説教「救いの約束」

2013年12月15日、三崎教会
「降誕前第2主日

説教・「救いの約束」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書40章1-11節
    マルコによる福音書1章1-8節
賛美・(説教前)讃美歌21・229「いま来たりませ」
    (説教後)532「やすかれ、わがこころよ」


降臨節第三週となり、いよいよ主イエス・キリストの光が近づいてまいりました。次週は主のご降誕をお祝いするクリスマス礼拝であります。このクリスマスを皆さんでお祝いするために教会はいろいろと準備をしています。また幼稚園にしましても、保育園にしましてもクリスマス会と言うことで準備されておられることでしょう。それぞれの集いが喜びと祝福のクリスマスとなることをお祈りしています。
私共の娘の羊子が11月10日に御教会でピアノのコンサートを開かせていただいたことは誠に感謝であります。本人もこちらの教会でコンサートを開かせていただいたことを喜び感謝しております。ところで、その娘の羊子はクリスマス礼拝の朝に生まれたのでありました。私は神学校を卒業して最初の教会は東京にあります青山教会でありました。12月になり、初めてのクリスマス礼拝でありました。その前日、クリスマス礼拝に続き祝会が開かれますので、その祝会の交換プレゼントの準備をしていました。プレゼントを持って来られない方がありますので、持参しない人のためにプレゼントを用意していました。そしたら連れ合いがお腹の痛みを訴え始め、すぐに高輪にあります病院に連れて行ったのであります。そして、翌日はクリスマス礼拝です。連れ合いが病院でどうなっているのか、確認もできずに青山教会に行きました。伝道師でありましたので、いろいろな雑用をしなければならず、その頃は芝白金に住んでいましたが、朝7時には家を出て教会に向かったのでした。そして礼拝の準備等をしていると、朝の8時頃かと思いますが、病院から電話があり、生まれたと看護婦さんが知らせてくれたのであります。しかし、だからと言って病院に行くわけにも行かず、教会学校のクリスマス、大人のクリスマス礼拝、そして祝会に臨んだのであります。祝会が終わり、その後は片付けがあり、病院に行くことができたのは夕方5時頃であったかと思います。そこで我が子と対面したのでした。クリスマス礼拝の朝に生まれたことでもあり、イエス様に素直に従って行く人になってほしいというわけで「羊子」と命名したのでありました。今はスペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしていますが、演奏活動と共に人間性が喜ばれており、皆さんによくしていただいております。その人間性が、こちらのコンサートでピアノの演奏中でありますが、雨漏りを見つけてしまい、そのことを役員さんにお知らせしたのでした。
ところでクリスマスとは何であるかと言うことです。イエス様がお生れになられたということでお祝いするのですが、そのイエス様が私たちをお救いくださるということが中心であります。イエス様が私達の救いである、そのような約束を今日の聖書は示しているのであります。大塚平安教会在任中は同時にドレーパー記念幼稚園の園長でした。クリスマスになりますと園児たちがページェントを演じ、イエス様のクリスマスをお祝いするのです。毎年、同じページェントを演じているのですが、今まであまり気にもしなかったことが、ある年のページェントでは何故か気になったのでありました。園長はページェントのナレーションを言うので、前の端の方に座ります。マリアさんとヨセフさんが馬小屋にいますが、園長は二人の斜め後ろから二人を見ることになります。斜め後であるので、二人の前については、今まで気にもしていませんでした。その年はマリアさんが赤ちゃんイエス様を抱っこしているのが気になりました。それで、赤ちゃんイエス様はマリアさんが抱っこしているのではなく、飼い葉桶に寝かせるのではないか、と言いました。調べた結果、以前から、抱っこしているということでした。今まで、気にもしないでいたのですが、何故かそのことが気になりました。今までのこともあるので、最初は飼い葉桶に寝かせ、その後に抱っこということにしました。聖書には、「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」と記されているのです。イエス様は飼い葉桶に寝かされているのであります。飼い葉桶は動物の茶碗でありますが、人間への食べ物として、イエス様は飼い葉桶にいなければならないのです。主イエス・キリストは神様の御言葉の実現としてこの世に現れたのであります。人々を救いに導き、喜びを与えてくださいました。それは私たちがイエス様をこの身にいただくということなのです。実際、イエス様は御自分の御体を食べなさいとして示されたのです。そのイエス様のお言葉が、今日も聖餐式としていただいているのであります。いつもイエス様をこの身にいただき、救いの喜びを増し加えて行くのです。

