説教「与えられている神様のお恵み」

2013年12月22日、六浦谷間の集会 
「降誕前第1主日」 クリスマス礼拝

説教・「与えられている神様のお恵み」、鈴木伸治牧師
聖書・ルカによる福音書1章46-56節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・111「神の御子は今宵しも」
    (説教後)讃美歌54年版・109「きよしこのよる


 クリスマスおめでとうございます。今年は、このご挨拶を申し上げるのは今日で二度目です。先週の20日にサンフォーレ戸塚と言う高齢者のホームで礼拝をささげ、その後皆さんでお祝いしました。神の庭・サンフォーレというキリスト教シニアホームが秦野にあります。そこで生活する皆さんのために「支える会」を作りまして、礼拝をささげ、皆さんの話し相手になっています。サンフォーレという会社が各地に高齢者のホームを作っていますが、数年前から戸塚にも開設しました。そして昨年から三階フロアーをキリスト者のホームに提供してくれました。それで昨年は第一回のクリスマス礼拝をささげたのです。今年で二回目のクリスマス礼拝でした。この度は私が礼拝の説教を担当し、皆さんと共にイエス様のお生れになったお祝いをしました。
大塚平安教会に在任中の頃、もう三年も昔になりましたが、このクリスマスの時期は何回もクリスマスのお祝いをしたものです。婦人会と家庭集会の合同クリスマス、幼稚園の母親と教職員のクリスマス、綾瀬ホームやさがみ野ホームの施設のクリスマス、神の庭サンフォーレの老人ホームのクリスマス、子どもの教会のクリスマス、そしてようやく教会のクリスマス礼拝、聖夜礼拝で「クリスマス、おめでとうございます」との挨拶を申し上げるのですが、それまで何回もお祝いのご挨拶を述べているので、新鮮な思いが消えているようでもありました。そのような思い出を持ちますが、今年も皆さんと共に、クリスマスのご挨拶をする時、二度目のご挨拶でもありますから、新鮮な思いでご挨拶をしております。クリスマスという神様のお恵みを感謝しつつお祝いしましょう。
ドレーパー記念幼稚園在任頃、クリスマスは全園児でページェントをしてお祝いしていたことが思い出されます。ヨセフさんとマリアさん、羊飼いさん達、博士さん達、天使の皆さん、導きの星さん、小羊の皆さん、宿屋さん達、ラクダさん達、そして聖歌隊の皆さんが自分の役目を演じながら、全員がイエス様が生まれた馬小屋に集まるのです。そして最後に「きよしこのよる」の讃美歌を歌って終わるのでした。皆さんは演じた役割を忘れられないでしょう。このページェントは誰が主役ということはなく、全員が主役でもあります。その中でもマリアさんの役は、やはり中心的な存在でいつまでも心に残るのではないでしょうか。今日はそのマリアさんの思いを示されるのであります。
余談でありますが、私は小学校3年生から教会学校に通いました。そして6年生になったとき、6年生はイエス様のお生れになった物語を劇にしたのです。その頃、11月末頃になって、小学校の友達が、自分も教会学校に行くと言い、一緒に出席するようになりました。彼は頭も良く、ハンサムでクラスの中心的な存在でした。彼が教会学校に行くと言いだしたとき、なんとなく悪い予感を持ちました。彼が出席するようになり、12月になって劇をするからと配役が発表されました。そしたら、最近出席したばかりの小学校の友達がヨセフさん役に選ばれたのです。私はと言えば、ヨセフさんは大工さんなので、その大工仲間と言うことでした。劇では大工の仲間として、ノコギリなんか持ってヨセフさんの周りをうろうろとしているのでした。本当に面白くなかったのです。3年生の時から、ほとんど出席していたのに、劇では脇役でした。ヨセフさんが主役ではありませんが、やはりクリスマス物語の中心的な存在でありました。教会学校の先生を恨んだと思います。教会学校に来て間もない彼を先生がヨセフさんに選んだこと、彼はハンサムだし、頭も良いし、そんな思いを持つのでした。もう教会学校に行きたくないと思いました。しかし、日曜日になると私の母が教会学校へと送り出すのです。休むわけにはいかないのです。そんな苦しい思いでクリスマスが終わり、新年を迎えました。そしたら彼が来なくなったのです。彼が来なくなったということで、ホッとした思いでした。
クリスマスになると子供の時代のことを思い出しますが、ヨセフさんの大工仲間で良かったのです。いつも脇役として生きることを示されているからです。そして脇役こそ神様の豊かな祝福が与えられているのです。もしその時、ヨセフさんに選ばれていたら、その後どのような自分になっていたかを示されるのです。
カトリック教会ではマリアさんは主役です。イエス様の母上様として信仰をしているのです。しかし、プロテスタントとの教会はマリアさんは主役ではありません。むしろ脇役なのです。主役は主イエス・キリストです。そのイエス様が世に現れるためにマリアさんが選ばれ、その大事なお務め、マリアさんから神様の御子イエス様がお生れになったのです。主役はイエス様であり、脇役としてのマリアさんなのです。今年のクリスマスは脇役としてのマリアさんの信仰から、神様の御心を示されているのであります。

