説教「永遠の救いの源」

2015年3月22日 六浦谷間の集会礼拝
「受難節第5主日

説教・「永遠の救いの源」、鈴木伸治牧師
聖書・哀歌1章1-6節
    ヘブライ人への手紙5章1-10節
     ルカによる福音書20章9-19節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・142「さかえの主イエスの」、
    (説教後)讃美歌54年版・259「天なる主イエスの」


 昨日はドレーパー記念幼稚園の同窓会が開かれ、夫婦で出席してきました。毎年、3月21日の春分の日に同窓会が開かれています。同窓会は三回開かれます。最初に幼稚園を卒業し、その年の夏休みの海の日に開催されます。そして、3月21日の午前には小学校を卒業する子供たち、そして午後には中学校を卒業する子供たちの同窓会が開催されるのです。6年前に送りだした子供たち、9年前に送りだした子供たちですが、やはり面影は覚えているもので、懐かしい再会でした。同窓会では、中学に進む子供たちの場合は、今後の取り組み等を話してもらいます。部活はどうするのか、進路等を話してもらいます。しかし、中学卒業の子供たちは余り進路を言いたくないようで、それなりに感想を話してもらうのでした。中学卒業時の同窓会が最後で、以後は同窓会なるものはありません。教会に出席してくれることを願っていますが、ほとんどは出席しません。しかし、幼稚園は後援会が「ドレーパーだより」という新聞を年一回発行しており、幼稚園と卒業生のパイプ役を担ってくれています。卒業生の動向も記され、各地で力強く歩んでいることを示されるのです。こうして、幼稚園を卒業しても聖書の御言葉を示し、神様の御心こそが人生を力強く導くことを示しているのです。そういう意味では生涯教育を担っているのです。
 私達は常に満たされた心でなければならないのです。つい最近もイエス様の示しをいただいています。ルカによる福音書11章24節以下に、「汚れた霊が戻って来る」というイエス様の教えです。汚れた霊がイエス様によって人から追い出されます。砂漠をうろつき、休む場所を探しますが、見つかりません。それで、「出てきた我が家に戻ろう」と言います。戻ってみると、家は掃除して整えられているのです。そこで出かけて行き、自分よりも悪い他の七つの霊を連れてきて、中に入りこんで住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる、というのです。意味深い教えです。折角イエス様によって悪霊、悪い姿を追い出してもらったのに、その後の姿勢がよろしくないのです。悪霊がいなくなり、心はまさに清くなりました。しかし、悪霊を追い出した後、悪霊ではない土台を据えておかなければならないのです。土台が無いから、悪霊が再び戻ってきてしまうのです。すなわち、土台とはイエス様が示される神様のお心なのです。あるいはイエス様の十字架の救いなのです。その救いを心にしっかりと土台として据えておかなければならないのです。

