説教「お恵みが深くなる」

2012年12月16日、三崎教会
降臨節第3主日

説教、「お恵みが深くなる」 鈴木伸治牧師
聖書、イザヤ書61章1〜3節、
   ルカによる福音書1章57〜80節
賛美、(説教前)讃美歌21・240「『主イエスは近い』と」
   (説教後)讃美歌21・475「あめなるよろこび」


 待降節降臨節アドベント第三週になりました。ローソクの明かりも三本になり、クリスマスが近づくにつれ、いっそう明るくなってきております。いっそう明るくなってきているということは、神様のお恵みがすぐ近くにまで来ているということであります。まさにクリスマスはお恵みとして迎えなければならないのです。クリスマスは教会でお祝いしなくても、この社会はクリスマスの喜びに包まれています。クリスマスのいろいろな集いが予定されているでありましょう。プレゼントを贈りあったり、パーティーを開いたり、ツリーを飾ったりしながら楽しく過ごすのです。まさにクリスマスはお恵みであると思います。私の家の近くの家は、きれいなイルミネーションを飾っています。夜、その家の前を通るとき、きれいなイルミネーションに思わず足を止めて眺めるくらいです。あるいは玄関にリースを飾っている家もあります。この世の人たちは、皆さんがお恵みのクリスマスを待望しているかのようです。しかし、世の人々のお恵みというのは、喜び合うということであると思います。私達もクリスマスは喜びとして待望していますが、喜びの内容が異なるのであります。世の人々は楽しい喜びであり、私達は救いの喜びということでクリスマスを待望しているのです。
クリスマスは主イエス・キリストがこの世に現れて、人々を真に生きる者へと導いてくださったのであります。それが私達のお恵みであり、喜びであるのです。イエス様がお生れになったのは、今から2000年前でありますが、その頃、ヨーロッパの世界はローマ帝国が始まったばかりであります。カエサルという人がヨーロッパを征服し、ローマの支配下にして行きますが、カエサルは皇帝ではなく、初代皇帝になるのは次の指導者、アウグストゥスでありました。皇帝アウグストゥスが誕生したとき、人々は「平和の王」、「救いの王」として喜んだのであります。その時代に主イエス・キリストが救い主としてお生れになります。ローマの人々が皇帝を「平和の王」と称賛するのは、皇帝が「パンとサーカス」を人々に与えるからでした。パンは食べ物ですが、国力を持って人々に小麦等を支給したりしました。また「サーカス」というのは見世物です。いろいろな競技場を造って、そこで競技させたりすることで人々は熱狂するのです。そういうことをしてくれる皇帝こそ「平和の王」なのでした。
9月から二ヶ月間、スペイン・バルセロナに行ってまいりました。娘が現地でピアノの演奏活動をしているのです。その二ヶ月の間に四日間でありますがローマを訪ねてきました。ローマはキリスト教発展の場であり、文明発祥の地でもあります。細かいお話は割愛しますが、コロッセオという競技場を見学しました。5万人は収容できる大きなものでした。今は荒廃して、競技場の床の部分がなく、地下の施設等を見ることができます。この競技場が出来たとき、100日間は人間と猛獣との戦いが見世物となりました。人間と人間との殺し合いも行われ、キリスト教迫害で信者が猛獣にかみ殺されるという見世物もあったということです。その後、ローマはキリスト教の国になり、そのような見世物は廃止されていくのであります。私はコロッセオを見つめながら、いわゆるサーカス、見世物で熱狂し、それをもって「平和の王」と称賛していた時代を思いながら、クリスマスをサーカスとするか、私の貧しさのためであるのか、つくづく示されたのでした。サーカスを挙行するローマ帝国は滅びて行きました。しかし、主イエス・キリストの救いは現代にも宣べ伝えられているのであります。

