説教「天国の紹介」

2014年10月19日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第20主日」、

説教・「天国の紹介」、鈴木伸治
聖書・イザヤ書25章1-10節
    マタイによる福音書5章1-12節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・285「主よ、み手もて」
    (説教後)讃美歌54年版・520「しずけき河のきしべを」


 秋を迎えると、学校や会社等の案内、紹介が始まります。長年、幼稚園に携わってきましたが、10月15日から幼稚園案内や願書を配布するのです。昔は決まりがありませんでしたので、もう夏の頃から次年度入園の受付をする幼稚園がありました。競争をするように、だんだんと受付が早くなっていくのです。それで県の方で統制を取ることになり、願書配布は10月15日、入園受付は11月1日と決められたのであります。幼稚園の案内書は既に作成されているので、多少の訂正くらいで使うことになりますが、やはりこの時期になると、どのようにして幼稚園の紹介をするか、思案するところであります。以前は幼稚園の説明会はしていませんでしたが、開催するようになりました。一通りの説明をして、当幼稚園に入園を決めている人は、お名前を記入してください、などと県の規制すれすれのことまでしました。名前を書いても入園予約書でもなく、受付でもないわけです。しかし、保護者の皆さんは入園の予約のつもりでお名前を書いていました。
 ドレーパー記念幼稚園を退任し、その後は横浜本牧教会の代務牧師として半年間務めることになりました。同教会は付属の幼稚園があり、幼稚園の場合は代務ではなく、本格的に園長として就任しなければならないのです。わずか半年間の園長でした4月から9月まですが、9月になって入園案内の準備に入りました。そしたら案内書がたいしたものではないことを知りました。こちらの幼稚園は希望者が多く、案内書を作らなくても良いような状況でした。しかし、新しく幼稚園に入る保護者のために、この幼稚園がどのような内容であるか、その様な案内書が必要なのです。9月で退任するのに、一生懸命になって入園案内を作ったことが思い出されます。10月から新しい牧師、園長が就任するのですが、10月15日から案内書と願書の配布が始まるのです。就任してからではあわただしくなるわけです。少なくともその年の幼稚園案内は間に合いました。つぎの年はどの利用にしたのかは分りませんが、存在の内容を示すこと、大切なことなのです。
 案内書と言えば、やはり秋になると、私の出身の神学校から入学案内書が送られてきます。教会の皆さんを励まし、神学校入学を勧めてほしいわけです。その案内書を毎年見るたびに、こんなに立派な案内書が必要なんだろうか、と思ってしまいます。学校のたたずまい、図書館や寮生活の紹介等、うらやましくなるほどの内容紹介でした。このような内容紹介を見て、神学校入学を決心するだろうか、と思うのです。大学の案内書ならともかくです。たくさん大学がある中で、やはり大学の内容紹介により決める人もあるでしょう。しかし、神学校の場合は、多くの場合、すでに神学校を決めているのです。自分にあった神学校を選んでおり、案内書はそれに対するオリエンテーションみたいなものです。素晴らしい内容であるから決めるということではないのです。神学校生活の紹介程度でよいと思います。立派な案内書で励まされる人もあるでしょうから、それはそれでよいことです。
 私達も信仰の内容を改めて示され、目指している天国について、イエス・キリストが紹介していますので、しっかりと受け止めたいのであります。