 本日の旧約聖書は哀歌であります。以前はエレミヤ哀歌と称されていましたが、預言者エレミヤが書いたものではありません。聖書の人々がバビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンの空の下で、苦しみつつ生きるようになった時代です。故郷の都エルサレムはバビロンによって破壊され、荒廃したままであります。そのような状況を悲しみつつ歌っているのが哀歌であります。標題のように悲しみの歌であります。本来、聖書の原題は「エーカー」というものです。エーカーは「どうしてなのか」、「なぜなのか」ということです。嘆きの言葉がエーカーであるのです。嘆きの言葉がそのまま聖書の題になっているということです。まさに哀歌に記されていることは嘆きの言葉でした。
 「なにゆえ、独りで座っているのか。人に溢れていたこの都が」と嘆いています。都エルサレムは荒廃したままになっています。そもそも聖書の国、ユダがバビロンに滅ぼされた原因は何であったか、ということです。聖書の人々は神様に選ばれた民として、神様の御心によって生きることでありました。それが周辺の国々、大国の狭間にあって、指導者達は人間の力に頼ろうとしたのであります。アッシリア、エジプト、バビロンの力関係を計りにかけながら生き延びる道を求めていました。そういう中で預言者達、中でもエレミヤは真の神様の御心に立ち帰るよう教えました。人間の力ではなく、神様の御心に立ち帰るよう求めたのであります。今はバビロンが脅威であり、他の国に助けを求めて交戦するのではなく、バビロンに降伏しなさいと示しました。指導者達はエジプトの力を求めていたのであります。エレミヤの説得は無視され、結局ユダの国はバビロンに滅ぼされることになったのであります。そのことを示しているのが1章5節であります。「シオンの背きは甚だしかった。主は懲らしめようと、敵がはびこることを許し、苦しめる者らを頭とされた。彼女の子らはとりことなり、苦しめる者らの前を、引かれて行った」と事実を示しているのであります。
 この悲しみの現実を直視しなさいと哀歌は示しているのです。このようになったのは何のためかということです。エレミヤがあれほど「主の御心に立ち帰れ」、シューブという言葉ですが、繰り返しシューブと叫びました。帰らなかった人々です。「なにゆえ」と嘆くのは、エーカーと悲しみの声を上げるのは、立ち帰らなかったことなのです。だから、この現実を直視しなさい。「エルサレムは心に留める。貧しく放浪の旅に出た日を、いにしえから彼女のものであった宝物のすべてを。苦しめる者らの手に落ちた彼女の民を助ける者はない。絶えゆくさまを見て、彼らは笑っている」と嘆きの言葉が示されています。この現実、嘆きの現実の意味を問いなさいと示しているのであります。この現実は、あなたがたが神様の御心から離れてしまったからであるのです。この悲しみの現実は、人々が神様の御心を忘れてしまったからであると示しているのであります。
 あなたは神様の御心で満たされているか。心を清くして、そこに土台を据えているか、これが聖書が繰り返し求めていることなのです。自分の中から悪霊を追い出しても、土台を据えないので、すぐに悪霊が帰ってきますよ、と聖書は示しているのです。マタイによる福音書は、もっとわかりやすく示しています。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」と示しています。そして、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(マタイによる福音書7章24-27節)と示しています。土台の上に立つことを示しているのです。

 神様の御心から離れてしまう人間の生き方は、自己中心であり、他者排除であります。人間は本来神様の御心をいただいて生きるとき、平和な人間の社会に導かれるのであります。そのことは創世記2章で記される人間創造で示されています。神様は天地を造られた時、最後に人間を創造されました。神様は土で人の形を造りました。しかし、まだ人間ではありません。神様は土で造った人の形の鼻に命の息を吹き入れたのであります。すると人間は生きた者となったと示しているのであります。これは、もちろん神話的な書き方ですが、深い真理を示しているのであります。つまり、人間は神様の息をいただいて生きるということであります。「息」という言葉は「ルアッハ」であります。ルアッハには、「生きる、霊、風」とも訳される言葉であります。
 エゼキエル書37章に「枯れた骨の復活」について示されています。エゼキエルは幻の内に平原に導かれます。そこには枯れた骨が一面に散らばっています。触ればくずれてしまうほどの枯れた骨です。神様はこの骨に向かって預言せよと言われるのです。言われたように預言すると、骨と骨があいつらなり、骨の上に筋と肉が生じ、皮膚でふさがれるのであります。すると、神様の霊が風のように吹きまくるのであります。すなわち、ルアッハが吹きまくったのであります。すると、人々は生き返り、自分の足で立ったのであります。ルアッハの力、導きであります。このことは使徒言行録に示される聖霊降臨も同じであります。イエス様が十字架につけられ、復活されましたが、お弟子さんたちは現実にイエス様がおられないので、力を無くして過ごしていたのです。その弟子達の上に風のようなものが吹きまくった時、意気消沈していた弟子達が立ちあがったのであります。ルアッハをいただいたからであります。ルアッハは神様の御心なのです。神様の御心なくして、人間は真の生きた存在ではないのです。哀歌はルアッハが無くなった現実を嘆いているのであります。
 新約聖書におきまして、主イエス・キリストもルアッハを放棄している人々を示しているのであります。ルカによる福音書20章9節以下でイエス様はたとえをもって現実をお示しになっておられます。「ぶどう園と農夫」のたとえであります。このたとえを示される時、旧約聖書イザヤ書5章を合わせて示されるのです。イザヤ書は「ぶどう畑の歌」としています。神様がぶどう畑に良いぶどう植えました。よく耕し、石を取り除き、良いぶどうができるようにしたのです。ところが収穫は「すっぱいぶどう」でした。これはなぜかと問うているのです。せっかく手をかけ、面倒を見たのに、結果がこのようになるとは、神様の導きを拒否したからなのです。そのイザヤ書の示しと同じように、ルカによる福音書も、神様の導きを拒否する人々を示しているのであります。「ある人がぶどう園作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た」という設定であります。ぶどう園の主人は収穫の時期になったので、収穫の利益を得るために僕を送ります。しかし、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで返したのであります。主人は、さらに他の僕を送りますが、同様に袋だたきにして何も持たせないで追い返したというのであります。三人目の僕も送りますが、傷を負わされて放り出されたということです。主人は、今度は自分の息子を送ります。愛する息子なので、敬ってくれるだろうと思ったのです。しかし、農夫たちはその息子を殺してしまったというのです。
 このたとえ話は、先に送られた僕たちは旧約聖書に登場する預言者を示しているのです。神様は預言者を通して、神様の御心に生きるよう示しますが、人々は聞き入れませんでした。むしろ迫害された預言者たちでした。今、神様は御子を世に遣わし、神様の御心を示されたのであります。ところが、指導者達の妬みが高まって、ついに十字架によって殺されてしまうのです。これは後に起こるべきことを示しているのであります。人々はイエス様のお話を興味深く聞いていましたが、このお話は明らかに指導者達のことを言っていると悟るのでした。その時、イエス様は「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」と言われました。家を造るときは石で土台を固めますが、もう土台の石は必要ないということで、他の石は捨てます。しかし、家を建てるとき、守り本尊のように石を中心にするのです。捨てた石からそれを拾うということです。まさにイエス様が人々から捨てられますが、人々の中心になっていくことを示しているのであります。
 神様の御心から離れる現実は、破滅であることを示しています。実際、都エルサレムは起源70年にローマによって滅ぼされるのであります。昔、預言者の言葉、神様の御心を無視した人々がバビロンに滅ぼされたように、今また、神様の御心に生きない人々のエーカーが訪れることを示しているのであります。

