説教「命の収穫」

<説教について>
10月21日よりスペイン・バルセロナに滞在しています。バルセロナには娘の羊子がピアニストとして演奏活動しています。過去にも2011年4月4日から5月17日まで、2012年9月10日から11月5日までバルセロナに滞在しています。今回は2015年1月7日まで滞在しますので、もっとも長い滞在となります。その間、説教をブログで公開するのはお休みにするつもりでおりました。しかし、バルセロナでも礼拝をささげていますので、こちらでの説教を公開することにしました。11月20日からの説教になり、約一ヶ月間は、こちらでの説教は奨励程度ですので、割愛させていただきました。今後、月曜日には公開するでしょう。ブログも2015年1月半ばから再開としていますが、こちらにいながら公開することにしています。時々、ご覧になってください。




2014年11月20日 バルセロナ日本語で聖書を読む会

説教・「命の収穫」、鈴木伸治
聖書・サムエル記下5章1-5節、ルカによる福音書23章32-38節
賛美・(説教前)讃美歌21・18「心を高くあげよ」、
(説教後)讃美歌21・532「やすかれ、わがこころよ」


 本日は11月20日ですが、次の日曜日の23日を覚えながら、そのいろいろな意義が示されています。まず、11月の第四日曜日、今年は23日になりますが「収穫感謝日」であります。ユダヤ教では麦の収穫感謝としての五旬祭と、ぶどうの収穫感謝としての仮庵祭があり、その他の国でも収穫祭がおこなわれています。日本では昔、新嘗祭というものがありました。これは皇室の行事であり、今では11月23日は「勤労感謝の日」とされています。今年は第四日曜日と23日が重なりました。日本の教会が「収穫感謝日」としているのは、アメリカが第四木曜日に「収穫感謝祭」を行っているので、11月の第三、または第四日曜日を「収穫感謝日」として礼拝をささげています。神様が私達にお恵みを下さっているので、私たちが日々の歩みを導かれているのです。使徒言行録14章16節以下には、「神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです」と示されています。まさに神様は自然の恵みを通して、私たちを導いてくださっているのです。人間はその恵みを思うことなく、これは自らが植え、育て、収穫したと思っています。しかし、あの小さな種粒から、どうして芽が出てくるのか、その自然の神秘を探ることはできないのです。神様が自然の神秘を導いてくださっているのです。収穫感謝日には子どもの教会も大人の教会も、皆さんが果物、野菜等を持ちより、聖壇付近に飾り、これはまさに神様のお恵みであることを感謝しつつ礼拝をささげます。持ち寄った神様のお恵みは、前任のドレーパー記念幼稚園では社会福祉法人綾瀬ホームやさがみ野ホームにお届けしていました。
 23日はまた「謝恩日」とされています。謝恩とは、長年牧師として歩まれた皆さんが、隠退されて過ごされていますが、隠退された教師、また御遺族への感謝をあらわす日にもなっています。私自身も隠退教師になっています。牧師はもともと信徒でありました。神様に召されて教師、牧師になりますと死ぬまで教師の身分になります。隠退しても隠退教師なのです。私も45年間、牧師として歩んでまいりました。まだまだ働かれるではありませんか、と言われますが、そうだとしてもお手伝い程度の働きはできるでしょう。日本基督教団は年金制度を設けています。隠退教師にわずかではありますが年金を支給しています。年金の財源は牧師の掛金がありますが、教会の献金で支えることになります。「謝恩日」には謝恩日献金をささげ、年金の財源としています。また、「隠退教師を支える100円献金運動」があります。全国の教会の信徒の皆さんが、毎月100円をささげる運動です。この運動からも年金局に繰り入れ、年金の財源にしているのであります。
 さらに、23日は「終末主日」であります。来週の30日からは早くもアドベントになります。主イエス・キリストがこの世に到来するのを心から待望するのです。今年のクリスマス礼拝は12月21日であります。アドベントはクリスマスの4週間前から始まるのです。キリスト教の暦はクリスマスをもって新しい歩みが始まります。昨年の新しい歩みは23日の終末主日の週をもって終わります。そして、次の週の30日から新たなる歩みとなるのです。終末主日におきまして、終末を深く受け止めなければなりません。天地宇宙の始まりがあったのですから、天地宇宙の終わりもあるということです。聖書は終末を教えていますが、その時には主イエス・キリストが再び現れて、正しい者と悪いものを選別すると示しています。マタイによる福音書24章43節以下に、「家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」とイエス様がお示しになっています。
 本日は11月23日の第四日曜日のいくつかの意義を示されながら、「命の収穫」を与えられ、祝福の歩みを導かれたいのであります。命の収穫をいただくことは、神様の御心をいただくことでありますが、その道筋が本日の示しなのであります。

