説教「新たにさせられつつ」

2022年1月9日、六浦谷間の集会

降誕節第3主日」       

                      

説教・「新たにさせられつつ」、鈴木伸治牧師

聖書・出エジプト記14章15-25節

   ヨハネの手紙<一>5章6-12節

   マルコによる福音書1章9-11節

賛美・(説教前) 讃美歌21・278「暗き闇に星光り」

   (説教後) 讃美歌21・579「主を仰ぎ見れば」

 今朝は日本基督教団の教会暦は「降誕節第3主日」でありますが、他の教会暦は「顕現後第一主日」としています。顕現祭は1月6日でありました。顕現とはエピファニア(Epiphania)でありますが、もともと人の目には見えない神様の本質が、目に見えるものとなって現れる事であります。その本質が主イエス・キリストであります。イエス様がお生まれになったとき、東の国の占星術の学者達がお会いし、伏し拝んだとされています。

 娘の羊子がスペイン・バルセロナに滞在していますので、私達夫婦も何回か滞在しています。2014年10月から2015年1月にかけて滞在したときは顕現祭を体験しました。クリスマスを体験したのですが、むしろ日本のクリスマスより静かなクリスマスのようでした。11月の終わりの待降節の始まりからクリスマス飾りが始まることは同じであります。イエス様が御生まれになったという馬小屋も飾られますが、飼葉桶には、まだイエス様がいないのです。12月25日になって、ようやく飼い葉桶にはイエス様が存在するのでした。

クリスマスのミサには祭壇にイエス様の人形が置かれており、ミサが終わりますと神父さんが抱いているイエス様の足に、ミサに出席した人たちはキスをして帰って行くのでした。そして1月6日は顕現祭で、この日はまさにお祭り騒ぎとなります。三人の学者が船でバルセロナに、大勢の御供を連れてやってきます。学者の一行は町の広場に造られた場所に座ります。お供の人たちが、そこに集まってきている大勢の人たちにお菓子を配ったり、余興をしたりするのです。このように顕現祭を喜びますが、顕現祭は学者達がイエス様を拝んだ日とされており、一方イエス様が洗礼を受けた日としてこの日を迎えている人々もいるのです。いずれにしても顕現、神様の本質が、目に見えるものとなって現れる事でありますから、主イエス・キリストの存在が公になったことなのであります。神様の御心が見える形で現れたことであります。それは見える救いの形であり、救いの洗礼となっていくのであります。

 今朝は主イエス・キリストの洗礼を示されますが、聖書の歴史を通して水による救いが示されています。最初に水の救いを示すのは創世記であります。創世記2章によりますと、エデンの園から一つの川が流れ出ていたということです。エデンの園全体を潤し、その川が四つに分かれて行ったということです。創世記で述べていることは、神様のエデンの園から地球上に潤いを与える水が流れ出ていることを示しているのです。エゼキエル書47章には「命の水」について記しています。都の神殿の敷居の下から水が湧き出ています。その水は都の救いの水となっていくのであります。

 こうして命の水について記すと共に、今朝の出エジプト記は水が人々を救う手段となっているのであります。聖書の人々は奴隷の国エジプトから、神様によりモーセを通して脱出することができました。人々はエジプトを出て、神様が示すカナンの国へと向かいます。ところがエジプトの王様ファラオは心を翻して、軍隊を派遣して聖書の人々を追ってくるのであります。人々は後ろから迫ってくるエジプトの軍隊に対して恐れおののきます。しかも、前方は海でありました。この海は紅海と呼ばれ、葦の海とも呼ばれています。後から迫ってくるエジプトの軍隊に対して、人々はモーセに詰め寄ります。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『放っておいてください。自分達はエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」と言うのです。モーセは神様の導きを信じています。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」と諭し、神様の救いの業を示すのであります。