 こうして、ついに人々は神様の御心を拒否し、主イエス・キリストを十字架に付けて殺してしまうのであります。十字架は主イエス・キリストが、人間がどうすることもできない自己満足、他者排除を滅ぼすことでありました。神様の命の息を与えられて生きるのが本来の人間なのです。しかし、神様の息ではなく人間の息を持って生きようとするのが人間の姿でありました。預言者を送り、神様の命の息を示すのでありますが、受け止めませんでした。そして、ついに神様の御子イエス様をも無視し、殺してしまうのであります。十字架は時の指導者達による妬みの結果であります。しかし、神様は、この十字架を救いの原点となさいました。十字架によりイエス様の血が流され、死ぬのは私の罪、自己満足と他者排除を滅ぼされたと信じることなのです。
 数年前に「100歳の少年と12通の手紙」という映画を見ました。10歳の少年オスカーは白血病で入院していますが、余命12日であることを知ってしまう。大人に対して不信感を持っているオスカーは両親とも主治医とも話をしなくなる。しかし、主治医はオスカーがピザ屋のローズと話したがっていることを知り、毎日ピザを取るから、その変わりオスカーの話し相手になって欲しいと頼むのである。ローズは気が進まなかったが、余命いくばくもないオスカーと接しているうちに、オスカーと共に過ごす思いが深まっていくのです。一日を10年として、毎日を過ごすようになる。そして神様に手紙を書くことを勧めるのです。当初は、オスカーは神様なんか信じないと言っていました。それなら、神様を見せてあげるとローズは言い、病院には分らないように、ピザ屋の手押し車に乗せて教会に連れて行くのです。オスカーが見た神様は、十字架で苦しむイエス・キリストであったのです。苦しんでいる神様なの、と言うオスカーに対して、ローズは「あんたのためなんだ」というのです。「玩具をねだる神様ではなく、人間のために苦しんでいる神様に手紙を書くんだよ」というのです。そして手紙を書いては、ローズが病院の庭から風船につけて空に飛ばすのでした。12通の手紙を書き終わったとき、オスカーは安らかに天国へと迎えられていくのです。気性の荒いローズでしたが、オスカーと共に過ごすうちにも優しい人へと変えられて行ったのです。神様に玩具をねだるのではなく、私のために苦しんでくれる神様に向くことが大切であるとローズはオスカーに示したのです。この現実を包み込んでくださる十字架のイエス・キリストが永遠の救いの根源なのです。
 <祈祷>
聖なる神様。イエス様の十字架のお導きを感謝致します。神様のルアッハを人々に示していく力を与えてください。主イエス・キリストの御名によりおささげします。アーメン。