説教「救いの始まり」

2023年1月8日、六浦谷間の集会

降誕節第3主日

                      

説教・「救いの始まり」鈴木伸治牧師

聖書・ヨシュア記3章1-17節

   使徒言行録10章34-48節

   ルカによる福音書3章15-22節

賛美・(説教前)讃美歌21・278「暗き闇に星光り」

   (説教後)讃美歌21・475「あめなるよろこび」

 前週の1月6日は公現日、栄光祭でした。エピファニーと言われています。エピファニーとはギリシャ語で「出現」という意味です。その意味から、エピファニーは「示す」、「明らかにする」との意味もあり、この日によってイエス様の出現が明らかにされたということになるのです。この1月6日に占星術の学者たちがイエス様にお会いしたのです。そして、占星術の学者たちはお会いした救い主イエス様について、世の人々に告げたのでした。外国では、このエピファニーが盛大に祝われるところが多くあります。口語訳聖書は博士と訳されていましたが、新共同訳聖書は「占星術の学者」と訳すようになります。しかし、キリスト教の国では「賢者」と称する場合が多いようです。スペインではレイエスと称しています。レイエスとは「王様」の意味になります。単に学者とか賢者ではなく王様が救い主イエス様を知らせてくれたということになるのです。私たちは公現日としていますが、外国では顕現祭と称しています。その顕現祭をスペインでは「レイエスの日」としています。

その顕現祭をスペイン・バルセロナで体験しました。私どもの娘がスペイン・バルセロナにいますので、2014年の10月より約三ヶ月滞在しました。クリスマスを体験し、そして顕現祭、レイエスの日を体験することできました。レイエスの日、すなわち1月6日に三人のレイエス、王様が船に乗ってバルセロナに来るのです。三人の王様は大勢のお供を連れて広場にやってきます。広場にはレイエスが座る場所があり、そこに座して人々を見つめているのです。お供の人たちが押しかけた群衆にお菓子のプレゼントをふるまっています。この顕現祭には子供たちは、クリスマスのようにプレゼントがもらえるということでした。イエス様がお生まれになられたクリスマスは、もちろん大切であります。しかし、お祭り騒ぎをするのはレイエスの日であり、クリスマスはイエス様のご降誕としても信仰を持って受け止める日なのであります。

今朝は公現日を覚えつつ礼拝をささげています。イエス様の出現が世界の人々に知らされたという日として、この日の意義を示されたいのであります。イエス様の出現は、私達が神様のお心によって歩むことを導いているのです。従って、イエス様の出現が「救いの始まり」ということです。

 今朝は旧約聖書ヨシュア記に示される神様の導きを示されています。ヨシュア記は、モーセの後継者ヨシュアを指導者として奴隷であったエジプトから、神様の約束の土地パレスチナに向かうことが記されています。モーセの後の指導者として、若きヨシュアは不安を覚えながらも神様のお導きに委ねて歩んでいるのです。今朝はヨルダン川を渡る聖書の人々です。ヨルダン川を渡ることは約束の土地カナンに進入することになるのです。今、そのヨルダン川を前にして宿営しています。春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を超えんばかりの水嵩であったと言われます。従って、ヨシュアの悩みは、このヨルダン川をどのようにして渡るかということでした。しかし、ヨシュアは神様の導きを信じていたのであります。まだ、神様の導きが与えられていませんが、必ず導きがあることを信じています。

神様はヨシュアに言いました。「わたしがモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたは、契約の箱を担ぐ祭司たちに、ヨルダン川の水際に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれと命じなさい」と言われたのであります。神様を信じて腰を上げたヨシュアに対する祝福であります。箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、遥か遠くの方で壁のようになったというのです。川床は干上がりました。それにより聖書の人々はヨルダン川を渡って行ったのであります。まさに水からの救いでありました。

聖書において、水の救いは意味深く示されています。まず創世記においてエデンの園から流れ出る四つの川があります。それらの川により人間は命をはぐくむのであります。そして、創世記には悪を滅ぼすノアの洪水物語が示されています。エゼキエル書にも神の都から流れる命の水が示されているのです。詩編にも黙示録にも、命の川のほとりに植えられている木について示しています。水は悪を滅ぼし、命を与え、水の中を通ることにより救いが与えられることを示しているのであります。それが前例にも示されてくるのです。

