説教「喜ばしいお知らせ」

2018年12月16日、三崎教会 
「降誕前第2主日待降節アドベント)第3主日

説教・「喜ばしいお知らせ」、鈴木伸治牧師
聖書・ゼファニヤ書3章16-20節
    ルカによる福音書1章5-20節
賛美・(説教前)讃美歌21・236「見張りの人よ」、
    (説教後)讃美歌21・431「喜ばしい声ひびかせ」

 待降節第三週になりました。今年のクリスマス礼拝は次週23日ですが、もうすでにクリスマスの実感が深まってきています。ついこの間までハロウィンの飾りもので賑やかでしたが、今はクリスマスの飾りで賑やかです。私の近所の家は、飾りものが好きのようで、ハロウィンの時には、賑やかに飾りものをしていました。ところが今度はクリスマスの飾りで賑やかになっています。クリスマスの喜びを現しているというより、このように賑やかに飾りつけをするのが好きなのでしょう。クリスマスを盛り上げているのですから、よろしいのではないかと思っています。
クリスマスの時期になると、スペイン・バルセロナに滞在して、クリスマスの経験をしたのですが、思い出しています。バルセロナでは待降節になる頃から公園や歩道にいろいろな店が出るようになります。屋台が並ぶのです。売られている物はクリスマス関係の物ですが、必ずしもクリスマスグッズではない物もあります。バルセロナの街でもクリスマスツリーを飾りますが、印象では商店等ではツリーは飾る店が少ないようです。個人の家庭で飾っているようです。日本では本当に派手なクリスマスの飾りつけになりますが、日本ほど派手な飾りつけではありません。しかし、街の地域ごとに電飾によってクリスマスをあらわしていますが、とてもきれいな電飾です。
 ところでいろいろな屋台が出ていると申し上げましたが、ウンチをしているいろいろなお人形さんがありました。こんなものが売れるのかなと思いましたが、商売をしているのですから、物好きな人は買っていくのでしょう。ウンチといえば、クリスマスには「カガティオ」が屋台で売られています。これは飾りですから小さいのですが、本物は丸太の木です。カタルーニャ地方の行事であるそうです。「カガティオ」とは「ウンチおじさん」という意味です。クリスマスになると小さい子供がいる家ではカガティオが用意されます。丸太に覆いをかぶせます。子ども達は覆いを被っている丸太を棒でたたくのです。その覆いをとってみると、お菓子やおもちゃ等が下に落ちているのです。「おじさんがウンチをした」ということで子ども達は喜ぶのです。「カガティオ、カガティオ」と言いながら丸太を叩く姿を思うのでした。親としても丸太に工夫して、叩くとお菓子が落ちる仕掛けを作るのは大変の様です。子ども達にとって、クリスマスはカガティオの日なので、早くクリスマスにならないかと待ちわびるのです。
 クリスマスにはプレゼントがあるということ、どこの国でも行われています。今まで在任した幼稚園でも、クリスマスになるとどのようなプレゼントにするか悩みの種でした。幼稚園からもプレゼントが用意され、父母の会でもプレゼントが用意され、プレゼントのあげすぎではないかと思っていました。大人でも同じかもしれません。プレゼントがあるからクリスマスを喜ぶのではなく、何よりも神様からのプレゼント、主イエス・キリストがこの世にお生まれになることを喜ばなければならないのです。本日はクリスマスが近づき、神様の良いお知らせ、「喜ばしいお知らせ」を真実に聞きたいのであります。

