説教「救いの使者が喜びを」

2017年12月17日、三崎教会
「降誕前第2主日」 

説教・「救いの使者が喜びを」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書40章1-8節
    マルコによる福音書1章1-8節
賛美・(説教前) 讃美歌21・241「来たりたまえわれらの主よ」
    (説教後)431「喜ばしい声ひびかせ」


 降臨節第三週となり、いよいよ主イエス・キリストの光が近づいてまいりました。次週は主のご降誕をお祝いするクリスマス礼拝であります。このクリスマスを皆さんでお祝いするために教会はいろいろと準備をしています。また幼稚園にしましても、保育園にしましてもクリスマス会と言うことで準備されておられることでしょう。それぞれの集いが喜びと祝福のクリスマスとなることをお祈りしています。
私は今、横浜本牧教会付属の早苗幼稚園の園長を担っています。昨年、9月に前任の園長が退任したので、10月からでしたが暫定的に園長に就任しました。教会の牧師が園長を兼ねるということで、その牧師が今年の4月には決まりませんで、一年間延長しての職務となりました。来年4月からは新しい牧師が決まるようなので、それまでの職務となります。早苗幼稚園も先日クリスマス礼拝をささげました。ページェントを演じてイエス様のお生まれになったことをお祝いしたのでした。ページェントはイエス様のお生まれになさった物語を演じます。まず、マリアさんに天使が現れて、マリアさんから救い主のイエス様がお生まれになることを告げます。聖書によれば、マリアさんは躊躇します。しかし、天使の励ましでお告げを受け止めます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と告白したのでした。次に羊飼いさんに天使が現れ、救い主がお生まれになったことを告げますが、歌声と共に知らせたのでした。天使は喜びつつ馬小屋に行き、イエス様とお会いすることができたのです。そして、今度は博士さんへのお告げです。今の聖書は「占星術の学者」と記されていますが、前の口語訳聖書は「博士」さんでした。救い主が現れたという導きの星を示され、イエス様とお会いすることができました。マタイによる福音書は、この博士さんを記していますが、博士さんが行った場所は馬小屋ではありません。馬小屋で生まれたというのはルカによる福音書の報告でした。しかし、ページェントは博士さんも馬小屋でイエス様にお会いすることになるのです。マタイは馬小屋ではなく、普通の家であったようです。イスラエルの聖地旅行をしたとき、ベツレヘムでイエス様が御生まれになった場所に案内されましたが、普通の家でありました。その中に馬小屋らしきものが造られていましたが、後の時代がそのようにしたのでしょう。
ところで、ページェントはイエス様のお生まれになった物語をマタイとルカによる福音書の合成物語になっていますが、それをそのままページェントにしています。多くの場合、マリアさんとヨセフさん、羊飼いさん達、博士さん達、そして天使さん達で演じられるのですが、早苗幼稚園はヘロデ王まで登場させていました。博士さんたちはイエス様を訪ねて、都のエルサレムに行くのです。「ユダヤ人の王として御生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言って探すのです。それを聞いた王様は、自分がユダヤの王なのに、「新しく生まれたユダヤ人の王様」と言っているのです。そして、ヘロデ王は学者たちに調べさせ、救い主はベツレヘムに生まれることを知り、博士さんたちに教えます。自分も後で拝みに行くというのですが、よからぬ思いを持っているのです。博士さんたちはイエス様に出会い、宝物をささげ、しかしヘロデ王には知らせることなく、別の道を通って帰って行くのです。だいたいページェントには、このヘロデ王は登場しない場合が多いのです。早苗幼稚園では、ページェントの最後に、このヘロデ王も羊飼いさんや博士さんと共に、馬小屋で喜びの讃美歌をうたっているのです。イエス様を殺そうと考えていたヘロデ王も、一緒に喜んでいるページェントは、いろいろと考えさせられたのであります。
エス様は時の指導者たちの妬みによって十字架で殺されてしますます。しかし、そのイエス様の十字架の救いは、今日まで与えられているのであり、イエス様を否定する人々をも救いになっているのです。その意味でページェントにヘロデ王が登場するのは、大変意味深いと示されたのであります。イエス・キリストの救いはすべての人々に与えられているのです。すべての人々がクリスマスを喜んでいますが、すべての人々が救いの喜びに変えられていくことをお祈りしているのです。その救いの喜びを伝える使者を聖書は示しているのであります。その使者により、救いの希望を持ちつつ歩みたいのです。

