説教「神と人とに愛される」

2022年1月2日、六浦谷間の集会

降誕節第2主日」       

                      

説教・「神と人とに愛される」、鈴木伸治牧師

聖書・ゼカリヤ書8章1-8節

   テサロニケの信徒への手紙<一>2章1-8節

   ルカによる福音書2章41-52節

賛美・(説教前) 讃美歌21・367「偉大なみ神の」

   (説教後) 讃美歌21・483「わが主イエスよ、ひたすら」

 2022年の歩みが始まりました。この年も神様のお導きにゆだねて歩みたいと存じます。神様のお導きに委ねて歩むとき、私たちは新しい者として存在するのです。私たちは、いつも自分中心になってしまいます。聖書は、自分中心の生き方を「古い人間」としています。それに対して、神様のお心をいただきつつ歩むのであれば、「新しい人間」としているのです。自分中心ではなく、いつも他の存在を受け止めつつ歩む生き方です。新しい者として、新しい年を歩みたく願っています。その意味でも2022年の主題を「新しい命を生きる」としています。いつも神様の御心をいただきつつ歩みたいのであります。

 人間は誰もが「新しい生き方」を求めているのです。日本の国はお正月には初詣をしています。新年と共に神社仏閣に行き、願い事をしています。それは多くの場合、家内安全、商売繁盛、交通安全、合格祈願というような内容ですが、それらのお祈りにも新しい生き方を求めているからこそ、新しい年は、今までにない良い歩みであることを願っているのです。初詣は日本ばかりではなく、世界の人々が新しい年の始まりに、神さまや偉大な存在に願っているのです。以前、お正月に聖地旅行をしました。イスラエルイエス・キリストが歩まれた場所を訪ねる旅です。その中心がエルサレムです。このエルサレムで十字架につけられたのでした。このエルサレムは歴史を通して外国の侵入を受け、破壊されているのです。そのため、破壊された城壁がありますが、その城壁に向かって祈りをささげる人々が後を絶たないのであります。お正月に訪ねたときも、多くの人々が城壁に向かってお祈りをささげていました。エルサレムの回復であり、世界の平和であり、個人の幸せでありましょう。それらのお祈りもまた「新しい命を生きる」ためであると思います。私達もこの年は「新しい命に生きる」ことで「神さまと人々に愛される」存在として歩みたいのであります。

 聖書は全体的には都エルサレムへの希望であります。エジプトの奴隷から解放された聖書の人々は、神様の導く乳と蜜の流れる土地カナンへと向かいました。そこで新しい生活が導かれ、都エルサレムが建設されるのであります。私が聖地旅行をしたとき、エルサレムは建都3000年ということで、特別な行事が行われていました。ツアーの皆さんも私も献金をしたのであります。献金された人の名前は、パネルに書いて、後世に残すということでした。3000年前に造られた都は人々の希望でありました。歴史において、大国に侵入され、再び捕われの身になります。人々は都エルサレムへの帰還を待ち望み、苦しい状況を歩んだのであります。預言者たちの励ましの言葉も都エルサレムへの帰還でありました。

 今朝のゼカリヤ書はバビロンに捕われていた人々がエルサレムに帰還した後の時代であります。帰還した人々は、まず神殿を造ることでした。神殿も破壊されていたのです。エズラ記・ネヘミヤ記は神殿再建についての預言であり、励ましでありました。その後、ゼカリヤという預言者が現れ、人々を励ましているのであります。何よりも都エルサレムが喜びの場所となることを示しています。8章3節「主はこう言われる。わたしは再びシオンに来て、エルサレムの真ん中に住まう。エルサレムは信頼に値する都と呼ばれ、万軍の主の山は聖なる山と呼ばれる」と示されています。ゼカリヤの時代、都エルサレムの神殿再建が20年間停止していました。神殿再建の意欲が薄らいでしまったのであります。それに対して、ゼカリヤは神殿こそ人々の希望となり、喜びを現実的に与えてくれる場所であることを人々に示すのであります。「万軍の主はこう言われる。エルサレムの広場には、再び、老爺、老婆が座すようになる。それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして。都の広場はわらべとおとめに溢れ、彼らは広場で笑いさざめく」と希望の言葉を述べているのであります。こうしたゼカリヤの励ましにより、20年間神殿再建が停止していたのでありますが、再建が再び始まり、ついに完成したのでありました。

