説教「神様の御心をいただきつつ」

2017年8月27日、大塚平安教会
聖霊降臨節第13主日」 

説教・「神様の御心をいただきつつ」、鈴木伸治牧師
聖書・創世記24章62-67節
    マタイによる福音書12章43-50節
賛美・(説教前)讃美歌21・106「み前に集まり」
    (説教後)545「まことの神」


 久しぶりにこちらの教会の講壇に立たせていただくお恵みを感謝致します。前回は2015年6月28日でありまして、当日は新しい教会の献堂式の日であり、大切な日に礼拝説教を担当させていただきました。そのときも近況を報告させていただいたと思いますが、やはり皆さんは、私達夫婦がどのように生きていたのか関心がおありかと思いますので、最初に近況をお話しさせていただきます。
 2010年3月に退任させていただきましたが、その4月から9月までは横浜本牧教会代務者及び教会付属の早苗幼稚園の園長を担いました。そして、代務者が終わりますと、どこの教会にも所属しなくなりましたので、11月からは六浦谷間の集会として夫婦二人で礼拝をささげるようになりました。教会に所属しなくなりましても、長年の習慣として説教を作成することは続けていまして、土曜日には説教が準備されていました。それならここで礼拝をささげましょうということで、夫婦で礼拝をささげるようになったのです。追浜の地で娘さん家族と共に過ごされている小澤八重子さんも、時には出席されるようになりました。また、当初はこちらの教会にも出席されていた田野和子さんも出席されていました。その後、田野さんは北海道にお帰りになりました。六浦谷間の集会として礼拝をささげていましたが、第二日曜日には横須賀上町教会の礼拝説教、聖餐式を担当するようになりました。さらに隔月でありますが、三崎教会の礼拝説教を担当させていただくようになり、今でもお招きをいただいています。横須賀上町教会は、伝道師であった先生が牧師になりましたので、私の御用は終わりになりました。そうしましたら、今度は横浜本牧教会で月に一度の説教を担当するようになりました。
 横浜本牧教会は昨年の9月まで、こちらの教会出身の森田裕明牧師が教会と幼稚園を担っていたのです。しかし、事情がありまして退任されました。それでこちらでも代務者を務められた小林誠治先生が代務者となり、私が付属早苗幼稚園の園長に就任したのであります。昨年の10月からでした。当初は今年の3月までと思っていましたが、後任が決まらず、一年間延長されています。ですから今は横浜本牧教会付属の早苗幼稚園の園長を務め、第二日曜日には教会の説教を担当し、三崎教会にも隔月に伺っている状況です。幼稚園の責任を持っていますが、教会の職務がありませんので、比較的楽な生活をしています。ところがスペインで暮らす娘の羊子が、2月12日に出産しまして、私たち夫婦がスペインには行かれませんので、娘が子供を私達に合わせるために一時帰国したのであります。7月24日に羽田につきまして、早くも明後日8月29日にはバルセロナに戻ることになりました。約一ヶ月間、孫と共に過ごすことができ、夫婦共に喜んでいる次第であります。バルセロナはテロ事件があり、心配でありますが、祈りつつ過ごしたいと示されています。
 今朝は日本基督教団の聖書日課による聖書の示しです。聖書日課は「家族」として示されています。私達、教会に集められるとき、神様の家族として、共に礼拝をささげているのであります。神様の家族としての聖書の示しをいただくのであります。

