説教「喜びを示される」

2023年12月17日、六浦谷間の集会

「降誕前第2主日

                      

説教・「喜びを示される」、鈴木伸治牧師

聖書・マラキ書3章19~24節

   コリントの信徒への手紙<一>4章1-5節

   ヨハネによる福音書1章19~28節

賛美・(説教前)讃美歌21・231「久しく待ちにし」

   (説教後)賛美歌21・481「救いの主イエスの」

降臨節第三週となり、三本のロウソクが点火されました。主イエス・キリストのご降誕の光が近づいてまいりました。ロウソクでクリスマスの喜びを表すのは現実が暗いからであります。私の暗さの中に主イエス・キリストの光が差し込んできたのです。今週はロウソクは三本ですが、次週は四本になります。待降節を歩むうちにも、私にとって主イエス・キリストの待降とは何か、その意味を問いながら歩みたいのです。

今朝のマラキ書には「義の太陽が昇る」と示されています。「義の太陽」とは神様でありますが、神様が太陽のように恵みと導きを与えることを示しているのであります。太陽は地球に生きる人間を始め、生態系を育んでくれています。その意味でも人間は太陽には深い思い入れがあるのです。ご来光と言い、朝日が昇る瞬間の感動は、美しいとか素晴らしいという思いの中に、生態系を育んでくれる存在の喜びでもあるわけです。世界の人間は太陽の恵みをしっかりと受け止めつつ営んでいるということです。以前、聖地旅行でシナイ山に登りご来光を見ましたし、また富士山にも登り、ご来光を見たことが忘れられません。何かすがすがしい思いを与えられるのでした。

そのような太陽の存在に対して、人間であるが中心的存在になると太陽として崇められることになります。歴史において王様であるとか支配者たちは、しばしば太陽になぞらえています。日本においては天皇が太陽として崇められていました。そのような日本人の姿を示した映画があったことを、ネットで知るようになりました。「太陽」という映画の紹介がありました。この映画は2005年、ロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督が製作したものです。昭和天皇ヒロヒトを扱った映画であり、日本では公開不可能ではないかといわれていましたが、2006年8月5日に銀座の映画館で公開されたということです。神様が太陽なのであり、人間の太陽はあり得ないということです。今朝はこのさまざまな問題がある社会に、「義の太陽が昇る」事を示され、「喜びを示される」のであります。

 旧約聖書はマラキ書の示しです。3章20節、「わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように、躍り出て飛び回る」と示されています。神様の御心をいただき、癒しが与えられ、喜びに溢れると示しているのであります。牛舎の子牛たちは飼い葉桶から豊かに与えられ、飛び回ると示しています。

 マラキ書は旧約聖書の最後に置かれている聖書です。このマラキ書の背景は神様の存在に対して、懐疑的にとらえる人々が多くなってきた状況です。聖書の人々はバビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンに連れて行かれました。そこで苦しみの生活をすること、約50年と言われます。捕われに生きることを捕囚と称していますが、その捕囚から解放されるのはペルシャの国が強くなり、バビロンはペルシャの前に衰退していくのです。捕囚から解放された人々は都エルサレムに帰り、破壊された神殿を修築いたします。そして、第二神殿が完成するのですが、国民の生活は困難が多く、いったい神様の導き、恵みは何処にあるかと思うようになるのです。そういう社会状況の中で、マラキと言う預言者は、神様の救いを信じて待つように教え導いているのです。そして、神様は昔現れた預言者エリアを再び人々に遣わすと知らせているのであります。

 「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリアをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように」と神様の御心を伝えています。エリアが現れて、子ども達が父の教えに向かうことを導くというのであります。父の教えはモーセを通して与えられた「掟と定め」です。22節に「わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた」と示されています。父たちは「掟と定め」を守りながら神様に導かれてきたのです。「掟と定め」は十戒であり、それに伴う神様のお心にある定めなのでした。人間の基本的な生き方を示しているのが十戒なのであります。この社会の貧困と苦しさの中に生きているあなたがたは、だから神様の導き、恵み等はないと言ってはいけないと教え、神様はあなたがたのために力強い導き手である預言者エリアを再び遣わします、と教えているのです。