 いよいよクリスマスですが、旧約聖書で待ち望んでいた救い主が現れることになりました。それを記しているのはルカによる福音書であります。マタイによる福音書はヨセフさんを中心に救い主の出現を記していますが、ルカによる福音書マリアさんを中心にしてイエス様の出現を記しているのです。今日の聖書の前、1章26節からイエス様がお生れになることが記されています。天使ガブリエルが神様から遣わされて、マリアさんに現れました。そして言われたことは、「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」と告げるのでありました。するとマリアさんは、驚きながらも自分の立場を申し上げるのです。ヨセフさんとはまだ結婚していないからです。つまり、マリアさんダビデの家系のヨセフといいなずけ、婚約の関係であり、まだ結婚してもいないのに、どうして子供が生まれるのですかと言っているのです。天使は、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」というのです。
 婚約中で子供が生まれることは、昔は不自然なことでありました。マタイによる福音書はヨセフさんを中心に記しているのですが、マリアさんから子供が生まれることを知ったヨセフさんは、マリアさんのことが表ざたになるのを望まず、マリアさんとの関係、婚約を破棄しようと決心したと記されています。しかし天使が励まし、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と諭したのでありました。「聖霊により宿った」との励ましはヨセフさんにもマリアさんにも与えられています。二人はそれぞれ聖霊の導きを信じたのであります。このことは私たちも聖霊の導きにより、イエス様がおとめマリアさんから出現したことを信じるのであります。そして、それは科学的には証明できません。聖書の証言通り、聖霊により神様の救い主がマリアさんを通して出現したことを信じるのであります。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」とマリアさんは告白致しました。聖書の中心はイエス様です。イエス様が現れて、人々をお救いになるのです。聖書の主人公はイエス様なのです。それに対してマリアさんは脇役として登場しているのです。新約聖書ではイエス・キリストが主人公なのです。マリアさんは「わたしは主のはしためです」と告白していますが、言いかえれば「わたしは主の脇役です」と告白していることです。

聖書にはヨセフさんの苦悩、マリアさんの恐れがはっきりと記されています。しかし、人間の思いを超えて神様の導きが実現するのであります。神様ご自身がマリアさんを通して地上に現れたということであります。苦しみを救い、貧しさから解放し、悲しみから救われる、その救い主が今こそ現れることを示しているのであります。この後、47節から「マリアの賛歌」が記されています。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」と歌っています。そして「主はその腕で力を振るい、思いあがる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」と詠うのであります。まさに神様は自分のような身分の低い者から救い主を生まれさせ、だから貧しい人々を幸せにしてくださるとの希望、喜びを歌っているのであります。クリスマスとは、私の貧しさの中に救い主が現れることであります。私の貧しさとは、神様のお導きによってのみ私の歩みがあると信じることであります。自分の財産とか、名誉とか、富とか、人間的なものに頼るのではなく、ただ神様の御心によって生きること、それが貧しさということであります。イエス様が山上の説教で「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」と教えられたのは、実にそのことなのであります。私たちは心を貧しくして、神様の御心だけが私達の人生を祝福のうちに導いてくださることを示されるのであります。脇役であるような人々、マリアさん、羊飼いさん達、博士さん達、そして私達です。その脇役のお務めが十分果たせるように導いてくださっているのであります。それが脇役さん達のクリスマス物語なのです。

 クリスマスにはいろいろな物語がありますが、改めてそれらの物語からクリスマスの意義を示されたいと思います。
 アンデルセンの「マッチ売りの少女」を心に示される時期です。その年の最後の日、雪の降る中、マッチを売りに出なければなりませんでした。誰も買ってくれません。マッチが売れないで家に帰ると、お父さんからひどく叱られるのです。ですから帰ることもできないのです。もはや夕闇です。それぞれの家は、明かりの中で楽しい団欒をしているのです。空腹と寒さの中で、暖を求めて売り物のマッチを擦ります。一時の明かりの中に暖炉やご馳走が並べられているのです。何度もマッチをするうちに愛するおばあさんが出てきます。そして、少女はその寒さの中で、そのおばあさんに抱かれて、天国に召されていくのです。この物語は、ここに力点が置かれているのではないでしょうか。すなわち、イエス様の救いの物語の脇役として光り輝いているのです。哀れな一人の少女を神様が包みこんでくださるということで、マッチ売りの少女は神様の御業の脇役なのです。
ミシェル・バタイユの小説「クリスマス・ツリー」は悲しく美しい物語です。核実験の側にいた少年が被爆してしまい、別荘地で療養しているうちにオオカミと友達になります。クリスマス・ツリーを飾り、お父さんとお祝いをする準備を始めるのです。お父さんが留守をしており、ツリーの飾り付けをしていますが、病状が悪化して、ツリーの下で眠るように天に召されていくのでした。誰もいないのではなく、少年の周りをオオカミたちがじっと見守っていたのです。悲しい物語ですが、オオカミとの美しい友情が記されていました。ツリーはイエス様の救いを証しするものです。少年はイエス様の救いにあずかりながら天国に召されたことを、この小説は示していると思いました。だから、この物語も主人公はイエス様なのです。一人の存在を大事にしてくれるイエス様として示されており、脇役として少年が登場しており、イエス様の救いをいただいていることを示しているのです。
今朝はマリアさんが心を貧しくして聖霊の導きに委ねたことを示されました。脇役としての使命を担ったことです。私たちも心を貧しくして聖霊に委ねたいのであります。私達もイエス様の脇役なのです。イエス様は、このルカによる福音書によれば、馬小屋の中で産まれ、飼い葉桶の中に寝かされたのです。貧しさの象徴なのです。私の貧しさとは、自分の存在に苦しむこと、人間関係が良くいかないこと、孤独であり、上手くいかない状況です。その貧しさの中にイエス様が現れて、私の脇役としての人生を導いてくださっているのです。イエス様の脇役として、イエス様の救いを人々に証することが脇役としての務めなのです。私たちはクリスマスの脇役であることを示されたのでした。
<祈祷>
聖なる神様。主のご降誕を感謝致します。イエス様の救いをこの地の人々に伝えていくことができますよう導いてください。主イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン。