説教「先立つお導き」

2021年12月26日、六浦谷間の集会

降誕節第1主日」       

                      

説教・「先立つお導き」、鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書49章7-13節

   ヨハネの黙示録21章22節-22章5節

   マタイによる福音書2章1-12節

賛美・(説教前) 讃美歌21・262「聞け、天使の歌」

   (説教後) 讃美歌21・258「まきびとひつじを」

今朝は2021年の最終の礼拝であります。この一年の歩みを振り返るとき、お恵みを常にいただきながら歩んだことを示されています。2020年の春頃より新型コロナウィルス感染予防が厳しくなり、社会的にも自粛の歩みが始まり、学校にしても幼稚園にしてもお休みにしなければなりませんでした。2021年も感染予防が続きますが、いくらか緩和されましたので、普通の生活に近くなりつつ過ごしている状況です。しかし、新たにオミクロン株というウィルス感染の予防をしつつ歩む状況になっています。

鈴木家におきましては鈴木スミさんが、春には二回の入院がありましたが、今は快方に向かっており、元気になっていることを感謝しています。また、鈴木牧師は3月で伊勢原幼稚園の園長を退任しました。3年間のお勤めでした。その前は横浜本牧教会の早苗幼稚園で約2年間、園長としてのお勤めでありました。本来の隠退生活になったのであります。スペイン・バルセロナ在住の鈴木羊子さんがお子さんの義也君と共に12月21日より一時帰国しています。約二ヶ月間過ごす予定です。羊子さんと義也君は2月19日より4月15日までも一時帰国しています。鈴木家のいくつかの歩みを振り返りましたが、家族一同健康が与えられ、元気に過ごせたことを感謝しています。「先立つお導き」に委ねて歩んだのでした。

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 旧約聖書イザヤ書49章7節以下が示されています。困難な状況に生きる人々、苦しみと希望をなくしている人々への導きの言葉であります。「人々に侮られ、国々に忌むべき者とされ、支配者らの僕とされた者に向かって」神様が言われているのであります。「わたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた」と言われます。あなたは見えない存在ではなく、はっきりと自身を現わしなさい、と示しています。そして、神様が示す道をどうどうと歩みなさいと示しているのであります。どういう道なのか、「彼らは家畜を飼いつつ道を行き、荒れ地はすべて牧草地となる。彼らは飢えることもなく、乾くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる」のであります。「太陽も熱風も彼らを打つことがない」との御言葉はヨハネの黙示録7章16節で引用されています。ヨハネの黙示録の背景は、ローマ帝国時代のキリスト者迫害であり、どのような苦しみにあっても、神様のお救いがあり、導きがあると励ましているのであります。このイザヤにおきましても、苦しみに生きる人々への励ましであり、導きであります。この現実の中に神様の導きがあるということを知らなければなりません。いつか、こうなったら神様の導きがあるというのではありません。今の私に対する導きなのです。私の生活の現実に神様の絶大なお導きが与えられていることを受け止めることなのであります。

 「わたしはすべての山に道をひらき、広い道を高く通す。見よ、遠くから来る。見よ、人々が北から、西から来る」と言われます。神様の導きのままに、多くの人々が集まってくるのであります。いずれの人々も現実の中に神様の導きを確認したからであります。神様の導きは明日のことではありません。今、この現実の私に与えられているのであります。自分自身をよく見つめてみましょう。神様の導きの賜物に溢れているのであります。この現実に神様の導きのしるしが与えられているのであります。「わたしは恵みの時にあなたに答え」、「救いの日にあなたを助けた」と言われています。「恵みの時」と言われるとき、私達にとって喜びの日であります。しかし、ただ「喜びの日」が与えられることだけを思うと、喜びがないのは「恵みの時」がないのかと思います。神様が恵みを与えてくださっているのは、この現実の今であります。この現実に置かれている自分を深く思わなければならないのです。苦しい時にも、悲しい時にも、いつも神様のお導きを示されるのです。それがお恵みなのであり、この現実の中で神様を仰ぎ見ることが「恵みの時」なのであり、だからそれは「救いの日」なのであります。この現実の中に救いがあるということです。