 預言者マラキは社会が困難な生活であればこそ、神様の示しを見失うことなく、今こそ神様に立ち返って御心に生きることを示したのでした。私たちが現代に生きるとき、どうしても不安を持たざるを得ない状況であります。特に今は大雨等の災害が多く、復興に取り組んでいます。また、世界で起きている戦争が身に迫っているようでもあります。いろいろな社会情勢、人間の恐ろしい行動、社会的行く末、この先どうなっていくのか不安が重なるとき、神様の導きは何処にあるかと懐疑的に思うことは、実にマラキの時代と重なるのであります。マラキはエリアを遣わすと示していますが、そのエリア的存在が新約聖書においてヨハネなのであります。

  「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』」と自らを紹介したのがヨハネという人でした。ヨハネイエス・キリストより先に現われ、人々に神様のお心を示しながら、後から来られる真の救い主を証したのでありました。ヨハネが人々に現われたとき、人々はヨハネが何者なのか戸惑いました。「あなたはどなたですか」と人々は尋ねます。すると、ヨハネははっきりと自分を示しています。「わたしはメシアではない」と言います。人々は「では何ですか。あなたはエリアですか」と尋ねると、ヨハネは「違う」とはっきり否定します。「それではいったい、だれなのです。あなたは自分を何だというのですか」と人々が尋ねると、ヨハネは「わたしは声だ」と言ったのであります。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」とヨハネイザヤ書40章3節の言葉を自分に当てはめて紹介したのでした。荒れ野で叫ぶ、すなわち荒れ野とは現実の社会であります。現実の社会に失望しており、希望もない、そういう状況はまさに荒れ野でした。この社会、荒れ野の社会に救い主が現われることを、声を大にして告げたのがヨハネでありました。

 このヨハネルカによる福音書によれば、ザカリアとエリサベトの間に産まれた子でありました。彼らは高齢でありましたが、マリアに現われる天使ガブリエルが、神様の御心としてあなたがたに子どもが与えられると告げます。ザカリアは、高齢である自分たちから子どもが生まれるはずがないと思います。すると、ガブリエルは「この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、このことの起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と言われるのでした。ザカリアは、その通りに話すことができなくなります。エリサベトから男の子が産まれます。産まれた子に名前をつけるとき、エリサベトもザカリアも「その名はヨハネ」とお告げの通りにしたので、ザカリアは話すことができるようになりました。時が来れば実現する神様の言葉を信じたからであります。

 ヨハネは、まさに「時がくれば実現する神様の言葉」を人々に証しする声であったのです。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」。ヨハネは時の社会の人々に主イエス・キリストの到来を告げ、心から待望しなさいと教えました。この言葉はイザヤ書40章3節の引用です。イザヤ書はこのように記しています。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒地に広い道を通せ」と記しています。荒れ地に道を備えたり、広い道にすることはできません。この言葉は心の備えを示しているのであります。救い主がお出でになる。だから心からお迎えできる道を作りなさいということであります。心の中に広い道を作り、救い主をお迎えするのであります。「主の道をまっすぐにせよ」と言っていることも同じであります。

 「義の太陽」、「喜びを示される」とは、主イエス・キリストの十字架の救いであります。待降節第三週となり、イエス様がお生まれになるクリスマスを待望するこの時、十字架の示しはまだ先のことだと思われるでしょうか。イエス・キリストがお生まれになるクリスマスは人々の喜びとなっています。キリスト者でなくても、社会の人々はクリスマスを喜んで待望しています。それは楽しく過ごすことができるからです。楽しく過ごす中にはイエス様は不在であります。それでも良いのです、楽しく過ごすことができるからです。しかし、クリスマスが終われば、確かにプレゼントは楽しく残っていますが、クリスマスの喜びは終わってしまうのです。そして、社会はすぐにお正月の松飾りに代わります。クリスマスのことなど何か昔話のようになっていくというわけです。

 クリスマスは主イエス・キリストがこの世に現れたお祝いです。何のために現れたのか、この世を救うためです。その救いは十字架によるしか救うことができなかったのです。イエス様は世に現れ、神様の御心を示しました。また、神様の御業を示しました。この社会は暗い社会ではない。義の太陽が昇り、照らし続けているからです。「喜びを示される」ことこそ、救い主イエス様が世に出現されることであります。

<祈祷>

聖なる神様。義の太陽を昇らせ、お導きくださり感謝致します。「救いを示される」喜びへとお導きください。キリストの御名により、アーメン。

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