説教「救いの知らせを聞く」

2019年12月15日、六浦谷間の集会
待降節第3主日」 アドベント

 

説教、「救いの知らせを聞く」 鈴木伸治牧師
聖書、マラキ書3章19~24節

   コリントの信徒への手紙<一>4章1~5節
   ヨハネによる福音書1章19~28節
賛美、(説教前)讃美歌21・231「 久しく待ちにし」

   (説教後)481「 救いの主イエスの」

 


降臨節第三週となり、三本のロウソクが点火されました。主イエス・キリストのご降誕の光が近づいてまいりました。ロウソクでクリスマスの喜びを表すのは現実が暗いからであります。私の暗さの中に主イエス・キリストの光が差し込んできたのです。今週はロウソクは三本ですが、次週は四本になります。待降節を歩むうちにも、私にとって主イエス・キリストの待降とは何か、その意味を問いながら歩みたいのです。
今朝のマラキ書には「義の太陽が昇る」と示されています。「義の太陽」とは神様でありますが、神様が太陽のように恵みと導きを与えることを示しているのであります。太陽は地球に生きる人間を始め、生態系を育んでくれています。その意味でも人間は太陽には深い思い入れがあるのです。ご来光と言い、朝日が昇る瞬間の感動は、美しいとか素晴らしいという思いの中に、生態系を育んでくれる存在の喜びでもあるわけです。世界の人間は太陽の恵みをしっかりと受け止めつつ営んでいるということです。以前、聖地旅行でシナイ山に登りご来光を見ましたし、また富士山にも登り、ご来光を見たことが忘れられません。何かすがすがしい思いを与えられるのでした。
そのような太陽の存在に対して、人間であるが中心的存在になると太陽として崇められることになります。歴史において王様であるとか支配者たちは、しばしば太陽になぞらえています。日本においては天皇が太陽として崇められていました。そのような日本人の姿を示した映画があったことを、ネットで知るようになりました。「太陽」という映画の紹介がありました。この映画は2005年、ロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督が製作したものです。昭和天皇ヒロヒトを扱った映画であり、日本では公開不可能ではないかといわれていましたが、2006年8月5日に銀座の映画館で公開されたということです。私はこのような映画が上映されていたことは全く知りませんでした。
日本では天皇を神であるとして、また太陽として崇めていたのであります。しかし、「太陽」という映画は、天皇は一人の人間であり、人間として孤独に生きながら、また苦悩の日々を歩みながら戦争の敗戦を宣言するという内容のようです。歴史を通じて天皇自身が、自分は神だと宣言することより、取り巻きの人々が神にしてしまうことの方が確かであり、国民も日本の中心的存在が神であるほうがありがたいということになるのです。古今東西、中心的存在を神にするのは変わらないのです。ローマ帝国の歴史をみると、皇帝は生きている限り人間であり、死ぬことによって、その立派な業績により神にするということです。何しろローマには30万からなる神々が存在したと言われます。そういう中で、自分が死んでも神としないようにと言い残す皇帝もいるのでした。人間は人間であり、神様とは絶対相容れない関係にあることを忘れてはならないのであります。その意味では旧約聖書において、神様は聖なる存在であり、俗なる人間は同和できない存在であることを示しているのであります。神様が太陽なのであり、人間の太陽はあり得ないということです。今朝はこのさまざまな問題がある社会に、「義の太陽が昇る」事を示され、「救いの知らせを聞く」者へと導かれたいのであります。