 新約聖書はイエス様が成人した状況になっています。イエス様が洗礼を受け、そして人々に現れて、神様の救いの御心、福音を宣べ伝えて行くことが始まるのであります。

 まず、バプテスマのヨハネについて示しています。ヨハネはイエス様より先に生まれ、そして先に人々に現れました。神様の御心に生きるよう、人々に悔い改めを迫るのであります。厳しく神様の御心をもって諭すヨハネに対して、人々は彼がメシアではないかと思うのです。それに対して、ヨハネは救い主、メシアはこの後に現れることを示しています。今は水で洗礼を授けているが、後から来られるメシアは聖霊と火で洗礼を授けて下さるというのです。このように救い主の出現を予告するヨハネでありましたが、彼は悪を悪とはっきりと示しました。時の領主ヘロデがよからぬ生活をしているので、はっきりと悪であることを指摘しました。それで領主ヘロデは彼をとらえて牢に入れてしまうのです。

 ルカによる福音書ヨハネが捕らえられた後にイエス様が洗礼を受けたと記しています。そして、ヨハネから洗礼を受けたとは記していません。しかし、他の福音書から示されることは、イエス様はバプテスマのヨハネから洗礼を受けているのです。洗礼は罪の悔い改めであるのに、主イエス・キリストが洗礼を受けるということは、では主イエス・キリストも罪があったのか、との素朴な疑問がもたれます。他の福音書ですが、ヨハネはイエス様に言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」それに対して、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とイエス様は言われたのであります。つまり、主イエス・キリストがこの世に現れたのは人間として現れたということです。人間であれば、人々が持つ罪の方向は当然持ち合わせているということです。このことはその後のマタイによる福音書4章1節以下でも示されるとおりであります。悪魔との戦いは、人間として持つ欲望との戦いであったのです。この誘惑については後に示されます。人間として通らなければならない道を歩み、悪を退け、神様のお心に従うことであります。主イエス・キリストは常に神様に向かい、御心を仰ぎ、実践してゆく姿勢であります。イエス様が洗礼を受けると、天がイエス様に向かって開き、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえたのでありました。神様が「わたしの心に適う者」と言われたとき、主イエス・キリストは死に至るまで、神様に心を向けて歩まれたのであります。

 バプテスマのヨハネが授けた洗礼の意味は、神様の御心に生きる決心のしるしであります。それに対して主イエス・キリストの名による洗礼は、単に決心というのではなく、イエス様の十字架の贖いが、私の罪をぬぐい去ったことを信じるのです。イエス様の十字架の死と共に、私が持つ罪の姿、自己満足、他者排除を滅ぼされたのであります。私達は十字架を仰ぎ見て、救いの確信を与えられるのであります。イエス様が十字架により、私に福音が告げ知らされるのです。

 先ほどもスペインの「レイエスの日」についてお話ししました。レイエスは王様であり、本来はその王様がイエス様にお会いしたということで喜びの日なのであります。しかし、そのことはあまり前面に出てこないで、レイエスがプレゼントを贈ってくれることが中心になっているようです。プレゼントを与えてくれるレイエスは、日本ではサンタクロースです。イエス様のお生まれになったことの喜びよりも、サンタクロースの贈り物が中心になります。幼稚園の園長在任中、いつも考えさせられていたのですが、子供たちにプレゼントをあげすぎるということでした。クリスマスには礼拝をささげ、イエス様がお生まれになったページェントを全員で演じるのですが、その後はサンタクロースの登場となります。幼稚園からのプレゼント、父母の会からのプレゼントがあり、楽しいクリスマスになるのであります。私達の本当の喜びは、私たちが救われるということであります。救われるということは、日々十字架を見つめて、喜びの人生へと導かれることなのです。そのために救いの原点であります洗礼をうける者へと導かれたのです。

 洗礼を受けるということ、福音が告げ知らされる始まりです。自分の欲望に捕われない生き方へと導かれるからです。聖書には「古い人、新しい人」について示しがあります。古い人とは、聖書で言えば、自分の欲望のままに生きる人です。それに対して、「新しい人」というのは、自分ではなく、自分の思いを超えてイエス様の御心に生きようとすることなのです。私たちを「新しい人」へと導いて下さるイエス様は、まずご自身が洗礼を受けられ、救いの方向を示されたのです。イエス様の出現は「救いの始まり」と言うことなのです。

<祈祷>

聖なる神様。新しい命を下さり感謝します。この喜びを人々に証しさせてください。主イエス・キリストの御名によりおささげします。アーメン。

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