 後ろにはエジプトの軍隊、前は海、どうにもならないとき、神様はその海の水を二つに分けるのであります。それにより聖書の人々は水が分かれた海の乾いた道を歩いていくのであります。人々が全員渡り終えると、今まで雲の柱で進むことができなかったエジプトの軍隊が、遮る雲の柱がなくなったので、同じように海の底を通って追いかけてきます。しかし、神様は海をもとのようにしますので、エジプトの軍隊は溺れ死んでしまうのであります。神様の救いの御業を示されたのでした。海の水を分けて人々を救ったということであります。言わば水の中から救いが与えられたということであります。その水はエジプトの軍隊を滅ぼしたのでありますが、聖書の人々は水により救いが与えられました。

 水は救いの手段であることを聖書は記しています。それを私たちに示されたのは主イエス・キリストであります。イエス様の洗礼についてはそれぞれの福音書が記しています。マタイは洗礼を授けるヨハネとの対話を記しています。イエス様がヨハネから洗礼を受けようとすると、ヨハネは「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私のところへ来られたのですか」と言うのです。するとイエス様は「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言われ、そしてヨハネから洗礼を受けた、とマタイによる福音書は記しています。マルコ、ルカはそれらの対話は省略しています。おそらくマタイが記すような対話があったものと思われます。

 聖書は洗礼と記すとき、ルビとして括弧でバプテスマと記しています。キリスト教の教派によっては洗礼とは言わないでバプテスマとしています。バプテスマとはギリシャ語で「浸す」と言う意味です。水に浸すということです。水に身体を浸すことは、もともとユダヤ教で行われていた儀式であります。これは他の宗教からユダヤ教に改宗するときにバプテスマを施したのであります。それをヨハネが罪の悔い改めの儀式に変えました。ヨハネの厳しい審判は人々を悔い改めに導いたのであります。人々はヨハネのもとに来て、神様の前に罪の悔い改めをいたしました。そこへ主イエス・キリストが来られ、ヨハネから洗礼を受けたのであります。バプテスマが罪の悔い改めであるなら、イエス様も罪があり、悔い改めたのかと素朴に思います。マタイの報告のように、これは正しいことであると言われるのです。

 人間は原罪をもっていることは聖書の示しなのであります。生まれたままの姿は自己満足と他者排除です。それを原罪としています。人間はこの原罪をもっているのです。イエス様は人間としてこの世に現れたとき、原罪を持つ人間として罪の悔い改めのバプテスマを受けることになったのであります。イエス様が罪を犯したとか、犯さなかったとかと言うことではなく、原罪を持つ一人の人間としてバプテスマに向かったのであります。

 主イエス・キリストご自身が洗礼を授けたという記録は聖書にはありません。しかし、イエス様はご自身が洗礼を受けたように、この洗礼を大事な業、救いのバプテスマと位置づけたのであります。イエス様が復活し、そして昇天されるときお弟子さん達に命じました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼・バプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と示し、人々に救いのバプテスマを授けるようにされたのであります。主イエス・キリストの死と復活を経て聖霊降臨が与えられ、初代教会より「父と子と聖霊の名によって」バプテスマが授けられるようになったのであります。そして、その洗礼は主イエス・キリストの十字架による贖い、救いを信じた者が、十字架を基として人生を生きるスタートラインになったのであります。

 キリスト教は主イエス・キリストの十字架の救いを信じた人々が、罪を悔い改め、イエス様の十字架の贖いを信じて洗礼を受けるのであります。洗礼を受けるということは、人生の土台をイエス様の十字架として歩むことなのです。しかし、人間は原罪を持つ者として、いつも自己満足と他者排除の生き方になってしまいます。そのため、イエス様の聖餐に与るのです。イエス様がお弟子さんたちと最後の晩餐をしたとき、パンを示しながら、「今後はイエス様の御体として食しなさい」と示されたのです。その後、杯をまわしながら、イエス様の御血潮として飲みなさいと示されたのです。キリスト教は、このイエス様のパンとぶどう酒により信仰が養われることになるのです。聖餐式としていますが、聖餐式に臨むことによって、再びイエス様の十字架の贖いを示され、救いの原点に戻され、新たなる力をいただきながら歩むのです。洗礼をいただき、聖餐をいただくことが「新たにさせられつつ」歩む人生なのです。 

<祈祷>

聖なる御神様。救いの洗礼へと導いてくださり感謝いたします。救いの原点、十字架を仰ぎ見つつ歩ませてください。主の名によって、アーメン。

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