説教「主の息をいただく」

2018年4月8日、六浦谷間の集会 
「復活節第2主日

説教・「主の息をいただく」、鈴木伸治牧師  
聖書・民数記13章25-33節
    コリントの信徒への手紙<二>4章7-18節
     ヨハネによる福音書20章19-31節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・149「とこよにわたりていわえ」
    (説教後)讃美歌54年版・497「あめなる日月は」

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 前週は主イエス・キリストのご復活を与えられました。ご復活の主と共に新しい歩みが始まりました。今日、もちろんイエス様のお姿は目に見ることはありません。目には見えませんが、信仰によってご復活のイエス様を信じ、希望をもって歩む私達なのであります。そのご復活のイエス様を聖書が証していますので、私達は聖書に示されるご復活の主を信じるのであります。自分の思いこみではありません。自分の希望に合わせることでもありません。偶像の神様は私達の思いを投影しています。自分の思いをかなえさせることが目的で偶像の神様を作り上げるのであります。この神様にお祈りすれば病気が治るとの誘いがあります。あるいはこの神様にお祈りすると商売繁盛、一家安泰が与えられるというのです。それは自分の思いをかなえさせる偶像の神様でもあります。選挙が始まりますと、大きな達磨さんを部屋の中心に置き、目玉は一つだけ黒く塗っておきます。当選した暁にはもう一つの目玉を入れるというわけです。無理に自分の思いをかなえさせようとしているのです。当選しなければ目を入れない。神様を奴隷のようにしています。
 前週はイースター礼拝であり、六浦谷間の集会もイースターをお祝いしつつ礼拝をささげました。しかし、今回は日曜日の午後4時からの開会となりました。その日、4月から伊勢原幼稚園の園長に就任しましたので、伊勢原教会は礼拝にて幼稚園の教職員を紹介するということでしたので、園長として、やはり出席しなければならないと思ったのです。それで、六浦谷間の集会は午後4時からの礼拝となりました。このイースター礼拝には、大塚平安教会時代に交わりのあった若い皆さんが三人も出席されました。このうちの二人は、大塚平安教会を退任したのは2010年ですから、8年前は、小学生の4年生の頃であったと思います。三人の皆さんは教会の幼稚園を卒業し、教会学校に出席しながら成長したのでした。今までも、それぞれ何回かこちらの礼拝に出席しています。そのときはお母さんと一緒に出席したのです。今回は、皆さんは大きくなって、三人で出席してくれたのです。そのうちの一人は、私が大塚平安教会を退任する前に洗礼を受けました。教会には出席しながらも、洗礼を決心することができなかったのです。その彼に洗礼を勧めたのでした。すると彼は、来年の今頃、自分はどうなっているかわからない、というのです。自分の先々のことは誰もわからないのです。だから先のことはイエス様の導きに委ねて歩むことが信仰なのであり、今の導きを喜びつつ歩むことを示したのでした。彼は洗礼を受けました。そして、他の若者を連れて、今回のイースター礼拝に出席されたのでした。幼稚園の卒業生が教会と結びついて歩むこと、洗礼を受けていないとしても、大切なことであり、喜びであります。
 現役としての在任中も、幼稚園の卒業生が幼稚園の教会ということで、戻って来る子供たちが結構いたことを示されています。幼稚園を卒業して、そのまま教会学校に出席しつつ成長し、洗礼を受けるケースも多いのですが、もはや成人して社会人として歩んでいるうちにも、幼稚園の教会が示され、再び幼稚園の教会へと戻ってくるのです。祝福の命をいただく歩みへと導かれるのです。キリスト教の幼稚園、保育園の使命はそこにあると思います。幼稚園として、保育園として子供たちを集め、そして送り出すということ、それはイエス様によって祝福の命をいただきつつ歩むためなのです。そして、卒業して再び幼稚園の教会に戻って来るということなのです。イースターやクリスマスは卒業した子供たちが再び戻って来る良い機会であると示されるのであります。
 イースターに若者たちがこちらの礼拝に出席されたことで、信仰の人生というものを示されました。私達の信仰は常に主イエス・キリストに原点を置かなければなりません。十字架の救いを仰ぎ見ること、信仰を励ます主の聖餐をいただくこと、そこに信仰の新しさが与えられ、ご復活のイエス様と共に歩む信仰が導かれるのであります。ご復活のイエス様と共に歩む時、イエス様のお心を持って歩むのですから、自分の思い込みではありません。また、生活の中にも死角という位置付けがあります。しかし、思わぬところから問題が出てきても、主のお導きをいただいている私達です。祈りつつ対処することができるでありましょう。