 旧約聖書ダビデイスラエル国家の王様に選任されたことを記しています。サムエル記下5章からであります。聖書の国イスラエルは、もともと王国ではありませんでした。神様を中心とする12部族の宗教連合体でありました。従って、各部族の長を中心にそれぞれが歩んでいたのです。しかし、周辺の国々に悩まされておりました。その時、現れたのが士師と言われる人たちです。ギデオン、サムソンという士師が現れて、苦難にある人々を救ったことが士師記に記されています。そういう中で、我々も王国になる必要があるとして、祭司サムエルに王を立てるように申し入れるのです。そして、最初に立てられたのがサウル王でした。サウル王は当初は神様の御心をもって国を治めていましたが、次第に自分の思いで国を治めることになるのです。それで、神様はサウルではなく、ダビデを王として選任します。しかし、この世的にはサウルが王様ですからダビデはサウルの家来として仕えます。ダビデの働き、武勲もあり、人々はダビデに心を寄せるようになります。サウル王は面白くなく、ダビデを殺そうとするのです。サウルから逃れて、ダビデは逃亡の身となります。そのことを記しているのがサムエル記上であります。
 サウルが戦いで死にました。その子どものヨナタンダビデとは親友の仲ですが、彼も戦いで死んでいくのです。こうしてダビデには敵対する者がいなくなり、全イスラエルの王様に選任されたのであります。それが今朝の聖書です。ダビデは長老たちから油を注がれます。「油を注ぐ」ということは、救い主として選任することであります。油注がれた者は指導者となりますが、神様の御心により人々を指導するのです。神様の御心による指導ですから、良い歩みが導かれるということであります。「油を注ぐ」との言葉は「メシア」であります。メシアは良き指導者、救い主であります。従って、「メシア」は「救い主」との意味に変わって行ったのであります。ダビデは30歳で王となり、40年間王様でした。ダビデはまさにメシアでした。いつも神様の御心を人々に示したのであります。そのため、後の世の人々が、苦しい時代にあって、再びダビデが現れることを待望するようになりました。新しい命を与えてくださるメシア待望が生まれたのであります。「命の収穫」を求めるようになったということです。その「命の収穫」はイエス・キリストによって実現したのであります。ダビデが「命の収穫」への道順を示し、イエス・キリストによって到達としたということです。

 11月第四日曜日は終末主日であり、主イエス・キリストが十字架上で死ぬ状況が新約聖書の示しであります。マタイによる福音書は、東の国の占星術の学者たちが、都のエルサレムにやってきて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と言いながら探し歩きました。実際のヘロデ王は穏やかではありません。自分が王であるのに、新しい王が現れたとは、いったいどういうことか。学者たちはイエス様にお会いしますが、ヘロデ王には生まれた場所を告げずに帰って行きます。イエス様は王様として現れましたが、それはまた待望していたメシアの出現でありました。人々はイエス様の教えに驚き、また喜び、受入ました。まさに「命の収穫」が与えられたのです。しかし、一部には「ダビデの子よ」と呼びかける人がいますが、そういう呼び方をするのは危険でもあるのです。「ダビデの子」は王としての存在であるからです。救い主ではないか、と人々は思いながらも口には現すことができません。人々はイエス様により、驚くべき奇跡を体験し、心を揺さぶる御心の示しをいただくのですが、メシアとしての確信が持てなかったのであります。命の収穫の確信ができなかったということです。
 時の指導者の妬みによりイエス様は十字架にかけられました。総督ピラトの命令により、十字架には「これはユダヤ人の王」と書いた札が掲げられていました。占星術の学者たちも総督ピラトも外国人であります。外国人がイエス様を「ユダヤ人の王」と呼んだのでありました。そして、人々はメシアなのか、分からないままに「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれたものなら、自分を救ってみろ」というのであります。主イエス・キリストはこの世に現れ、神様の御心を示し、苦しい状況にある人々をお救いになりました。差別を受けて生きる人々が多くいました。病にある者、社会の底辺におかれる人々、イエス様は社会の人々から除外されている人々と共におられたのであります。主イエス・キリストが十字架に架けられて死ぬのは、時の指導者達の妬みによるものですが、神様は救いようのない人間をお救いになるために、むしろイエス様が十字架で死なれることを御心とされたのでありました。すなわち、主イエス・キリストの十字架の死と共に、人間の奥深くにある罪、自己満足、他者排除をイエス様の十字架の血により贖われたのであります。私たちは十字架を仰ぎみるとき、私の罪をイエス様が贖ってくださったと信じるのであります。そして十字架を仰ぎ見ることにより、イエス様が私のすべてを受け止めてくださっていることを知るのです。「自分を救え」と人々は言いました。イエス様は自分の命により私達に「命の収穫」を与えてくださいました。私たちはイエス様により永遠の命へと導かれているのであります。今与えられている私の命は、イエス様が新しい命へと導いてくださったのであります。新しい命を収穫する喜びを与えられたのであります。

