の聖書、「岩の上に建てられた家」のお話をしています。岩の上に建てられた家は、雨が降ろうが、風が吹こうが決して倒れないのです。地震が来ても倒れないのです。それは土台がしっかりとしているからです。イエス様のたとえ話のように、砂の上に建てられた家はすぐに倒れてしまいます。土台がしっかりしていないからです。海の浜辺に立っていると、足元の砂が波によってなくなっていくのです。そしてそこに立っていてもグラグラとなるのです。足元が不安定であるからです。幼稚園のお友達は、いつもイエス様のお心をいただいていますので、しっかりとして強い心を持っています。丁度、イエス様が言われているように、「岩の上に建てられた家」のようです。これから小学校に進み、新しいお友達と共に過ごすようになります。いろいろなことをしながら過ごしますが、困難な時もあり、いやだなあと思うこともあります。でも、皆さんは岩の上に建てられている家ですから、困ったことがあっても、しっかりと困難を乗り越えることができるのです。皆さんには「土台」が据えられているのです。

 人生の土台はイエス様の十字架の救いです。この十字架の救いが土台となっていますから、私達は与えられている人生を喜びつつ歩むのです。

<祈祷>

聖なる御神様。人生の土台を与えてくださり感謝いたします。御心を実践しつつ歩ませてください。キリストの御名により、アーメン。

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