 旧約聖書民数記13章の示しであります。聖書の人々はエジプトの国で奴隷として生きること400年であります。もともとは奴隷ではありません。ヤコブの11番目の子どもヨセフが、神様のご計画のもとにエジプトの大臣になっています。全国的に飢饉となり、食料不足となりました。ヨセフは7年間の豊作の後に7年間の大飢饉が来ることを示され、穀物を大量に貯蔵していたのであります。ヤコブの子ども達、ヨセフの兄弟達がエジプトに食料の買い出しにきました。実はこの兄弟達がヨセフを奴隷として売り飛ばしたのであります。しかし、これは神様のご計画であり、導きのままにエジプトの大臣にまでなるのです。ヨセフは再会した兄弟達に恐れることはないと諭し、家族全員がエジプトに住むように示します。こうしてエジプトに住むようになりましたが、王様の代が変わり、ヨセフも兄弟達も死んでしまった後の時代に、エジプトに聖書の民族イスラエル人が住んでいる理由、経緯を知らない王様の時代になります。自分の国で他の民族が増えて行くことに恐れを持った王様が聖書の人々を奴隷にしてしまうのであります。400年間の奴隷の苦しみから解放したのは、神様の選びの人、モーセでありました。モーセはエジプトの王様に掛け合い、神様の審判を与えたりして、ようやくエジプトの脱出に至るのであります。「乳と蜜の流れる土地カナン」へ導くのは神様でありました。エジプトを出て、しかし40年間も荒れ野をさまよい、ようやく約束の土地、乳と蜜の流れる土地カナンを前にしたのです。
 今朝の聖書13章は約束の土地カナンを偵察することが示しとなっています。約束の土地であったとしても、そこには元からの人が住んでいるのであります。13章1節以下、「主はモーセに言われた。『人を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい』」との示しが与えられました。それで12部族から一人ずつ選ばれました。モーセは選ばれた12人に言いました。「ネゲブに上り、更に山に登って行き、その土地がどんな所か調べてきなさい。そこの住民が強いか弱いか、人数が多いか少ないか、彼らの住む土地が良いか悪いか、彼らの住む町がどんな様子か、天幕を張っているのか城壁があるのか、土地はどうか、肥えているかやせているか、木が茂っているか否かを。あなた達は雄々しく行き、その土地の果物を取ってきなさい」と命じたのです。
 12人の偵察隊は40日間、カナンを偵察して帰ってきました。そして報告します。「わたしたちは、あなたが遣わされた地方に行ってきました。そこは乳と蜜の流れるところでした。これがその果物です」と言い、約束の土地は良いところであると報告しました。しかし、こうも報告しています。「その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きいものでした」とも報告しました。12人の偵察隊のうちカレブとヨシュアは「断然そこへ行くべきだ」とモーセに言います。しかし、他の10人は、むしろ悪い情報を報告し、そこに進入するのは危険であると言うのであります。カレブとヨシュアはこのカナンこそ神様の約束の土地であり、約束を信じてカナンに入るべきだと主張するのであります。イスラエルの人々は10人の者が述べた報告を信用し、カレブとヨシュアの報告は信用しなかったのであります。今朝の聖書はそこで終わっています。つまり、神様の約束を信じない人々の姿が示されているのです。カレブとヨシュアの報告を、まだ見ぬ事実でありますが、信じなければならないのであります。信じることが信仰なのであります。まだ見ぬ事実を確認すること、それが私達に求められていることなのであります。