 「主なる神様はあなたの中にいるのです」と示しているのがゼファニヤという預言者でした。旧約聖書ゼファニヤ書は3章までしかない短い預言書です。この預言の中で、ゼファニヤは都エルサレムにおりますが、社会の悪を指摘し、異教の習慣への批判、どんなに強い国でも神様の支配におかれていることを力強く示しているのです。特に、苦しめられている人々、卑しめられている人々こそ神様の恵みと導きがあることを告知しているのであります。「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び踊れ」と叫んでいます。エルサレムは中心である都であります。シオンはエルサレムの東の丘であり、ダビデの町と称されていました。しかし、シオンはエルサレムの町を言うようになっていきますが、シオンは広範囲のエルサレムの意味になります。エルサレム、シオン、イスラエルは同じ意味、すなわち神様のいますところ、御心が示される場として同等の意味を持つのであります。
 都の中で社会の悪、貧しきもの、弱い者が苦しめられています。それをしっかりと見据えたゼファニヤは神様の御心を人々に示すのであります。だから、「喜び叫べ、歓呼の声をあげよ、喜び踊れ」と叫んでいるのです。喜びの基は、「王なる主はお前の中におられる」ということであります。さらに、たたみ掛けるように、「シオンよ、恐れるな。力なく手を垂れるな。お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる」とも示しているのです。あなたのただ中に神様がおられるということです。
 さらにゼファニヤは社会の中で苦しんでいる人々を見つめています。「わたしは、祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。彼らはお前から遠く離れ、お前の重い恥となっていた」と指摘しています。神様が苦しめられている人々を集めてくださるのでありますが、あなたがた自身がそれらの人々を社会の片隅に追いやっていたと指摘しているのです。「お前の重い恥となっていた」と言われる時、私たちの姿を鋭く指摘されているようです。
クリスマスのお祝いの時については先ほどもお話し致しました。前任の幼稚園時代ですが、ハンディキャップを持つ子供たちと共に歩む幼稚園として、幾人かの子供たちを受け入れていました。以前のことですが、クリスマスのお祝いが近づき、毎日ページェントの練習をしていました。一人の子供は、落ち着きがなく、いつも補助の先生が付き添っていないと、徘徊して回るのです。その都度、子供を席に戻しますが、いつまでも座っていることができないのです。時には、席に戻すことなく、そのままにしていることがありますが、他の子供たちが落ち着かなくなるのです。だから、やはり席に戻すということですが、補助の先生も大変な介助でもあります。いよいよ当日、クリスマスのお祝いの日がやってきました。朝、教職員礼拝をおこない、いくつかの連絡を確認している時、電話がありました。問題の子供のお母さんからでした。今日はお休みしますということでした。応対した先生が、お休みの理由を聞いたりしていましたが、はっきりは言わなかったようです。お休みと聞いて、なんとなく安堵の思いがありました。しかし、その安堵の思いを消し去ろうとしたことも確かです。あれこれ考えながら、休むことで安堵の思いが出る姿勢を、お母さんに与えていたとしたら、これは本当に申し訳ないと思いました。しかし、お祝いには保護者の参観があるので、辞退したのかもしれません。ゼファニヤが「お前の重い恥となっていた」との言葉は、深く示される言葉であります。その人の存在があることで、この群れは困っているという思いを持ってしまうのです。しかし、神様は、その重い存在のために、御言葉を与えて導いてくださっているのです。
 ゼファニヤの預言の言葉は、現実は苦しい状況であり、神様の御心から離れているような人々であります。しかし、今与えている神様の御言葉は、ときが来れば必ず実現するのであります。今は苦しいのですが、悲しいのですが、ゼファニヤによって与えられた神様の御言葉は、ときが来れば必ず実現するのであります。「わたしは足の萎えていた者を救い、追いやられていた者を集め、彼らが恥を受けていたすべての国で、彼らに誉を与え、その名をあげさせる」と示しているのであります。

 「時が来れば実現する神様の言葉」を証明しているのがルカによる福音書であります。本日は主イエス・キリストの先駆者として現れるヨハネの誕生の予告であります。ヨハネはイエス様より先に現れて、時の社会に厳しく悔い改めを迫りました。先祖が祝福されたアブラハムであるので、自分たちは安泰であるという短絡的な考えを糾弾しています。そうではなく、あなた方はあなた方なのであり、神様に悔い改めなければならないと教えたのであります。そして、自分の後には真の救い主が現れるので、今のうちにお迎えする備えをしなさいと教えているのです。そのヨハネが誕生することを予告するのが本日の聖書であります。祭司ザカリアとその妻エリサベトはもうかなりの高齢になっていました。彼らには子供がいませんでした。ザカリアが祭司のお務めの当番になり、職務を担っている時、天使が現れました。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。彼はイスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち返らせる」というのでした。その時、ザカリアは「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と言います。何の証拠があってそのようなことを言われるのか、というザカリアの疑いでもあるのです。
 天使は言います。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、このことが起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と言われ、ザカリアは話すことができなくなるのであります。祭司としてのお務めが終わり家に帰りますが、妻エリサベトは身ごもることになるのであります。「主は今こそ、こうして、私に目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」とエリサベトは神様を賛美したのであります。
 ヨハネが生まれた時、親類や近所の人々が、生まれた子供に父の名を取って「ザカリア」と名づけようとしました。ところがエリサベトは「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」というのです。今まで、先祖にはこのような名前は付けられていませんので親類の人々は不思議に思います。今度は、話ができないザカリアに聞きます。するとザカリアは板に「その名はヨハネ」と書くのでした。もはや、ザカリアは神様の御心、時が来れば実現する神様の言葉を信じていたのであります。その時、ザカリアは話すことができるようなったのであります。与えられた神様のみ言葉を信じること、時が来れば必ず実現すると信じることです。そのように信じたザカリアは、我が子を通して神様が人々に平和をくださることを確信したのであります。この後、ザカリアの預言が記されています。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」と救い主の到来を予言するのです。そして、我が子ヨハネについては、「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らに訪れ、暗闇と死の影に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和に導く」と預言します。