 聖書の人々は都エルサレムへの思い、神殿への思いが強い信仰となっていますが、新約聖書は、もはや目に見える都、目に見える神殿ではなく、新しいエルサレムを示しています。神様を信じる人々の群れ、それが新しいエルサレムと示しているのであります。そして、私たち自身が神殿であり、神様の御心を宿す示しへと導かれるのであります。神様の御心を宿す神殿としての私たちは、「神様と人々に愛される」存在へと導かれているのです。

 今朝の新約聖書ルカによる福音書2章41節以下は、イエス様が都もうでをしたことが記されています。「都もうで」とは都エルサレムの神殿でお祈りすることです。ヨセフさんとマリアさんはナザレの村で生活していました。過越祭の時に都もうでをしました。その時、イエス様は12歳であったと言われます。ヨセフさんとマリアさんはナザレ村の人々と共に連れ立って都もうでに行ったのであります。ナザレから都のエルサレムまでは100キロ以上あります。随分と長い距離を歩いていくのであります。イエス様も一緒に連れて行かれることになりました。お祭りは7日間であり、過越しのお祭りが終わると、ナザレ村の人々は連れ立って帰ってきたのであります。ところが一日歩いたとき、途中で我が子イエスが道連れの中に居ないことに気がつきます。それで再び一日かけて都に戻ります。三日目に都に戻ったわけです。あちらこちら探しますと、我が子イエスが神殿の境内で学者達の真ん中に座り、話したり聞いたり質問したりするのを見るのであります。学者とはユダヤ教の律法の専門家であります。それらの人達と対等に話していたというのです。マリアさんは思わず叱りました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」というのでした。それに対して少年イエス様は「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と言うのでした。

 「神殿での少年イエス」に示されていることは、イエス様の成長の過程でこんなことがありましたというものではなく、ルカによる福音書の著者ルカが、既にイエス様の救いの順序をここで提示しているのであります。ヨセフさんとマリアさんが我が子イエスを「捜す」時、ルカは「見つかる」「捜す」と言う言葉を使いつつ、神様の御心を示しています。失われた羊、ドラクメ銀貨を捜すこと、放蕩息子を捜すことは15章に記されています。イエス様が復活の朝、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と天使が言います。見つからないのは人間の思いで捜しているからであり、御心にあって捜すなら、真に生きるイエス様との出会いがあることを示しているのであります。見失ってから三日目にイエス様に出会うのは復活のイエス様との出会いへと導いているのであります。神殿の境内で学者達を驚嘆させたのは、イエス様がエルサレムで語られたことに多くの人々が驚嘆することを予め示していることになるのであります。

 今朝のルカによる福音書2章52節、「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」と締めくくっています。「知恵が増す」とは神様の御心に満たされるということであります。神様の御心は人間が共に生きることであります。上も下もない、常に平等に生きる、それが神様の御心なのであります。「神と人とに愛される」歩みなのです。

 私は昨年の3月で勤めていた伊勢原幼稚園の園長を退任しました。3年間のお勤めでした。その前は横浜本牧教会の早苗幼稚園で2年間、園長を勤めましたので5年間のお勤めでした。いつも子供たちのお祈りの姿を示されています。朝のお集りで礼拝がありますが、先生と共にお祈りする姿、また合同礼拝でお祈り姿を示されています。神様のお心を切に求めている姿として示されていました。幼児の時から神様に心を向けること、神様のお心をいただくこと、そのような歩みは「神さまと人々に愛される」存在へと導かれるのです。

少年イエス様は神様の知恵により成長し、神様と人々に愛されたと示されています。都もうでをしたことで更に強く示されているのであります。私達にとって都もうではこの礼拝であります。この礼拝の中心は主イエス・キリストなのであります。ここは新しいエルサレムであり、新しい神殿があるところであります。私達は六日の旅路を終えて、今新しいエルサレムにたどり着き、新しい神殿の前に額づいているのであります。神様の新しい御心が与えられているのであります。特に今年の年主題として、「新しい命を生きる」と示されており、「新しい命」を生きるとき、「神と人とに愛される」存在として歩むことができるのであります。

<祈祷>

聖なる御神様。新年も御心を与えられるお恵みを感謝します。「神様と人々に愛される」歩みとなりますよう。キリストの御名によって。アーメン。

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