 ご復活のイエス様と最初にお会いしたのはマグダラのマリアさんでした。週の初めの日、日曜日の朝、お墓参りに行ったマリアさんはお墓が開いていることを知り、お弟子さん達に知らせに行きました。ペトロともう一人の弟子がお墓まで駆けて行き、マリアさんの言う通りお墓の中にはイエス様のご遺体がないことを確認しました。その後、マリアさんはお墓の前で泣いていたのです。そこへご復活のイエス様が現れ、マリアさんを励ましたのでした。マリアさんはご復活のイエス様にお会いしたことをお弟子さん達に報告します。お弟子さんたちがマリアさんの報告をどのように受けとめたかは記されておりません。そのお弟子さん達は、週の初めの日の夕方、ユダヤ人を恐れて家の中に集まっていました。家の戸に鍵をかけ、誰も入らないようにしていたのであります。社会の人たちはお弟子さん達も十字架で死んだイエス様の仲間だとして迫害するかも知れないからです。そこへご復活のイエス様が現れ、「あなたがたに平和があるように」と言われ、ご自分の手とわき腹をお見せになられたのであります。十字架に架けられた時、手のひらは釘で打たれ、わき腹に槍を刺されたのであります。お弟子さん達はご復活のイエス様であることを知りました。イエス様はお弟子さん達に息を吹きかけました。
 息を吹きかけるということ、これは聖書では深い意味があります。天地創造については旧約聖書の創世記に記されています。天地万物をお造りになった神様は最後に人間をお造りになりました。まず粘土で人の形を作ります。そして粘土に神様の息を吹きかけたのであります。すると人間として生きた者になったと報告しています。つまり人間は神様の息をいただいて一人の人間として生きるのです。聖書の人間観でありますが、人間を理解するために真理であります。イエス様はお弟子さん達に息を吹きかけられたのは、人間の基本的な姿、原点に戻したということです。「聖霊を受けよ」と導いておられます。
 イエス様がお弟子さん達に現れた時、トマスという弟子はいませんでした。「わたしたちは主を見た」という他の弟子たちに対して、トマスは「わたしはあの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ信じない」というのであります。それから8日の後、弟子たちはまた家の中におり、鍵をかけていました。そこにはトマスもいました。そこへ再びイエス様が現れたのであります。そしてトマスに、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と言われたのであります。トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と告白したのでありました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と信仰の姿勢を示されたのであります。「信じる者になりなさい」とイエス様は言われております。
 旧約聖書において、人々は神様のお約束を信じなければなりませんでした。「あなたがたを乳と蜜の流れる土地、カナンへと導く」ことは神様のお約束でありました。それなのに、今カナンの土地を目の前にしながら、偽りの報告のゆえに動揺しているのであります。神様のお約束を最後まで信じることです。主イエス・キリストは、ご自分が十字架にかけられたとしても、その後は復活することを示しておられたのであります。まだ見ぬ明日のこと、祝福の歩みであれ、神様の祝福が満ちていることを確信しなければなりません。信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することなのです。
 ヨハネによる福音書20章の最後のところで、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により、命を受けるためである」と示されています。私達は今日も礼拝に集められ、イエス様のお名前により、祝福の命を受けているのです。

 この説教の導入において、六浦谷間の集会におけるイースター礼拝に大塚平安教会時代の若者が出席したことをお話ししました。神様の大いなるお導きであります。幼稚園の卒業生が結構出席することは、教会の使命が応えられていることであります。1979年に大塚平安教会に赴任しましたが、その2年後に幼稚園の卒業生が牧師を訪ねてくるようになりました。大学受験の浪人生でした。従って、私が送り出したのではありませんが、彼は勉強に疲れたと言っては牧師を訪ね、いろいろと話し込んでいたのです。大学に合格したら礼拝に出席すると言っていました。そして合格したのですが、礼拝に出席しないのです。それで家に電話して聞きますと、腰痛で入院していたのでした。しかし、腰痛であると診断されたのですが、それは腫瘍であり、結局は手遅れで下半身麻痺となり、横浜市大病院に入院するようになりました。車椅子でも運動選手になって活躍したいと希望を述べていました。しかし、腫瘍は全身に転移していたのです。私は毎週彼をお見舞いし、共に聖書を読み、信仰のお話をしていました。退院したら教会で洗礼を受けたいと希望を述べていました。しかし、もはや退院できないと理解していたお父さんが、自分も一緒に洗礼を受けるから、この病室で洗礼を受けようと勧めたのです。5月末のペンテコステに洗礼を受け、一ヶ月後には神様のもとに召されていったのです。イエス様の御心に養われた一人の幼稚園卒業生が教会に戻ってきて、そして神様のみもとに召されていったのです。祝福の命をいただいたのです。
 主イエス・キリストは私達の命です。そして、「命の息」を与えてくださっているのです。力をなくしているお弟子さんたちにイエス様は「命の息」を与えました。彼らは、「命の息」を与えられたものとして、力強く歩むようになったのです。「命の息」は私達に与えられています。新しい歩みは不安を伴いますが、どのようなことになっても、私は復活のイエス様と共に新しい者へと導かれているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。イエス様の命へと導いてくださり感謝いたします。ご復活の主と共に力強く歩ませてください。主イエス・キリストの御名によりおささげいたします。アーメン。