救いの希望を持つということ、それは旧約聖書時代から待望されていました。旧約聖書イザヤ書40章であります。イザヤ書40章からは、39章までのイザヤではなく、イザヤでも別の人が書いています。背景は聖書の人々がバビロンと言う大国に捕われている状況の中で、人々に希望を与え、救いの約束を与えているのです。「慰めよ、私の民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」と冒頭に記されています。イザヤは苦しみの中にいる人々を慰め、救いの約束を与えるために立ちあがったのであります。「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」と宣言しています。荒れ野や荒れ地に広い道を通すこと、それこそ人々の平和であり、喜びなのです。荒れ野を歩く、荒れ地を進む、それは社会の困難な状況を生きるかのようです。困難な状況の中に、喜びつつ歩く道がある、それが人々の希望でありました。
 塩野七生さんが「ローマ人の物語」を書いています。その中でも「すべての道はローマに通じる」として、ローマが道路網を完成していくことが記されています。昔のことで、道を整備し、歩きやすくすることはない状況ですが、ローマは道路建設に力を入れます。戦いで勝利を収めれば、その勝利した国への道を整備して行くのです。その道路網はイタリア中に建設されています。道路が建設されることによって、旅人や商人たちは安心してその道路を歩くのです。今までは荒れ野、荒れ地を歩いていたわけですが、ローマの力が及んでいる道を歩くことにより、安心して道を歩くようになったのでした。
 ローマの道路網、インフラ整備のお話をすると、聖書のメッセージから外れてしまいますが、まずこの世の道を歩くことを示されるのです。神様の導きは荒れ地、荒れ野を通る道でありますが、人間の歩む道、社会を歩む道として示されなければなりません。世の中がどのように揺れ動いても、神様の道は確信を持って歩くことができると教えているのです。そこで言われていることは、「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と言うことです。人間は草や花にも等しいと言われると空しさが加わりますが、人間の生きる限界を示しているのです。今日まで歴史に現れた人類は皆消えて行きましたが、しかしその人類の中に存在したのは神様のみ言葉であったのです。その神様のみ言葉が、荒れ野を進み、荒れ地の中に生きる人々を導いてきたと示しているのが今朝のイザヤの言葉であります。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」と示しています。捕われの状況に生きる人々への導きの言葉なのです。

この旧約聖書の言葉、イザヤの示した言葉をそのまま人々に告げた人がいました。イザヤは紀元前800年の人です。それから800年を経て、ヨハネと言う人が現れました。マルコによる福音書1章に記されています。「神の子イエス・キリストの福音の初め」と描き始めていますが、その後はすぐにヨハネについて記しています。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの準備をさせよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」とヨハネの出現を記しています。
 このヨハネルカによる福音書によれば、ザカリアとエリサベトの間に産まれた子でありました。彼らは高齢でありましたが、マリアに現われる天使ガブリエルが、神様の御心としてあなたがたに子どもが与えられると告げます。ザカリアは、高齢である自分たちから子どもが生まれるはずがないと思います。すると、ガブリエルは「この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、このことの起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と言われるのでした。ザカリアは、その通りに話すことができなくなります。エリサベトから男の子が産まれます。産まれた子に名前をつけるとき、エリサベトもザカリアも「その名はヨハネ」とお告げの通りにしたので、ザカリアは話すことができるようになりました。時が来れば実現する神様の言葉を信じたからであります。
 ヨハネは、まさに「時がくれば実現する神様の言葉」を人々に示したのであります。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と呼ばわりつつ現れたヨハネでありますが、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とヨハネを紹介しているのです。ここで旧約聖書が示している、「荒れ野に道を備える」とか「荒れ地に広い道を通せ」と言われていましが、ヨハネもまた「道を備え、道筋をまっすぐにせよ」と言うとき、明らかに「道」とか「道筋」と言っているのは、人が歩く道ではなく、私達の人生の道であると示されていることを知るのです。ヨハネは時の社会の人々に主イエス・キリストの到来を告げ、心から待望しなさいと教えました。この言葉は心の備えを示しているのであります。救い主がお出でになる。だから心からお迎えできる道を作りなさいということであります。心の中に広い道を作り、救い主をお迎えするのであります。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」とヨハネは人々に示しているのであります。
 私たちの心の中には様々な思いがあります。自分の生きる支えと思っていること、家族のこと、人間関係のこと等であります。様々な思いは、時には私を喜ばせ、希望にもなります。そして、それらは下火になって別の思いが私を支えるようになるのです。そのような様々な思いがある時、広い道を通せ、主の道をまっすぐにせよと言われるのです。様々な思いを持つ私が広い道を通すことができるのでしょうか。主イエス・キリストは「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」(マタイ5章3節)と教えておられます。心の中にたくさんの思いがあると、神様に向かうことができなくなるのです。心の中に何もなくなることによって、真に神様のお心を求めるようになるのです。それが「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ことなのであると示しているのです。

「わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」とはじめに記されていますが、今、人々の前に現れようとしている主イエス・キリストに示された言葉ですが、人々がイエス様をどのように迎えるか、との主題設定でもあるのです。「主の道を整えなさい」、「道筋をまっすぐにしなさい」とヨハネは時の社会の人々に向けて叫んでいるのでありますが、人々は自分の心に聞かなければなりませんでした。わたしたちの心の荒れ野に聞かなければならないのです。様々な思いがある心に、どのようにして主の道を通したらよいのでしょうか。
 昔、陸前古川教会時代のことです。中学・高校生の頃から教会を通して育ち、洗礼を受けた女子青年がいました。彼女は准看護婦になり、病院で看護婦さんになりました。今は看護師と称していますが、昔の言い方です。彼女が始めて給料というものをもらい、その喜びと共に献金を送ってこられたのです。このような手紙の内容です。初めてのお給料をもらい、生活費を除いた他は、何よりも両親に感謝の気持ちをこめていくらかを上げたいと思い、封筒に入れます。そして弟が二人いるので、お小遣いとして、それぞれに封筒に入れます。それから自分の洋服代、芝居に趣味があるので観劇代、お茶代というように分けるのですが、そこではっと思います。献金をしなければと思うのです。それで、もう一度やり直します。生活費、そして両親にはこれだけ、弟たちにはこれだけ、観劇代、洋服代、お茶代と分けていきますが、最後の献金になると、いくらも残らなくなります。何回かそれぞれ切り詰めながらやり直すのですが、最後の献金不本意の額しか残らないのです。そこで、意を決して、他の使い道は一切忘れ、まず献金を考えたのです。まず献金を、ささげるべき献金をしっかりと献金袋に入れました。その上で、生活費、両親、弟たち、観劇代、洋服代、お茶代に分けました。お茶代はもっとほしいなあと思います。気持ちが変らないうちに送ります、としたためつつ現金書留を送ってきたのでした。
 まず主の道をまっすぐにしたと思います。荒れ野に広い道を通したと思います。私達はこれは必要、あれも必要、それは決して捨てることはできないという思いが満ち満ちているのです。だから、ヨハネが叫んでいる声を、何となく分かるのですが、いっぱい詰まっている私の心の中に、主の道を通すことができないのではないでしょうか。この時、ヨハネの叫びを真に受止め、主イエス・キリストの救いの道を、私の中に備えたいのです。主の道を、私の中で曲げるのではなく、まっすぐに、そして少しでも広く通したいのであります。心のインフラ整備をしなければならないのです。次週はいよいよクリスマスです。まっすぐな私の中にある主の道を、広い道をイエス・キリストがお通りになるのです。
<祈祷>
聖なる御神。私の中にある荒れ野に主の道をまっすぐに通してください。救い主をお通しできる道を備えさせてください。主のお名前によってお願いいたします。アーメン。