説教「うれしいお知らせ」

2022年12月11日、三崎教会

「降誕前第2主日

                      

説教・「うれしいお知らせ」鈴木伸治牧師

聖書・ゼファニヤ書3章16-20節

   ルカによる福音書1章5-25節

賛美・(説教前)讃美歌21・231「久しく待ちにし」

   (説教後)讃美歌21・202「よろこびとさかえに満つ」

 待降節第三週になりました。待降節アドベントと称していますが、このアドベントローソクを灯してイエス様のご降誕を待望するのです。ですからアドベント第一週は一本のローソクを灯します、イエス様の明るい光が近づいたことを示しているのです。アドベント第二週は二本のローソクを灯します。そして、今朝はアドベント第三週ですから三本のローソクを灯しています。次の日曜日は12月18日で、アドベント第四週になり、四本のローソクが灯されます。四本のローソクが灯されますが、まだクリスマスではありません。今年は25日が日曜日であり、多くの教会はこの25日にクリスマス礼拝をささげるでありましょう。そうすると5本のローソクを灯すのでしょうか。そういう素朴な疑問が出てきます。四本のローソクが灯されるとクリスマスということでありますが、五本のローソクは灯さなくてもよろしいのです。ローソクアドベント待降節に灯して、近づくイエス様の光を待望するのです。一本ずつ増やして四本のローソクが灯されるとクリスマスになるのですが、アドベントはイエス様がお生まれになるまでの期間です。そのアドベント待降節は12月24日の夕刻までになります。四本のローソクは光輝き、ついにイエス様のクリスマスになるのです。従って、5本のローソクは必要ないのです。もはやイエス様の光が現実に現れたからです。ローソクの光ではなく、イエス様の光が与えられたのであります。

 クリスマスにはプレゼントがあるということ、どこの国でも行われています。今まで在任した幼稚園でも、クリスマスになるとどのようなプレゼントにするか悩みの種でした。幼稚園からもプレゼントが用意され、父母の会でもプレゼントが用意され、プレゼントのあげすぎではないかと思っていました。大人でも同じかもしれません。プレゼントがあるからクリスマスを喜ぶのではなく、何よりも神様からのプレゼント、主イエス・キリストがこの世にお生まれになり、明るい光を与えてくださった「うれしいお知らせ」なのです。本日はクリスマスが近づき、神様の「うれしいお知らせ」を真実に聞きたいのであります。

 「主なる神様はあなたの中にいるのです」と示しているのがゼファニヤという預言者でした。この預言の中で、ゼファニヤは都エルサレムにおりますが、社会の悪を指摘し、異教の習慣への批判、どんなに強い国でも神様の支配におかれていることを力強く示しているのです。特に、苦しめられている人々、卑しめられている人々こそ神様の恵みと導きがあることを知らせているのであります。「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び踊れ」と叫んでいます。エルサレムは中心である都であります。シオンはエルサレムの東の丘であり、ダビデの町と称されていました。しかし、シオンはエルサレムの町を言うようになっていきますが、シオンは広範囲のエルサレムの意味になります。エルサレム、シオン、イスラエルは同じ意味、すなわち神様のいますところ、御心が示される場として同等の意味を持つのであります。

 都の中で社会の悪、貧しきもの、弱い者が苦しめられています。それをしっかりと見据えたゼファニヤは神様の御心を人々に示すのであります。だから、「喜び叫べ、歓呼の声をあげよ、喜び踊れ」と叫んでいるのです。喜びの基は、「王なる主はお前の中におられる」ということであります。さらに、たたみ掛けるように、「シオンよ、恐れるな。力なく手を垂れるな。主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる」とも示しているのです。あなたのただ中に神様がおられるということです。

 さらにゼファニヤは社会の中で苦しんでいる人々を見つめています。「わたしは、祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。彼らはお前から遠く離れ、お前の重い恥となっていた」と指摘しています。神様が苦しめられている人々を集めてくださるのでありますが、あなたがた自身がそれらの人々を社会の片隅に追いやっていたと指摘しているのです。「お前の重い恥となっていた」と言われる時、鋭く指摘されているようです。

