説教「祝福の人生へと導かれる」

2021年12月12日、三崎教会

「降誕前第2主日」       

                      

説教・「祝福の人生へと導かれる」、鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書40章1-5節

   マルコによる福音書1章1-8節

賛美・(説教前) 讃美歌21・231「久しく待ちにし」

   (説教後) 讃美歌21・504「主よ、み手もて」

 降臨節第三週となり、いよいよ主イエス・キリストの光が近づいてまいりました。次週は主のご降誕をお祝いするクリスマス礼拝であります。クリスマスをお祝いするのですが、教会学校にしても幼稚園にしてもページェントを演じてイエス様のお生まれになったことをお祝いしています。ページェントはイエス様のお生まれになった物語を演じる劇です。まず、マリアさんに天使が現れて、マリアさんから救い主のイエス様がお生まれになることを告げます。聖書によれば、マリアさんは躊躇します。しかし、天使の励ましでお告げを受け止めます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と告白したのでした。神様のお心をしっかりと受け止めたマリアさんとして示されるのです。次に羊飼いさんに天使が現れ、救い主がお生まれになったことを告げますが、歌声と共に知らせたのでした。羊飼いさん達は喜びつつ馬小屋に行き、イエス様とお会いすることができたのです。羊飼いさん達はいつも羊たちの声を聞こうとしていたのです。その聞く姿勢が天使のお知らせを聞くことができたのでした。そして、今度は「占星術の学者」さん達に導きの星を示され、イエス様とお会いすることができました。学者さん達はいつも星を見ていました。どんな星でも見つめていたのです。その見つめる姿が救い主の出現の星を見ることができたのでした。クリスマスは、マリアさんのように神様の御心をしっかりといただくことです。羊飼いさんのようにいつも聞こうとする姿です。そして学者さん達のように見つめること、その姿勢が救い主とお会いすることになったと聖書は示しているのです。

ところで、ページェントはそれぞれの役柄を演じるのですが、自分が演じた役は、結構人生の指針にもなっているのです。天使さんになった皆さんは、それなりに天使としての歩みが導かれているのではないでしょうか。羊飼いさんにしても学者さん達にしても、イエス様にお会いする喜びを与えられているのです。私は小学校3年生の時から教会学校に出席しています。ある時のクリスマスで、やはりイエス様の降誕物語の劇をしたのですが、私はヨセフさんが大工さんなので、その大工仲間の一人でした。脇役の脇役のようでした。そういう脇役の人生へと導かれていると示されているのです。クリスマスを迎えますが、どんな役柄でイエス様をお迎えするのか考えてみるのも、意味があるのではないでしょうか。そのことで、「祝福の人生へと導かれる」喜びを与えられたいのです。

  「祝福の人生へと導かれる」こと、それは旧約聖書時代から待望されていました。旧約聖書イザヤ書40章は、聖書の人々がバビロンと言う大国に捕われている状況の中で、人々に希望を与え、救いの約束を与えているのです。「慰めよ、私の民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」と冒頭に記されています。イザヤは苦しみの中にいる人々を慰め、救いの約束を与えています。「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」と宣言しています。荒れ野や荒れ地に広い道を通すこと、それこそ人々の平和であり、喜びなのです。荒れ野を歩く、荒れ地を進む、それは社会の困難な状況を生きるかのようです。困難な状況の中に、喜びつつ歩く道がある、それが人々の希望でありました。

 塩野七生さんが「ローマ人の物語」を書いています。その中で「すべての道はローマに通じる」として、ローマが道路網を完成していくことが記されています。昔のことで、歩きにくい道でしたが、ローマは道路建設に力を入れます。戦いで勝利を収めれば、その勝利した国への道を整備して行くのです。道路が建設されることによって、旅人や商人たちは安心してその道路を歩くのです。今までは荒れ野、荒れ地を歩いていたわけですが、安心して道を歩くようになったのでした。

 ローマの道路網、インフラ整備のお話をすると、聖書のメッセージから外れてしまいますが、まずこの世の道を歩くことを示されるのです。神様の導きは荒れ地、荒れ野を通る道でありますが、人間の歩む道、社会を歩む道として示されなければなりません。世の中がどのように揺れ動いても、神様の道は確信を持って歩くことができると教えているのです。そこで言われていることは、「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と言うことです。人間は草や花にも等しいと言われると空しさが加わりますが、人間の生きる限界を示しているのです。今日まで歴史に現れた人類は皆消えて行きましたが、しかしその人類の中に存在したのは神様のみ言葉であったのです。その神様のみ言葉が、荒れ野を進み、荒れ地の中に生きる人々を導いてきたと示しているのが今朝のイザヤの言葉であります。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」と示しています。祝福の人生へと導いていることを示しているのです。

この旧約聖書の言葉、イザヤの示した言葉をそのまま人々に告げた人がいました。イザヤは紀元前800年の人です。それから800年を経て、ヨハネと言う人が現れました。マルコによる福音書1章に記されています。「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き始めていますが、その後はすぐにヨハネについて記しています。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの準備をさせよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」とヨハネの出現を記します。

 このヨハネルカによる福音書によれば、ザカリアとエリサベトの間に産まれた子でありました。彼らは高齢でありましたが、マリアに現われる天使ガブリエルが、神様の御心としてあなたがたに子どもが与えられると告げます。ザカリアは、高齢である自分たちから子どもが生まれるはずがないと思います。すると、ガブリエルは「この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、このことの起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と言われるのでした。ザカリアは、その通りに話すことができなくなります。エリサベトから男の子が産まれます。産まれた子に名前をつけるとき、エリサベトもザカリアも「その名はヨハネ」とお告げの通りにしたので、ザカリアは話すことができるようになりました。時が来れば実現する神様の言葉を信じたからであります。

 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と呼ばわりつつ現れたヨハネでありますが、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とヨハネを紹介しているのです。ここで旧約聖書が示している、「荒れ野に道を備える」とか「荒れ地に広い道を通せ」と言われていましが、ヨハネもまた「道を備え、道筋をまっすぐにせよ」と言うとき、明らかに「道」とか「道筋」と言っているのは、人が歩く道ではなく、私達の人生の道であると示されていることを知るのです。ヨハネは時の社会の人々に主イエス・キリストの到来を告げ、心から待望しなさいと教えました。この言葉は心の備えを示しているのであります。救い主がお出でになる。だから心からお迎えできる道を作りなさいということであります。心の中に広い道を作り、救い主をお迎えするのであります。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」とヨハネは人々に示しているのです。 

  「広い道を通せ」と示されていますが、イエス様は「狭い門から入りなさい」と示しています。「命に通じる道は細い」と示しているのです(マタイによる福音書7章13-14節)。そう、私たちは様々な思いを持っていますので、その思いの中で、イエス様のお導きの道が示されているのですが、様々な思いによってイエス様の道が狭められているのです。そういう私達ですので、細い道になってしまっている道、イエス様の道を選びなさいと示されているのです。「自分と同じように隣人を愛しなさい」と示されているのです。祝福の人生へと導かれるのです。

 私達はこれは必要、あれも必要、それは決して捨てることはできないという思いが満ち満ちているのです。だから、ヨハネが叫んでいる声を、いっぱい詰まっている私の心の中に、主の道を通すことができないのであります。では「主の道」とは、どのようなことなのでしょうか。それがクリスマスのメッセージなのです。マリアさんのように、神様の御心をいただくことです。羊飼いさんのように人の声を聞くことです、学者さんのように一人の存在を見つめることです。それが「主の道」でありますが、イエス様が教えておられる「隣人を自分のように愛する」ことなのです。その道を歩むことが、「祝福の人生へと導かれる」のです。

<祈祷>                  

聖なる御神。祝福の人生へとお導きくださり感謝いたします。いよいよ主の道を歩ませてください。イエス様のお名前によって、アーメン。

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