私は西洋の歴史についての興味を持っていますが、もう一度世界史をおさらいする意味で「世界史のおさらい」を読みました。これは中学生向きの世界史の教科書を大人向きに「おさらい」として発行されたものです。世界の歴史をさらりと読むことができました。読み終えたとき、最後の頁に著者が巻末コラムとして「歴史を動かすバーバリアニズム」として記していたことが心に残りました。バーバリアニズムは直訳すれば「野蛮主義」、「野蛮人的行動原理」と言うような言葉になるそうです。このバーバリアニズムがあるから世界の歴史が塗り替えられてきたということです。例えば、大帝国となったローマは、ギリシャから見れば「辺境の蛮族」でした。そのローマがいかにしてギリシャを征服するに至ったのか。それは初期のローマが貧しい環境にたえる力をもっていたからでありました。貧乏や危険にさらされても平気であったわけです。「覇権をかけた戦いというのは、好むと好まざるとにかかわらず、両勢力の総力戦となります。そこで競われるのは、物資や技術力に支えられた攻撃力だけではなく、社会全体の窮乏に堪え忍ぶ力もまた、重要な要素になっています」と述べ、著者は一つのたとえを用います。物資が豊富にある時から、下級の兵卒まで靴を履かせてもらえる文明的な軍隊の方が、そもそも靴を履くことを知らないバーバリアンの軍隊より有利になります。ところが、逆に物資が不足した状態だと、靴を履かなくても平気なバーバリアンの方が、靴を履きたいのに履けない文明国に対して優位に立つことになるのです。結局、文明の利器に頼り、甘んじているあまり、文明に頼れなくなると戦いは負けてしまうということになる。文明がなくても即戦力があるバーバリアンの力が上になり、覇権の交代になるのです。ところがバーバリアンが覇権をもつことによって、同じように文明の利器に頼ることになり、新しく起こって来たバーバリアンに滅ぼされてしまうのであります。覇権を握るということは文明に頼るようになり、富や快楽に頼るようになって行くのであるのです。初期のローマはバーバリアンであったが、1000年の帝国支配が続いたとしても、覇権国家は文明なしでは生きられなくなるのであり、大帝国ローマもついに崩壊して行くのでありました。世界史はバーバリアン精神をよりよく教えてくれるものである、ということをこの本から示されたのでした。
 今、私達は「喜ばしいお知らせ」を示されています。イエス様の救いが与えられるのです。「救い」とは、私たちが豊かになり、何不自由なく過ごすことではありません。そのような文明に保障される生活が「救い」ということではなく、この私が主イエス・キリストの十字架の贖いをいただき、現実を神の国として生きることが「救い」の人生を歩むことなのです。現実を神の国として生きるとき、他の存在を受け止め、共に生きる者へと導かれ、祝福の歩みが導かれていくことなのです。まさに「喜ばしいお知らせ」をいただいています。喜ばしいお知らせを現実の中で受け止めて歩むことを示されているのです。
<祈祷>
聖なる神様。主のご降誕が近づいてまいりました。日々の生活の現実の中で、真にイエス様をお迎えできますようお導きください。イエス様の御名によりささげます。アーメン。