 人間は皆、貧しさの中に生きているのです。その貧しさの中で「パンとサーカス」を与えてくれることを熱望した人々、そうした人々の中で、貧しさの中で神様の御心を求めて生きること、それが聖書の導きということです。
 今朝の旧約聖書イザヤ書61章は「貧しい者への福音」との表題で示されています。この聖書の示しにより、真の「貧しさ」を示されるのであります。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために」と言われています。ここで言われている「わたし」とは預言者イザヤのことですが、イザヤが神様の御心を人々に伝える使命をいだいているのです。今朝のイザヤ書は61章になりますので、聖書の分類では第三イザヤということになります。イザヤ書は1章から39章までは第一イザヤの時代であり、聖書の人々がバビロンに捕われの身になる前の時代です。しかし、アッシリアの大国に支配されていたのであります。40章から55章まではバビロンに捕われている状況であり、その人々に救いの預言を与えているのです。そして56章から66章はバビロンの捕われから解放された後の時代を背景としています。バビロンの捕われから解放されても、祖国に帰らず、そのままバビロンやペルシャに残る人々もいました。一方、故国に帰った人たちは、都エルサレムの神殿再建のために働かなければなりませんでした。また、捕われなかった人々の迫害等もあり、決して解放の喜びを得るというものではありませんでした。そういう人々を示されながらイザヤは神様の御心を人々に伝える使命に立ちあがったのであります。
 「打ち砕かれて心を包み、捕われ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」神様の御心を伝えると示しているのです。それは「貧しい人々」へのメッセージなのです。人間は皆「貧しい者」であることは先にも触れました。その貧しさが何を求めるのか、ということです。「パンとサーカス」なのか、「神様の御心」なのか。イザヤは真の「貧しさ」を求めているのです。「嘆いている人々を慰め」、「暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」と宣言しています。ローマの皇帝は常に「パンとサーカス」を人々に与えることに心を砕いていたのです。そうでないと人々のから「平和の王」の叫びが消えるからであります。従って、この場合の「貧しさ」は人間の欲望でもあるのです。
 主イエス・キリストは、「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」と教えてくださいました。イエス様が「心の貧しい人」と言っているのは、「御心を求める人」のことであり、人間の欲望による、心を満足させることではないのです。むしろ心を空しくして、ひたすら「神様の御心を求める」人こそ「心の貧しい人」なのです。旧約聖書のイザヤは荒廃した世の中にあって、貧しい者として「神様の御心」を求めることを教えているのです。

 クリスマスの前の週はバプテスマのヨハネを示されることになっています。ヨハネは後に現れる救い主イエス・キリストを証しした人です。ヨハネはイエス様より先に現れて、人々に宣言しています。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りから免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と厳しく述べています。これはルカによる福音書3章に示されています。このようなヨハネから想像すると、ヨハネは厳しく人々を断罪しているかのようです。しかし、私は、今朝は異なる視点でヨハネを理解したいのです。それが今朝の聖書ルカによる福音書1章57節以下に記されています。
 今朝の聖書はヨハネが生まれたことについての示しです。「ヨハネ」との名前は神様から示されています。父であるザカリアに天使が現れ、「あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子の名をヨハネと名付けなさい」と示すのです。ヨハネが生まれた時、母エリサベトは近所の人々や親類が集まって、生まれた子供に父の名を取って「ザカリア」と名付けようとしましたが、エリサベトは「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言っています。ザカリアは天使のお告げを受けたとき、「時が来れば実現する神様の言葉を信じなかった」ので、話すことができなくなっているのです。従って、エリサベトは生まれる子供の名は「ヨハネ」であるとはザカリアからは聞いていないのです。何らかの方法、名前を書いて示したことも考えられますが、やはりエリサベトにも生まれる子供の名前は「ヨハネ」であることが示されていたのであります。生まれる子供は「ヨハネ」でなければならなかったのです。この「ヨハネ」という名前のギリシャ語の意味は「神様は恵み深い」ということです。それに対してザカリアのギリシャ語の意味は「神様はおぼえていたもう」になります。神様がザカリア・エリサベトから生まれる子供の名前を「ヨハネ」にしているのは、ヨハネにより、恵み深い神様のお導きを示すためであったと示されます。
 聖書の人々の名をすべて神様が名付けているとは記されていませんが、重要な存在を示されるとき、神様が名付けておられることを示されるのです。まさにヨハネの場合も神様が示されていますが、何よりも主イエス・キリストのお名前も神様が名付けておられるのです。天使はマリアさんに「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と示しています。イエスと言う名はヘブル語ではヨシュアでありますが、ギリシャ語で言えば「イエス」です。「神様は救いである」と言う意味なのです。しかし、当時の世界では「イエス」と名付ける人が多く、この名は普通の名前でもあったのです。普通の名前でありますが、本来の意味である「救い」が重い意味になるのです。
 余談になりますが、子供に名前を付けることは親の願い、祈りであります。日本の2011年度の名前ベストテンが紹介されていました。男の子で第一位は「大翔」(ヒロト)でありました。大きく羽ばたけとの願いがあるのでしょう。第二位は「蓮」(レン)という名前です。この蓮はすいれん科の多年生植物と言われています。この場合は意味よりも呼び名の良さと言うことかもしれません。女の子の場合は、「陽菜」(ヒナ)ちゃんが第一位です。第二位は「結愛」(ユア)ちゃんです。意味もありますが、愛らしい呼び方を選ぶ傾向です。以前、生まれた子供の名を「悪魔」として届けようとした親に対し、待ったがかかったことが報道されていました。