 現実の生活の中に神様の救いの「しるし」を見たのは、マタイによる福音書の証言は東の国の占星術の学者であったということであります。占星術の学者とは、ペルシャの国のゾロアスター教の祭司と言われます。彼らは天文学、薬学、占星術、魔術、夢解釈を行う人たちでした。当時の学問に通じた学者でありました。従って、ユダヤ教には関係ない人たちでしたが、彼らの生活の中で神様の「しるし」なるものを知ったのでありました。祭司の働きをしていますから、何事も神託を求めていたのであります。星を見つめているとき、今まで見たこともない星を見つけます。学者達は毎日、星空を見上げては、今日はどんな星が出ているのか、いろいろな星を見つめていたのです。不思議な星と思える星を見たとき、彼らはすぐに御神託と示されたのであります。神様が救い主を生まれさせてくださったと理解したのであります。そして、すぐに不思議な星、神様が日常の生活の中に与えた「しるし」の星を目指して旅立ったのであります。

 こうして遠い東の国、ペルシャからユダヤにやってまいりました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と人々に聞いて歩くのです。これを聞いたユダヤの人々は驚きました。今はヘロデという王様がいるのに、また新しく王様が生まれたのかということです。嫌な予感がします。ヘロデ王も学者達の言っていることを耳にします。穏やかなことではありません。学者たちを呼び、「見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう」と学者達を送り出したのでありました。学者達の前には東方で見た星が先立って進みました。そして、ついに幼子のいる場所の上に止まったというのであります。いかにも物語でありますが、マタイのメッセージとして示されなければなりません。

 学者達が家に入ってみると、幼子はマリアと共におられたのであります。ルカによる福音書は、イエス様の生まれた場所は馬小屋であったと示していますが、マタイによる福音書は普通の家であります。普通の生活が営まれる家の中に生まれたということであります。学者達はひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたのでありました。ユダヤの普通の人々の生活の中に救い主がお生まれになったのであります。普通の生活の中に、神様の救いの「しるし」を受け止めなければならないのです。ユダヤの普通の人々は、自分達の普通の生活の中に、神様の救いの「しるし」を受け止めることができなかったのであります。

 長い間、救い主の出現を待ち望んできた聖書の人々であります。歴史を通して捕われの身となり、苦しい状況が続きました。その中で、今に救い主が現れて、この苦しみからお救い下さるのだと信じていたのであります。しかし、人々の待望は、救い主は力ある王様として現れることでありました。権威と力で悪を滅ぼし、平和な国を実現してくれるお方の出現を待望していたのであります。普通の生活ではない、別の次元の存在として考えていたのであります。従って、人々の普通の生活の中に出現した救い主を誰も知ることはできませんでした。そして、主イエス・キリストは公に現れるのが30歳頃とされますが、誰もイエス様を救い主とは信じなかったのであります。その教えに喜び、神様の業を示されても、ただ驚くだけで救い主の証しと信じる人はおりませんでした。そして、ついに指導者たちの扇動により、「十字架につけよ」と叫ぶようになるのであります。普通の生活の人々は、極めて自己満足と他者排除に生きていたのであります。だから、この現実の中に救いがあるのに受け止めることができないのであります。あの十字架は私の中にある自己満足を滅ぼすものであり、この普通の生活の中に導きの「しるし」が置かれていることを知るのであります。

 マタイによる福音書に示されている占星術の学者さん達について示されています。彼らが「先立つお導き」に委ねて、ついに救い主とお会いすることができました。しかし、この記録の中に、間違いがあったことも聖書は記しているのです。星の導きは「先立つお導き」でした。彼らが都に入ったとき、その時は星の導きはなかったのです。星の導きに委ねていれば都に入ることはなかったのです。ところが彼らは星の導きではなく自分の思いを優先させたのでした。救い主であるから都に出現したのであろうとの思いです。それは自分の思いなのであり、先立つお導きではありませんでした。従って、彼らが都を出たとき、再び「先立つお導き」の星が現れたと記しています。先立つお導きに委ねて歩むこと、そこに祝福の人生があることを示しているのであります。私達の生活の中に先立つお導きが与えられているのです。

<祈祷>

聖なる神様。一年の導きを感謝いたします。神様の「先立つ導き」に委ねて歩ませてください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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