 旧約聖書はマラキ書の示しです。3章20節、「わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように、躍り出て飛び回る」と示されています。神様の御心をいただくものは、癒しが与えられ、喜びに溢れると示しているのであります。牛舎の子牛たちは飼い葉桶から豊かに与えられ、躍り出て飛び回ると示しています。
 マラキ書は旧約聖書の最後に置かれている聖書です。このマラキ書の背景は神様の存在に対して、懐疑的にとらえる人々が多くなってきた状況です。聖書の人々はバビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンに連れて行かれました。そこで苦しみの生活をすること、約50年と言われます。捕われに生きることを捕囚と称していますが、その捕囚から解放されるのはペルシャの国が強くなり、バビロンはペルシャの前に衰退していくのです。捕囚から解放された人々は都エルサレムに帰り、破壊された神殿を修築いたします。そして、第二神殿が完成するのですが、国民の生活は困難が多く、いったい神様の導き、恵みは何処にあるかと思うようになるのです。そういう社会状況の中で、マラキと言う預言者は、神様の救いを信じて待つように教え導いているのです。そして、神様は昔現れた預言者エリアを再び人々に遣わすと知らせているのであります。
 「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリアをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように」と神様の御心を伝えています。エリアが現れて、子ども達が父の教えに向かうことを導くというのであります。父の教えはモーセを通して与えられた「掟と定め」です。22節に「わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた」と示されています。父たちは「掟と定め」を守りながら神様に導かれてきたのです。「掟と定め」は十戒であり、それに伴う神様のお心にある定めなのでした。人間の基本的な生き方を示しているのが十戒なのであります。この社会の貧困と苦しさの中に生きているあなたがたは、だから神様の導き、恵み等はないと言ってはいけないと教え、神様はあなたがたのために力強い導き手である預言者エリアを再び遣わします、と教えているのです。
 預言者マラキは社会が困難な生活であればこそ、神様の示しを見失うことなく、今こそ神様に立ち返って御心に生きることを示したのでした。私たちが現代に生きるとき、どうしても不安を持たざるを得ない状況であります。特に今は大雨等の災害が多く、復興に取り組んでいます。いろいろな社会情勢、人間の恐ろしい行動、社会的行く末、この先どうなっていくのか不安が重なるとき、神様の導きは何処にあるかと懐疑的に思うことは、実にマラキの時代と重なるのであります。マラキはエリアを遣わすと示していますが、そのエリア的存在が新約聖書においてヨハネなのであります。

「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』」と自らを紹介したのがヨハネという人でした。ヨハネイエス・キリストより先に現われ、人々に神様のお心を示しながら、後から来られる真の救い主を証したのでありました。
 ヨハネが人々に現われたとき、人々はヨハネが何者なのか戸惑いました。「あなたはどなたですか」と人々は尋ねます。すると、ヨハネははっきりと自分を示しています。「わたしはメシアではない」と言います。人々は「では何ですか。あなたはエリアですか」と尋ねると、ヨハネは「違う」とはっきり否定します。「それではいったい、だれなのです。あなたは自分を何だというのですか」と人々が尋ねると、ヨハネは「わたしは声だ」と言ったのであります。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」とヨハネイザヤ書40章3節の言葉を自分に当てはめて紹介したのでした。荒れ野で叫ぶ、すなわち荒れ野とは現実の社会であります。現実の社会に失望しており、希望もない、そういう状況はまさに荒れ野でした。この社会、荒れ野の社会に救い主が現われることを、声を大にして告げたのがヨハネでありました。
 このヨハネルカによる福音書によれば、ザカリアとエリサベトの間に産まれた子でありました。彼らは高齢でありましたが、マリアに現われる天使ガブリエルが、神様の御心としてあなたがたに子どもが与えられると告げます。ザカリアは、高齢である自分たちから子どもが生まれるはずがないと思います。すると、ガブリエルは「この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、このことの起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と言われるのでした。ザカリアは、その通りに話すことができなくなります。エリサベトから男の子が産まれます。産まれた子に名前をつけるとき、エリサベトもザカリアも「その名はヨハネ」とお告げの通りにしたので、ザカリアは話すことができるようになりました。時が来れば実現する神様の言葉を信じたからであります。
 ヨハネは、まさに「時がくれば実現する神様の言葉」を人々に証しする声であったのです。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」。ヨハネは時の社会の人々に主イエス・キリストの到来を告げ、心から待望しなさいと教えました。この言葉はイザヤ書40章3節の引用です。イザヤ書はこのように記しています。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒地に広い道を通せ」と記しています。荒れ地に道を備えたり、広い道にすることはできません。この言葉は心の備えを示しているのであります。救い主がお出でになる。だから心からお迎えできる道を作りなさいということであります。心の中に広い道を作り、救い主をお迎えするのであります。「主の道をまっすぐにせよ」と言っていることも同じであります。
 私たちの心の中には様々な思いがあります。自分の生きる支えと思っていること、家族のこと、人間関係のこと等であります。様々な思いは、時には私を喜ばせ、希望にもなります。そして、それらは下火になって別の思いが私を支えるようになるのです。そのような様々な思いがある時、広い道を通せ、主の道をまっすぐにせよと言われるのです。様々な思いを持つ私が広い道を通すことができるのでしょうか。主イエス・キリストは「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」(マタイ5章3節)と教えておられます。心の中にたくさんの思いがあると、神様に向かうことができなくなるのです。心の中に何もなくなることによって、真に神様のお心を求めるようになるのです。それは、「荒れ野に道を備え、広い道を通す」ことと同じ示しなのであります。
 「あなたはだれだ」とヨハネに問い続けた人々は、「あなたはメシアでも、エリアでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と、むしろ厳しくヨハネを裁いています。それは、彼らの中に固定的な観念があり、豊富な知識がヨハネの声を聞くことができなくしているのでありました。彼らは広い道を通すどころか、狭い道すら通すこともできないほど、心の中にはいろいろな思いが詰まっていたのであります。時の社会の中で、まさに荒れ野の中で、叫び声をあげたヨハネの示しを与えられたいのです。ヨハネは人々に証ししています。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」と真の救い主を指し示しているのです。その救い主が通られる道をあなたがたの中に作りなさい、主の道をまっすぐにせよと声を上げているのです。
 「義の太陽が昇る」とは、マラキ書では預言者エリアを遣わすことでありましたが、新約聖書では先見者ヨハネを遣わし、そのヨハネが真の「義の太陽が昇る」ことを示すのです。義の太陽が昇れば、あなた方が苦しんでいるもろもろのことが、祝福へと変えられていくということです。心の中にさまざまな思いを詰め込んで苦しんでいないで、その心の中に広い道を通しなさい、と示しているのです。心の中にさまざまな思いがあるので、「主の道をまっすぐに通す」ことができないのです。義の太陽である主イエス・キリストを輝く光をお迎えできないのであります。「救いの知らせを聞く」備えをしたいのです。