 「神さまの驚くべき御業」を紹介しているのはイザヤであります。今朝は旧約聖書イザヤ書25章1節から9節であります。イザヤ書は66章までありますが、背景としては大国バビロンに滅ぼされる前の時代、滅ぼされて捕囚の時代、捕囚から解放された後の時代であります。今朝のイザヤ書はバビロンに滅ぼされた後の時代になりますが、特に捕囚に生きる人々に対する御言葉というより、滅ぼされて苦しみつつ生きる人々への、神様の御心を示しているのであります。そのことのために、イザヤは「神さまの驚くべき御業」を紹介するのであります。「主よ、あなたはわたしの神、わたしはあなたをあがめ、御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された。遠い昔からの揺るぎない真実をもって」と示しています。そしてその後に、「あなたは都を石塚とし」と述べていますが、おそらくこの「都」とはバビロンを示しているのです。バビロンはのちにペルシャの国に滅ぼされますが、大きな戦いが展開されたのではなく、無血でバビロンの門がペルシャに明け渡されたと言われます。従って、この預言の通りではありませんが、苦しい今、神様が苦しみの根源を断ちきってくださることを示しているのであります。「まことに、あなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦、豪雨を逃れる避け所、暑さを避ける影となられた」と紹介しています。
 イザヤは20歳の時に神様からの召しをいただいています。イザヤの召命はイザヤ書6章に記されています。イザヤは神殿で神様の顕現を示されます。天使たちが「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と歌っています。その時、イザヤは恐怖に襲われるのです。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た」と述べます。すると、天使が火鋏で炭火を取り、イザヤの唇に触れるのです。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と天使が示すのであります。すると神様の御声が聞こえました。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代って行くだろうか」と言われるのであります。すると、イザヤはすぐさま「わたしがここにおります。わたしをお遣わしください」と応えるのでありました。神様の召しに応えたイザヤに、「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と」と言われています。変な言い方です。聞くけれども理解するな、見るけれども悟るなと言っているのです。神様の御心を示すために遣わされるのですが、たやすく理解したり、悟ってはならないと言っているのです。
 人間はいつも表面的にしか受けとめないのです。本当にそこで示されている御心を、心の底から受けとめてないのです。繰り返し、繰り返し神様の御心を示されなければならないのです。聖書の人々がエジプトで奴隷であり、モーセが王様に解放を求めます。許可しないので審判を与えます。すると、その苦しさのゆえに解放を赦しますが、災害がおさまると心を翻して、過酷な労働を課すのです。このことが繰り返し行われます。その時、聖書は、王様の心を頑なにしているのは神様であると示しているのです。表面的な受けとめ方ではなく、本当に、心から神様の御心として行うことへと導かれているということであります。
 イザヤは40年間、預言者としての働きを致しました。繰り返し、繰り返し神様の御心を紹介しているのです。今朝の「神さまの驚くべき御業」を紹介示することも、神様の救い、導きを紹介することも、今までも繰り返し紹介しているのです。人々は一時的には喜びますが、また御心から離れていくのです。それでもイザヤは神様の御言葉を紹介し続けるのであります。神様があなたを導き、あなたに祝福を与えると紹介し続けているのです。「その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び踊ろう。主の御手はこの山にとどまる」と人々が告白する日が来ることを示しています。神様が必ず導き、祝福の国に導く、このイザヤの預言に人々は希望をもちました。