もう4年も前になりますが、映画「100歳の少年と12通の手紙」を鑑賞しました。内容を紹介しておきましょう。
オスカーという少年は10歳ですが、白血病で病院にいます。オスカーに対して両親もお医者さんも婦長さんも、何かを隠しているように感じるようになります。だからオスカーは大人たちの言動に不信感を抱くようになり、誰とも口を利かなくなるのです。ある時、オスカーはピザ屋のローズと出会います。ピザを配達に来たローズとぶつかってしまい、ローズは持っていたピザを廊下に落としてしまいます。ローズは口汚い言葉でオスカーを叱ります。しかし、オスカーはローズが真実に自分の気持ちを投げかけたので、気持ちがローズに向くのです。オスカーは主治医にローズを呼んでくださいと頼みます。主治医にしても婦長さん達も知らなかったのですが、どうやらピザを配達に来る人であると分かり、彼女を呼ぶのです。主治医からオスカーの様子を聞き、ぜひ話し相手になってほしいと頼まれますが、ローズは家族でもない子どもであり、死にゆく子どもの相手などできないと断ります。しかし、主治医のたっての願いで、ついにローズはオスカーの病室に入るのでした。ローズは元女子プロレスラーでした。オスカーはローズから12日間面会を許されたと聞き、自分の命を悟るのです。悲しみのどん底にいるオスカーに、ローズは故郷の言い伝えを話しました。「一日を10年と考えて生きようね。そして、毎日神様に手紙を書こうね」と勧めるのです。オスカーが手紙を書くと、ローズは病院の庭に出て、風船に手紙をつけ空に飛ばすのでした。病室から天国の神様に飛んでいく手紙を見つめるオスカーでした。オスカーは神様を否定していました。それでは神様に会わせてあげる言い、ローズは病院に分からないようにオスカーを連れ出し教会に連れて行きました。礼拝堂の正面には十字架のイエス様が置かれていました。それを見たオスカーは、苦しんでいるイエス様は神様ではないと言います。あなたのために苦しんでいるのだとローズ。神様にはおもちゃや自動車のようなものをお願いするのではなく、勇気や忍耐をお願いするの、ときっぱり言われるのです。オスカーは手紙を書くうちに神様を信じるようになって行くのです。1日を10年と数えはじめて10日を経ました。つまり100歳になっていました。そして、オスカーは静かに天国へと召されていったのです。その10日目には2通の手紙が書かれており、ローズは二つの風船に手紙を結び付けて天国へと送ったのでした。
 10日間は100年にも値するほど大切な日々でした。何よりも神様に心を向けながら、生きている証しを示されながら、力強く生きたのです。まさに神様は生きている者を導く方なのです。元女子プロレスラーのローズは気性の荒い人でしたが、小さな少年が命を見つめて生きており、自分が少年と共に生きるようになって変えられていきました。ひとりの存在を見つめることは、神様の御心が示されてくるということ、奇跡が起こるということ、周囲の者まで変えていくということを、この映画は示していたようです。小さな存在、弱い存在を見つめ、受け止めることは、自分が変えられていくということです。自分の苦しみを率直に手紙に書きました。今の状況をそのまま書きました。神様に向かっての短い命でありました。また、12通の手紙にも意味があります。12は聖書の聖なる数字とされているからです。神様の御心にある12通の手紙ということになるのでしょう。
 今、現実に苦しみがある。悲しみがある。その状況を神様に申し上げることです。私が生きているから、私を導いてくださるのです。死んでから天国に導かれることでありますが、現実に生きているからこそ、神様に心を向けるのであります。
イエス・キリストは十字架にお架りになりました。私達が命を収穫するためです。今生きている現実の生活において、喜びがある。それが命の収穫なのです。
<祈祷>
聖なる御神様。多くの恵みをいただいておりますこと感謝であります。さらに祝福の命を収穫する者へと導いてください。主イエス・キリストの御名によりささげます。アーメン。