 「義の太陽」、「救いの知らせを聞く」とは、主イエス・キリストの十字架の救いであります。待降節第三週となり、イエス様がお生まれになるクリスマスを待望するこの時、十字架の示しはまだ先のことだと思われるでしょうか。イエス・キリストがお生まれになるクリスマスは人々の喜びとなっています。キリスト者でなくても、社会の人々はクリスマスを喜んで待望しています。それは楽しく過ごすことができるからです。楽しく過ごす中にはイエス様は不在であります。それでも良いのです、楽しく過ごすことができるからです。しかし、クリスマスが終われば、確かにプレゼントは楽しく残っていますが、クリスマスの喜びは終わってしまうのです。そして、社会はすぐにお正月の松飾りに代わります。クリスマスのことなど何か昔話のようになっていくというわけです。
 クリスマスは主イエス・キリストがこの世に現れたお祝いです。何のために現れたのか、この世を救うためです。その救いは十字架によるしか救うことができなかったのです。イエス様は世に現れ、神様の御心を示しました。また、神様の御業を示しました。人々の関心は、良いお話をしてくれるイエス様、不思議な業を行うイエス様としてしか受け止めなかったのでした。主イエス・キリストは人々の根本的な罪、人間の奥深くにある自己満足、他者排除を十字架にお架りになり、その死により、私達の罪を滅ぼされたのでした。まさに義の太陽が昇ったのであります。その義の太陽は私達に対して、さんさんと輝いており、導きを与え、恵みと希望を与えているのです。この社会は暗い社会ではない。義の太陽が昇り、照らし続けているからです。「この救いの知らせを聞く」ことこそ、真の喜びが与えられるのです。
<祈祷>
聖なる神様。義の太陽を昇らせ、お導きくださり感謝致します。「救いの知らせを聞く」世界へとお導きください。キリストの御名によりおささげします。アーメン。

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