 ゼファニヤの預言の言葉は、現実は苦しい状況であり、神様の御心から離れているような人々であります。しかし、今与えている神様の御言葉は、ときが来れば必ず実現するのであります。今は苦しいのですが、悲しいのですが、ゼファニヤによって与えられた神様の御言葉は、ときが来れば必ず実現するのであります。「わたしは足の萎えていた者を救い、追いやられていた者を集め、彼らが恥を受けていたすべての国で、彼らに誉を与え、その名をあげさせる」と示しているのであります。

 「時が来れば実現する神様の言葉」を証明しているのがルカによる福音書であります。本日は主イエス・キリストの先駆者として現れるヨハネの誕生の予告であります。ヨハネはイエス様より先に現れて、時の社会に厳しく悔い改めを迫りました。そして、自分の後には真の救い主が現れるので、今のうちにお迎えする備えをしなさいと教えているのです。そのヨハネが誕生することを予告するのが本日の聖書であります。祭司ザカリアとその妻エリサベトはもうかなりの高齢になっていました。彼らには子供がいませんでした。ザカリアが祭司のお務めの当番になり、職務を担っている時、天使が現れました。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。彼はイスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち返らせる」というのでした。その時、ザカリアは「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と言います。天使は言います。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、このことが起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と言われ、ザカリアは話すことができなくなるのであります。祭司としてのお務めが終わり家に帰りますが、妻エリサベトは身ごもることになるのであります。「主は今こそ、こうして、私に目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」とエリサベトは神様を賛美したのであります。

 ヨハネが生まれた時、親類や近所の人々が、生まれた子供に父の名を取って「ザカリア」と名づけようとしました。ところがエリサベトは「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」というのです。今まで、先祖にはこのような名前は付けられていませんので親類の人々は不思議に思います。今度は、話ができないザカリアに聞きます。するとザカリアは板に「その名はヨハネ」と書くのでした。もはや、ザカリアは神様の御心、時が来れば実現する神様の言葉を信じていたのであります。その時、ザカリアは話すことができるようなったのであります。与えられた神様のみ言葉を信じること、時が来れば必ず実現すると信じることです。そのように信じたザカリアは、我が子を通して神様が人々に平和をくださることを確信したのであります。この後、ザカリアの預言が記されています。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」と救い主の到来を予言するのです。そして、我が子ヨハネについては、「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、光が我らに訪れ、暗闇と死の影に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和に導く」と預言します。

 今、私達は「うれしいお知らせ」を示されています。イエス様の救いが与えられるのです。「救い」とは、私たちが豊かになり、何不自由なく過ごすことではありません。そのような文明に保障される生活が「救い」ということではなく、この私が主イエス・キリストの十字架の贖いをいただき、現実を神の国として生きることが「救い」の人生を歩むことなのです。現実を神の国として生きるとき、他の存在を受け止め、共に生きる者へと導かれ、祝福の歩みが導かれていくことなのです。まさに「うれしいお知らせ」をいただいています。うれしいお知らせを現実の中で受け止めて歩むことを示されているのです。

 ところで、「うれしいお知らせ」をイエス様が十字架によって私たちをお救い下さったことなのですが、何となく言葉だけのことのように受け止められます。本当に「うれしい」こととはどういうことなのでしょうか。私は、イエス様が神の国を現実に示されたこととして教えられています。

人々がイエス様に「神の国はいつ来るのか」と聞いたのでイエス様が答えています。「神の国は、『ここにある』、『あそこにある』と言えるものではない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカによる福音書17章21節)と言われたのであります。つまり、神の国は「私とあなた」の間にあるということなのです。隣人の間に神の国が存在するということです。「隣人を自分のように愛しなさい」と教えられています。そこに神の国が存在するのであり、あなたには「隣人」がいると教えてくれたことが、「うれしいお知らせ」なのです。

<祈祷>

聖なる神様。主のご降誕が近づきました。真にイエス様をお迎えできますようお導きください。イエス様の御名によりささげます。アーメン。