救いの希望を持つということ、それは旧約聖書時代から待望されていました。旧約聖書イザヤ書40章であります。イザヤ書40章からは、背景は聖書の人々がバビロンと言う大国に捕われている状況の中で、人々に希望を与え、救いの約束を与えているのです。「慰めよ、私の民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」と冒頭に記されています。イザヤは苦しみの中にいる人々を慰め、救いの約束を与えるために立ちあがったのであります。「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」と宣言しています。荒れ野や荒れ地に広い道を通すこと、それこそ人々の平和であり、喜びなのです。荒れ野を歩く、荒れ地を進む、それは社会の困難な状況を生きるかのようです。困難な状況の中に、喜びつつ歩く道がある、それが人々の希望でありました。
 塩野七生さんが「ローマ人の物語」を書いています。その中でも「すべての道はローマに通じる」として、ローマが道路網を完成していくことが記されています。昔のことで、道を整備し、歩きやすくすることはない状況ですが、ローマは道路建設に力を入れます。戦いで勝利を収めれば、その勝利した国への道を整備して行くのです。その道路網はイタリア中に建設されています。道路が建設されることによって、旅人や商人たちは安心してその道路を歩くのです。今までは荒れ野、荒れ地を歩いていたわけですが、ローマの力が及んでいる道を歩くことにより、安心して道を歩くようになったのでした。
 ローマの道路網、インフラ整備のお話をすると、聖書のメッセージから外れてしまいますが、まずこの世の道を歩くことを示されるのです。神様の導きは荒れ地、荒れ野を通る道でありますが、人間の歩む道、社会を歩む道として示されなければなりません。世の中がどのように揺れ動いても、神様の道は確信を持って歩くことができると教えているのです。そこで言われていることは、「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と言うことです。人間は草や花にも等しいと言われると空しさが加わりますが、人間の生きる限界を示しているのです。今日まで歴史に現れた人類は皆消えて行きましたが、しかしその人類の中に存在したのは神様のみ言葉であったのです。その神様のみ言葉が、荒れ野を進み、荒れ地の中に生きる人々を導いてきたと示しているのが今朝のイザヤの言葉であります。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」と示しています。捕われの状況に生きる人々への導きの言葉なのです。

この旧約聖書の言葉、イザヤの示した言葉をそのまま人々に告げた人がいました。イザヤは紀元前800年の人です。それから800年を経て、ヨハネと言う人が現れました。マルコによる福音書1章に記されています。「神の子イエス・キリストの福音の初め」と描き始めていますが、その後はすぐにヨハネについて記しています。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの準備をさせよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」とヨハネの出現を記しています。
 このヨハネルカによる福音書によれば、ザカリアとエリサベトの間に産まれた子でありました。彼らは高齢でありましたが、マリアに現われる天使ガブリエルが、神様の御心としてあなたがたに子どもが与えられると告げます。ザカリアは、高齢である自分たちから子どもが生まれるはずがないと思います。すると、ガブリエルは「この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、このことの起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と言われるのでした。ザカリアは、その通りに話すことができなくなります。エリサベトから男の子が産まれます。産まれた子に名前をつけるとき、エリサベトもザカリアも「その名はヨハネ」とお告げの通りにしたので、ザカリアは話すことができるようになりました。時が来れば実現する神様の言葉を信じたからであります。
 ヨハネは、まさに「時がくれば実現する神様の言葉」を人々に示したのであります。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と呼ばわりつつ現れたヨハネでありますが、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とヨハネを紹介しているのです。ここで旧約聖書が示している、「荒れ野に道を備える」とか「荒れ地に広い道を通せ」と言われていましが、ヨハネもまた「道を備え、道筋をまっすぐにせよ」と言うとき、明らかに「道」とか「道筋」と言っているのは、人が歩く道ではなく、私達の人生の道であると示されていることを知るのです。ヨハネは時の社会の人々に主イエス・キリストの到来を告げ、心から待望しなさいと教えました。この言葉は心の備えを示しているのであります。救い主がお出でになる。だから心からお迎えできる道を作りなさいということであります。心の中に広い道を作り、救い主をお迎えするのであります。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」とヨハネは人々に示しているのであります。
 私たちの心の中には様々な思いがあります。自分の生きる支えと思っていること、家族のこと、人間関係のこと等であります。様々な思いは、時には私を喜ばせ、希望にもなります。そして、それらは下火になって別の思いが私を支えるようになるのです。そのような様々な思いがある時、広い道を通せ、主の道をまっすぐにせよと言われるのです。様々な思いを持つ私が広い道を通すことができるのでしょうか。主イエス・キリストは「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」(マタイ5章3節)と教えておられます。心の中にたくさんの思いがあると、神様に向かうことができなくなるのです。心の中に何もなくなることによって、真に神様のお心を求めるようになるのです。それが「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ことなのであると示しているのです。

「わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」とはじめに記されていますが、今、人々の前に現れようとしている主イエス・キリストに示された言葉ですが、人々がイエス様をどのように迎えるか、との主題設定でもあるのです。「主の道を整えなさい」、「道筋をまっすぐにしなさい」とヨハネは時の社会の人々に向けて叫んでいるのでありますが、人々は自分の心に聞かなければなりませんでした。わたしたちの心の荒れ野に聞かなければならないのです。様々な思いがある心に、どのようにして主の道を通したらよいのでしょうか。
旧約聖書にソロモンが王様になったとき、神様は、なんでも望むものを与えると言われました。すると、ソロモンは名誉でもなく、富でもなく、また権力ではなく、ただ神様のお心をくださいとお願いしたのです。神様はその姿勢を祝福し、神様の知恵を与えたのでした。その知恵によって、人々に喜ばれる王様にもなったのです。外国にも知られるようになり、外国からもソロモンの知恵を求めてやってきたと記されています。
 以前にもお話ししたことですが、今朝も示されたいと思います。
 昔、陸前古川教会時代のことです。中学・高校生の頃から教会を通して育ち、洗礼を受けた女子青年がいました。彼女は准看護婦になり、病院で看護婦さんになりました。今は看護師と称していますが、昔の言い方です。彼女が始めて給料というものをもらい、その喜びと共に献金を送ってこられたのです。このような手紙の内容です。初めてのお給料をもらい、生活費を除いた他は、何よりも両親に感謝の気持ちをこめていくらかを上げたいと思い、封筒に入れます。そして弟が二人いるので、お小遣いとして、それぞれに封筒に入れます。それから自分の洋服代、芝居に趣味があるので観劇代、お茶代というように分けるのですが、そこではっと思います。献金をしなければと思うのです。それで、もう一度やり直します。生活費、そして両親にはこれだけ、弟たちにはこれだけ、観劇代、洋服代、お茶代と分けていきますが、最後の献金になると、いくらも残らなくなります。何回かそれぞれ切り詰めながらやり直すのですが、最後の献金不本意の額しか残らないのです。そこで、意を決して、他の使い道は一切忘れ、まず献金を考えたのです。まず献金を、ささげるべき献金をしっかりと献金袋に入れました。その上で、生活費、両親、弟たち、観劇代、洋服代、お茶代に分けました。お茶代はもっとほしいなあと思います。気持ちが変らないうちに送ります、としたためつつ現金書留を送ってきたのでした。
 まず主の道をまっすぐにしたと思います。荒れ野に広い道を通したと思います。私達はこれは必要、あれも必要、それは決して捨てることはできないという思いが満ち満ちているのです。だから、ヨハネが叫んでいる声を、何となく分かるのですが、いっぱい詰まっている私の心の中に、主の道を通すことができないのではないでしょうか。この時、ヨハネの叫びを真に受止め、主イエス・キリストの救いの道を、私の中に備えたいのです。主の道を、私の中で曲げるのではなく、まっすぐに、そして少しでも広く通したいのであります。心のインフラ整備をしなければならないのです。次週はいよいよクリスマスです。まっすぐな私の中にある主の道を、広い道をイエス・キリストがお通りになるのです。
<祈祷>
聖なる御神。私の中にある荒れ野に主の道をまっすぐに通してください。救い主をお通しできる道を備えさせてください。イエス様のお名前によってお願いいたします。アーメン。