 祝福の国、天の国に導いてくださるのは主イエス・キリストであります。イエス様の到来はわたしたちが天の国、神の国に生きるためでした。「悔い改めよ。天国は近づいた」(マタイによる福音書4章17節)と言われて、福音を宣べ伝え始められたのです。今朝は、その天の国に生きるために「幸い」を教えてくださっています。マタイによる福音書5章1節から12節が今朝の示しであります。イエス様による「幸い」の教えは、私たちが心に示されている幸福、幸せとはおよそ異なるものであります。私たちの幸せ観は、うれしいことであり、苦労や心配がないことであり、いつも楽しく過ごすことではないでしょうか。もちろんイエス様は私たちの幸せ観を否定してはいません。しかし、こと「天の国」に生きるには、イエス様の「幸い」を受けとめて生きなければならないのであります。
 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と教えておられます。「心の貧しい」とは、貪欲とか欲張りではありません。心の中に何もないことを示しているのです。私たちの心の中には、いろいろな思いが詰め込まれています。自分がおかれている状況において、常に良い状況へと進められることであります。すると、神様の御心が入り込めなくなるのです。押し込んでも、押し込んでも、先に入っているさまざまな思いにより、御心が浸透していかないのです。いちど、心の中を空っぽにしなければならないのです。その時、初めて御心が私の肉となり、支えとなるのです。自分をむなしくして御言葉の前に頭を垂れることなのです。「天の国はその人たちのものである」とイエス様が祝福してくださいます。
 イエス様が「天の国が近づいた」と言われる時、一つには終末を意味しているでありましょう。人間の始まりがあれば終わりがあるということです。そのような自然的なことと共に神様が終末を来らせられるということです。そして、「天の国は近づいた」ということは、生きているこの状況の中に「天の国」が実現するということであります。死んで彼方の国ではなく、生きている現実が「天の国」なのです。イエス様による神様の御心に生きるとき、天の国に生きているかのように喜びと祝福をいただきながら生きると言うことなのです。イエス様は永遠の生命について繰り返し教えておられますが、永遠の生命は生きている今、この状況において与えられるということなのです。イエス様の「幸い」を受けとめて生きることなのです。
 「悲しむ人々」、「柔和な人々」、「義に飢え渇く人々」、「憐れみ深い人々」、「心の清い人々」、「平和を実現する人々」、「義のために迫害される人々」、「身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき」と九つの「幸い」を示しておられます。いずれも神様の御心に満たされているとき、たとえ「悲しみ」、「迫害されても」、「幸い」に包まれているということです。天の国に生きているからです。このように示されているのでありますが、私たちは好んで迫害のさなかに身を置きたくありません。「身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき」、やはり辛いです。悲しいです。孤独をしみじみ味わわなければなりません。しかし、その時こそ、今の私は「幸い」に包まれていることを実感しなければならないのであります。主イエス・キリストは私たちが福音を喜びつつも、「幸い」に生きることができないので、神様の御心において十字架にお架りになりました。十字架は私の「幸い」への道なのです。天国に市民権をもっていることを、次第にはっきりさせてくださるのが「幸い」の道なのです。天国に市民権をもつ者へと導いてくださる主イエス・キリストなのであります。この世に生きていながら、天国の市民権をもっている、誇らしい生き方であります。

 イエス・キリストはマタイによる福音書5章で天国を紹介してくれました。天国の紹介は、まずここから始められていますが、福音書は全体的にイエス様による天国の紹介なのです。マタイによる福音書では13章にまとめて天国を紹介しています。「種を蒔く人」のたとえが示めされています。種が良い土地に落ちれば100倍の実を結ぶと教えられています。雑草のような姿、石地のような姿がありますが、それらの姿勢では種は育ちません。私達は良い土地の姿勢を持っているのです。御言葉が育つ姿があるのです。良い土地に導かれることなのです。「からし種」や「パン種」のたとえ、畑に隠されている宝物のたとえ等がお話しされています。そして、最後に「天の国のことを学んだ学者」についてお話ししています。イエス様は天国についてお話しをされ、お弟子さん達に「あなたがたは、これらのことがみな分ったか」と尋ねました。お弟子さん達は「分りました」と言いました。本当に分るために、イエス様は説明されています。「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」と締めくくっているのです。「新しいもの」とは、他の存在を見つめることです。「自分を愛するように、他の存在を愛しなさい」と教えられた生き方が新しい存在なのです。他の存在を見ないで、自分ことしか考えない人は古い存在ということになるのです。自分の倉の中は、古い姿の存在ばかりです。自分のために集めた物ばかりなのです。しかし、その様な姿勢で倉に仕舞っていたものですが、他の存在のために用いるのであれば、新しいものになるのです。自分自身も新しい存在になるのです。まだまだ倉の中には「古いもの」がしまわれているので、それらを出しては新しいものにしていくことを教えているのです。それが天国というものであるということでした。
 天国は遠いところにあるのではなく、私達の現実の中にあることをイエス様は教えてくれました。現実の中にあるのですから、日々の生活は天国の歩みであるということです。
<祈祷>
聖なる御神様。イエス様による天国の紹介を感謝いたします。現実を天国として祝福の歩みをさせてください。主イエス・キリストの御名によりおささげいたします。アーメン。