 ヨハネは神様によって名づけられています。「神様は恵み深い」との意味ですから、ヨハネは神様のお恵みを人々に知らせる働きが導かれているのです。ルカによる福音書3章にはヨハネがこの世に出現したことが記されています。バプテスマのヨハネについてはマタイ、マルコによる福音書にも記されていますが、「らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」と紹介しています。そのヨハネが人々に「蝮の子らよ」と言って悔い改めを迫っているのです。厳しく世の人々を断罪しているようです。しかし、ルカによる福音書だけが優しく人々を指導していることを記しています。3章7節以下に記されています。群衆はヨハネに「わたしたちはどうすれば良いのですか」と尋ねたとき、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と示しているのです。神様のお恵みによって生きていますが、人間の差別が持たない者を生み出しているのです。共に生きること、お恵みを分かち合いながら生きることを示しているのです。その意味でヨハネはイエス様の先駆けとして世に現れていますが、「お恵みが深くなる」ことを先駆けて示しているのです。そして、本当に「お恵みが深くなる」のは主イエス・キリストが現れることですよ、と人々に示したのがヨハネの働きなのです。
 今朝はイエス様より先に現れたバプテスマのヨハネが、「お恵みが深くなりますよ」と叫んでいることを示されているのです。「お恵み」とは私達の貧しさが「パンとサーカス」を求めることではなく、「心の貧しさ」として神様の御心を求めることです。神様の御心は主イエス・キリストによって実現しています。イエス様はこの世に現れて、人々に神様の御心を示し、御心を実践できるよう十字架によって私たちを救われたのです。私達は十字架を仰ぎ見ることにより、私の歩むべき道が示されて来るのです。お恵みが深くなって、私達は元気に、力強く歩むことができるのです。
 日本でクリスマスの飾りをしたのは、1904年、明治37年12月15日に、東京の銀座にある明治屋であるそうです。それがはしりとなって、次第にクリスマス飾りが派手になって来ています。巨大なクリスマス・ツリーが賑わいを見せています。世の人々にクリスマス飾りは平安を与えるようです。2011年3月11日の東日本大震災が発生しました。仙台市も大きな被害に見舞われ、大勢の人たちが生活の基盤を失い不安の中にありました。そんな状況の中で、仙台市の冬の風物詩、クリスマス光のページェントの開催が待ち望まれていたのです。しかし、準備されていた55万個のLED電球は、大津波にさらわれてしまっていました。危ぶまれていた光のページェントの開催でした。ところが、各地からの応援で電球が集まり、開催への希望と道筋が開かれ、ついに実現したということです。クリスマスをめぐって、人々の心に届けたい温もりを感じさせてくれるドキュメンタリーでした。イルミネーション、クリスマス飾りを見ながら、楽しいクリスマスを待っている訳ですが、私達はこれらのクリスマス飾りから、バプテスマのヨハネの叫びを聞きとらなければならないのです。「お恵みが深くなりますよ」と叫び、そのためにイエス様がお生れになるのですよ、とヨハネの声をしっかりと受け止めなければならないのです。
<祈祷>
聖なる御神様。私たちを貧しい者へと導き、御心を求める者へとお導きくださり感謝致します。このお恵みを多くの人々に証しさせてください。主の御名により。アーメン。