 旧約聖書は神様のお心を持って生きることが祝福の家族であると示しています。その祝福の家族は、神様のお心である十戒を守って生きるかが問われます。神様のお心を持たないで偶像に心を向けることの審判が繰り返し示されているのです。旧約聖書はまず創世記のはじめからその主題で始まります。エデンの園にいるアダムさんとエバさんは神様の祝福のままに平安のうちに過ごしています。しかし、神様の戒めを破ることになるのです。それが禁断の木の実を食べるということでした。もうそこから神様のお心をいただいて生きる主題が始まっているのです。アダムさんとエバさんは神話の世界でありますが、聖書の民族の始まりはアブラハムさんであります。アブラハムさんは神様の祝福の約束を信じて、神様のお心を持って生きた人であります。神様のお心に生きることの努力、心がけが求められています。
 今朝の旧約聖書は創世記24章62-67節でありますが、イサクのお嫁さん探しの物語であります。24章全体がイサクのお嫁さん探しになっています。アブラハムさんとサラさんの子供イサクにお嫁さんを迎えることになりました。イサクの母親サラは既に死んでいます。アブラハム自身も老人になっていました。それでアブラハムは息子イサクのお嫁さんを探すことになります。アブラハムは家の全財産を任せている年寄りの僕に言います。「あなたはわたしの息子の嫁をわたしが住んでいるカナンの娘から取るのではなく、わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れてくるように」と命じるのです。そこで僕はお嫁さん探しに出かけます。24章11節以下に示されます。そこはナホルという町でした。僕は井戸のあるところで神様にお祈りします。「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。ラクダにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう」と祈るのでした。祈り終わるとリベカが水がめを肩に載せてやってきました。このリベカはアブラハムの兄弟ナホルとその妻ミルカの息子ベトエルの娘でありました。それでアブラハムの僕はお祈りしたようにリベカに水を所望いたします。するとお祈りしたように、「どうぞ、お飲みください」と言い、ラクダにも水を飲ませてくれるのであります。それで、僕は娘の両親を尋ね、両親の家に自分を連れて行くように頼みます。両親は実にアブラハムの親族であったのでありました。僕はリベカの両親に、自分がここに来たこと、お祈りしたこと、お祈りのようになったことを話しました。そして、ぜひリベカをイサクのお嫁さんにしてくださいとお願いするのであります。それに対して、まず答えたのはリベカの両親ではなく、リベカの兄ラバンでした。「このことは主の御意思ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください」というのでした。こうして縁談が決まり、アブラハムの僕はリベカを連れてアブラハムとイサクの元へ戻ってきたのであります。
 そして、今朝の聖書になります。夕方暗くなる頃、野原を散策していたイサクでありました。目を上げてみるとラクダに乗った僕とリベカが近づいてきたのであります。そして、ここで二人は出会うことになります。二人の出会いによって、神様の御心に生きる家族が誕生したのであります。今朝の聖書についての解説は必要ないでしょう。ここにいたるまでのことが大切なのです。創世記24章は全体を通してイサクのお嫁さん探しになっています。それも、アブラハムが土地のカナンの娘ではない、一族の中からお嫁さんを探したということです。神様のお心を持って生きるアブラハムであり、また一族でなければならないのです。常に神様のお心を中心にして生きる一族が大切なのです。何も、長々とイサクのお嫁さん探しを記さなくても良いと思うのですが、神様のお心に生きることに命を懸けて守る姿が記されているのです。

