説教「解放者の出現」

2022年12月4日、六浦谷間の集会

「降誕前第3主日

                      

説教・「解放者の出現」鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書55章1-5節

   ローマの信徒への手紙15章7-13節

   ルカによる福音書4章14-21節

賛美・(説教前)讃美歌21・236「見張りの人よ」

   (説教後)讃美歌21・431「喜ばしい声ひびかせ」

 今年も早くも待降節第2主日になりました。待降節は前週11月27日より始まっています。12月になると一層イエス様のクリスマスが近づいてきた思いであります。今年も、また昨年も子どもたちのクリスマスページェントはありませんが、2020年までは幼稚園の園長を担っていましたので、クリスマスの降誕劇を演じてお祝いしていました。2016年と17年は横浜本牧教会の早苗幼稚園のクリスマスでした。そして、2018年から20年までの3年間は伊勢原幼稚園でした。クリスマスを振り返っていますが、2015年はこの六浦谷間の集会で皆さんと共にお祝いしました。2014年はバルセロナでお祝いしています。2011年から2013年までは六浦谷間の集会でお祝いしています。そして2010年は横須賀上町教会でお祝いしました。その前の2009までの30年間はドレーパー記念幼稚園で子どもたちと共にお祝いしています。ですから、今日までのほとんどは子供たちと共にクリスマスページェントを演じながらお祝いしてきたのでした。

 楽しく、賑やかに迎えるクリスマスですが、このクリスマスは「貧しい人に福音」が与えられることなのです。「貧しさ」とは、生活の貧しいこともありますが、むしろ私達自身の貧しさなのです。イエス様が人々の前に現れて、神様のお心を示されたとき、まず示されたことは、「心の貧しい人々は、幸いである」ということでした。いつも生活の豊かさに埋没している私たちは、心が豊かなのです。心を貧しくして、神様のお心を満たさなければならないのです。心を貧しくしてこそ、真のクリスマスを迎えることができるのです。私の貧しさのためにイエス様がお生まれになられたことを示されたいのです。貧しさを解放してくださる救い主がお生まれになるのがクリスマスなのです。

 「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」と招きの言葉が与えられています。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい」ということですが、水は人間にとって大切なものです。この水は人間に必要な水分でありますが、それと共に人間に必要な活力、神様からいただく人間の力なのであります。聖書は人間に必要な水が神様から与えられることを示しています。まず、旧約聖書創世記で天地が神様によって造られ、人間がエデンの園に住むことから始められています。そのエデンから一つの川が流れ出ています。エデンの園をうるおし、流れ出た川は四つの川となって行くのであります。ピション川、ギホン川、チグリス川、ユーフラテス川であります。これらの川は世界の隅々まで流れ出ていることを示しているのです。神様によって命の水が与えられていることを示します。聖書の人々がエジプトで奴隷であり、モーセを通して救われ、神様の約束の地を目指す途上、飲み水がなくて人々は不平を述べモーセに詰め寄ります。その時、神様は岩から水を流れさせ、人々の喉をうるおしました。エゼキエル書には神の都から「命の水」が流れ出ていることを示しています(47章)。詩編第1編の2節「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときがめぐり来れば実を結び、葉もしおれることがない」と示していますが、水すなわち神様の御心に生きることが祝福であることを教えているのです。

 イザヤ書が招きの言葉をもって始めているのは、今や神様の御救いが実現していることを示しているからであります。イザヤ書40章から55章までで、バビロンに捕われている人々を励まし、慰め、希望を与えるのであります。もともと聖書の人々がバビロンによって滅ぼされ、バビロンに捕え移されたのは、人々が神様の御心に従わなかったからであります。バビロン、エジプト、アッシリアという大国の狭間にあって、どの国に頼るかが最大の課題となり、神様の御心に従わなかったことでありました。バビロンに滅ぼされるということ、一つには神様の審判でもありました。バビロンに捕らえ移された人々は、改めて神様の御救いを待望するように導かれていくのであります。その働きをしているのが、やはり捕らえられ、共にバビロンにいる預言者、イザヤなのであります。そして、バビロンの勢力が弱くなり、ペルシャの国が強くなっている状況下で、今こそ神様がお救いくださることを示しているのです。神様の招きの言葉を聞きなさいと示しています。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい」と示しています。

 私たちは、この招きの言葉がイエス様によって私たちに与えられていることを知っています。「この水を飲むものは誰でもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と示されています(ヨハネによる福音書4章14節)。

 ルカによる福音書4章14節からが今朝の聖書です。ここでは主イエス・キリストが「ガリラヤで伝道を始める」ことが記されています。イエス様がお生まれになること、それはこのルカによる福音書の1章、2章で記されています。今朝はそのイエス様が世に現れることを記しているのです。今朝の聖書の前で、イエス様が誘惑を受け、悪魔と闘い、退けたことが記されています。神様の御言葉により悪魔に勝利したことが記されているのです。そして、今朝は神様の霊に満たされ、ガリラヤに帰えられたと記しています。すぐにもイエス様の評判が高まり、人々から尊敬されたとも記されています。

 イエス様はナザレに来て、ここはイエス様が育ったところですが、会堂で聖書を読まれました。それはイザヤ書61章1節、2節であります。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」との言葉を読まれました。イザヤ書の言葉とは少し言い方が異なりますが、救い主が人々に解放と回復、自由と恵みを与えるために到来したことを示しているのです。

 「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとには戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」のがイエス様であります。イエス様は、時の指導者の妬みにより十字架への道を歩みます。人々がイエス様の教えを喜び、心をイエス様に向けるようになった時、ユダヤ教の指導者達は妬みを起こし、何とかしなければ自分たちが浮かばれないと考えたのであります。十字架に付けてイエス様を無くすことです。こうした人間のたくらみに対して、神様は御言葉としてこの世に出現したイエス様でありますので、むなしくは死に至らしめませんでした。人間のどうしても救われない姿、自己満足、他者排除、この姿を神様が十字架で滅ぼされたのであります。従って、十字架によって抹殺されたイエス様ですが、この十字架から新しい命が生まれるようになったのであります。神様の言葉としてこの世に与えられたイエス様は、むなしく終わったのではありません。「むなしくは、わたしのもとには戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と示される通り、人々の救いとなられたのであります。その主イエス・キリストの招きの言葉を聞きましょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とイエス様が招きの言葉をくださっています。

 私たちは、戦争と言えば昔のことと思っています。日本の戦争が原点にもなっています。しかし、戦争はいつの時代でも起きるのです。現代は文明が進んでいますので、戦争等起きないと思うこともありますが、しかし実際には戦争が起きています。ロシアがウクライナに侵攻しての戦争ですが、そのほかの国でも戦争が起こされており、それどころか、それぞれの国が戦争への備えを強化しているようです。日本の国も軍備を増強しているのです。なぜ戦争が起きるのでしょうか。自分の国が良くなるために他の国を侵略していくのです。人間の貧しさと言うことでありましょう。最初にも示されましたが、イエス様は人間の貧しさを救うために、貧しさから解放するために現れたのでした。「心の貧しい人は幸いである」と示されています。心が貧しいとは、心を空っぽにすることなのです。私たち人間は、欲望の塊なのです。次から次へと心をいっぱいにしています。いろいろな欲望が詰め込まれているのです。いっぱい詰め込まれた心を解放するために、イエス様は十字架にお架かりになられたのでした。私たちの自己満足、他者排除をなくすために命をささげられたのでした。

 キリスト教はイエスの十字架による救いを信じる宗教です。しかし、今の世の中は、特に若い人たちは、そのような宗教には気が向きません。楽しみがないからです。クリスマスと言い、賑やかに楽しむことであれば、教会に来るのでしょうが、むしろ自分たちで賑やかに過ごした方が良いのです。これはどこの国でも同じ事が言えるでしょう。娘がスペイン・バルセロナにいますが、現地の教会も老人ばかりで、若者が少ないということです。心の貧しさを解放してくださるイエス様をお祝いしたいのです。

<祈祷>

聖なる神様。神様の御言葉をくださり、お導きを感謝いたします。御心のままに歩ませてください。イエス様の御名によりお願いします。アーメン。

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