 今朝の主題は「祝福の家族」でありますが、「神様のみ心をいただきつつ」生きる人生を示されるのであります。今朝のマタイによる福音書12章43節以下は「汚れた霊が戻って来る」との表題で記されています。これは主イエス・キリストがお話された教えであります。面白いお話であります。この12章22節以下に「ベルゼブル論争」が記されています。イエス様とファリサイ派の人々との間で悪霊を追い出す論争が展開されています。とにかく、ここでは悪霊を追い出すことが焦点でした。それに対して、今朝の43節以下は追い出された悪霊の問題を示しているのです。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない」と記されていますが、イエス様によって悪霊は人から追い出されるのです。今まで悪霊が体内にあって、本人を苦しめていました。しかし、いまや悪霊はイエス様によって追い出されたのです。悪霊がなくなった人は、何か気持ちが晴れ晴れとして、平安の日々を歩むようになりました。悪霊のいない自分、毎日がうれしいのです。ところで、悪霊は休む場所がないので、「出て来たわが家に戻ろう」と言い、元の家に帰るのです。元の家とは今まで入っていた人のことです。イエス様によって悪霊は追い出されました。その人の心はきれいになっているのです。悪霊が言うには、「戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた」のであります。悪霊を追い出してもらった人は、確かに心の中はきれいになりました。生活もきちんとできるようになりました。ところが悪霊を追い出した後の心には中心になるものが存在しなかったのです。再び悪霊が入り込み、その悪霊はもっと悪い七つの霊を呼び込んだというのです。悪霊をイエス様によって追い出されたとき、空になった心にイエス様がくださる神様のお心で満たさなければならなかったのです。そうすれば悪霊は戻っては来なかったのであります。主イエス・キリストはこのたとえ話をすることによって、私たちが神様のお心をいつも求め、いただき、心を満たされながら歩むことを教えておられるのであります。神様のお心を持つ努力、訓練、心がけが求められているのであります。マタイによる福音書5章からイエス様の山上の説教が始まります。その最初の教えが、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」との示しでありました。「心が貧しい」とは心を空っぽにすることです。しかし、いつまでも空っぽにしていては、悪霊が入ってきます。今まで自分の欲望の心がいっぱいになっていたのを、空っぽにするや神様の御心をいただくのです。それにより天の国に生きる者へと導かれるのであります。
「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と主イエス・キリストは教えておられます。今朝の新約聖書マタイによる福音書12章46節以下であります。イエス様が群衆に話しておられます。先ほどの悪霊のお話しに続いて、なお神様のお心に生きることをお話しされていたのであります。するとそこへイエス様のお母さんであるマリアさんと兄弟たちが、イエス様と話したいことがあって外に立っていました。そのことをある人がイエス様に伝えます。するとイエス様は、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」と言うのです。冷たい言い方をしています。イエス様の母とはマリアさんのことです。イエス様は聖書の証言によれば、聖霊によってマリアさんが身ごもり、マリアさんを母としてこの世に現れたのであります。御子としてお生まれになりましたが、ヨセフさんとマリアさんの子供として成長したのであります。その後、ヨセフさんとマリアさんとの間に男の子4人、女の子数人が生まれています。マタイによる福音書13章55節に、イエス様に対する群衆の声として、「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」と言っております。妹に当たる人たちは結婚してそれぞれの家族を持っているというわけです。そのマリアさんと兄弟たちがイエス様と話すために来たのであります。そのような状況でありますが、イエス様は主の家族について示しているのです。弟子たちの方を指して言われました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と言われたのであります。イエス様が「わたしの兄弟、姉妹、また母」と言われたとき、人間みな兄弟と言っているのではありません。イエス様はお弟子さん達を指しながら言われたのであります。すなわち、イエス様のお弟子さん達はイエス様によって神様の御心を与えられ、御心に生きているのであります。そして、その努力をしつつイエス様と共に歩んでいるのであります。神様の御心をいただき、行う人が兄弟姉妹であるということであります。主の家族なのであります。

 今朝は大塚平安教会という神様の家族の皆さんとお交わりが与えられていますこと、心から感謝しています。1979年9月にこちらの教会の牧師に就任しました。それまでは宮城県の陸前古川教会の牧師でした。宮城県から車でまいりましたが、浦和の親戚の家に泊まり、翌日こちらの教会にやってまいりました。教会の玄関に入りますと、婦人会の皆さんが拍手してお迎えくださったのであります。男性はと言いますと大矢幸男さんだけでした。その頃の教会は、男性は働き盛りの皆さんで務めに出ている皆さんがほとんどでした。その婦人会の皆さんに迎えられ、お昼の食事も用意されており、お交わりをいただきつつ過ごしました。食事が終わりますと皆さんが引っ越しの荷物を整理してくださいました。荷物の中にはお酒の銚子やら杯が出てきたりして、人間性がばれてしまいましたが、そういう私達を受け止めてくださったのであります。30年間6ヶ月、長い間、皆さんと共に、神様の家族としてお交わりを導かれましたこと、いつも思い出しています。そして2010年3月28日が最終礼拝であり、おわかれの時をもってくださり、多くの皆様がお集まりくださいましたこと、心から感謝しています。こちらの大塚平安教会を示される毎に、神様の家族としての皆さんを示されています。神様の御心をいただきつつ歩む群れが神様の家族であります。神様の御心をいただきつつ歩むことを今朝は示されたのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。イエス様の十字架の御救いにより、神様の家族に導かれ感謝致します。さらに御心をいただき歩ませてください。キリストの御名によりお祈り致します。アーメン。