説教「命へのお導き」

2023年12月10日、三崎教会

「降誕前第3主日

                      

説教・「命へのお導き」、鈴木伸治牧師

聖書・列王記上22章10~17節

   ヨハネによる福音書5章31~40節

賛美・(説教前)讃美歌21・236「見張りの人よ」

   (説教後)賛美歌21・451「くすしきみ恵み」

降臨節第二週となり、二本のローソクにより明るくなりました。一段と明るくなったことを示しているのであります。四本のローソクが点灯しますとクリスマスを迎えることになります。四週間前から主イエス・キリストのクリスマスを待望する、心の備えが導かれているのであります。私たちが聖書をどのように読み、理解しているのかということになります。西洋の歴史においてキリスト教が大きな役割を果たしていますが、なかでも芸術に関しては今でも鮮明に残されています。以前パリの三大美術館、ルーブルオランジュリー、オルセー美術館を見学したことがあります。聖書物語を題材とした絵画の多さに驚くばかりです。ルーブル美術館ではキリストの十字架の絵画が数多く展示されておりました。パリの美術館ばかりではなく、各国の美術館、また教会にはたくさんの聖書に関する絵画、彫刻が展示されているのです。これらは作者の思い、聖書を受け止めた姿勢において描かれており、また制作されています。作品を鑑賞することにより、作者の聖書の受け止め方を示されるのです。聖地の旅行をしたとき、マリアさんを記念する教会がありました。そこには世界のいろいろな国からマリアさんの絵や像が送られ飾られていました。日本からも送られており、日本からのマリアさんは着物姿でもありました。アフリカの国からのマリアさんは黒いマリアさんでもありました。バルセロナのモンセラットの教会にかざられているマリアさんは黒いマリアさんでもあります。聖書のいろいろな人々に関しては、それぞれの受け止め方が異なり、それはそれで聖書からの示しなのですから、結構なことなのです。

聖書の言葉を何回も反芻しながら受け止めて行く姿、直観的に示される姿、いろいろな姿勢がありますが、聖書の言葉をどのように受け止めているのか、そのことを示されているのです。聖書に向き、御心を示されて歩みたいのであります。

 旧約聖書は列王記上22章10節以下を示されています。預言者ミカヤの預言活動について示されています。今、聖書の民・イスラエルの国はアラムの国と戦っています。同盟国のユダの王様がイスラエルの王様に、アラムを攻めるべきか神様の御心を尋ねなさい、と勧めるのです。そこで、イスラエルの王様は預言者400人を集めて、神は何を示しているかと問うたのであります。「わたしは行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか」と預言者たちに問います。すると預言者たちは「攻め上ってください。主は、王の手にこれをお渡しになります」と口を揃えて答えたのでありました。これは真実の預言ではありません。王様の満足を得るための預言でありました。同盟国のユダの王様は、預言者はこれだけかと聞きます。するとイスラエルの王様は、まだ一人いる、しかし、彼はわたしに幸運を預言することなく、災いばかりを預言するので、わたしは彼を憎んでいます、と答えたのであります。憎んでいる預言者ミカヤと言う預言者でした。そのとき、ユダの王様はイスラエルの王様をいさめ、ミカヤからも神の言葉を聞くように勧めるのです。イスラエルの王様は使いを出してミカヤを呼びに行かせます。その使いの者はミカヤに、「預言者たちは口をそろえて、王に幸運を告げています。どうかあなたも、彼らと同じように語り、幸運を告げてください」と言い含めるのです。ミカヤイスラエルの王様に、使いの者が言い含められたとおりのことを言います。「攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と言います。すると、イスラエルの王様は、いつも災いばかりを預言するのに、幸運をもたらすというミカヤの言葉が信用できず真実を迫るのです。するとミカヤは神様から示された通りの預言を語るのです。「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました。主は『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ』といわれました」と預言を示します。「羊飼いのいない羊」になるということは王様が敗れることを意味しているのです。王様はミカヤの預言を無視して戦いに出ます。しかし、ミカヤの預言通りに戦いで死んでしまうのです。イスラエルの王様は神様のお心ではなく、常に自分の思いによって生きようとしました。だから、ミカヤの預言はいつも自分には災いなので、聞く耳を持たなかったのでした。

 偽りの預言があります。それを喜んで受止めようとすることは、自分がそのように思っているからであります。神様の御心を聞くとき、私には不都合であることもあり、聞きたくないときもあるのです。真実を聞く姿勢、それは祈りつつ神様に求めることであります。「本当の喜びをいただくために」自分の思いを捨てなければならないのです。

ヨハネによる福音書は5章31節からですが、主イエス・キリストが、神様の証しにおいて人々の中にいることを示しています。このヨハネによる福音書5章は1節から9節において、主イエス・キリストがベトザタの池で一人の病人を癒したことが記されています。ベトザタの池の周りには病気の人等が大勢横たわっていました。池の水が動いたとき、池の中に入ると病気が癒されるとされていました。池の水が動くというのは、間欠泉であり、温泉のような池であったと思われます。源泉に触れると癒しの効果が働くのでしょう。そこに38年間病気の人がいました。イエス様はその人に「良くなりたいか」と聞くのです。良くなりたいのは当たり前であると思いますが、その後の会話により、イエス様が尋ねた意味が示されます。聞かれた人は、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、他の人が先に降りていくのです」と言うのでした。つまり、この人は誰かが自分を池の中に入れてくれないから、だからこの病気が直らないと思っているのです。人任せになっているということなのです。「良くなりたいか」と聞かれたイエス様の意味はここにあるのです。そして、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と促します。自分で、人の力を待つのではなく、自分で起き上がりなさい、と励まされたのでありました。この人は立ち上がりました。歩くようになったのです。

 その日は安息日であり、この日に床を片付けるということは労働行為でありました。安息日は一切の働きを休んで、神様の創造の恵みを感謝する日であります。従って、人々はイエス様を批判します。そこでイエス様と人々の間に論争が繰り広げられるのでありました。今朝の聖書はその流れの中にあるのであります。人々はイエス様の働き、教えを批判するようになり、イエス様の存在すら否定するようになります。それに対してイエス様はご自分の証をされているのがヨハネによる福音書5章31節以下の今朝の聖書であります。

 31節「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている」とイエス様は言われています。自分自身の証しでもなく、人の証しでもない、唯神様が真実を示しているのであり、その真実の証を信じなさい、と示しているのであります。神様は旧約聖書以来、預言者を通してメシア・救い主の出現について示してきました。そして、イエス様も言われるとおり、バプテスマのヨハネが真実の救い主であるイエス・キリストの証をしました。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解くしかくもない。」(ヨハネによる福音書1章26節)と真実を示したのでありました。

 そして、何よりも真実の示しはイエス・キリストの教えであり、力ある業に真実が示されていました。人々はその教えを耳にし、その業を示されては驚き、心に強く示されていたのであります。それでいながら真実を受止めない姿勢は、かたくなな姿勢のなにものでもありません。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところに来ようとしない」とイエス様は言われています。私たちの命のお導きをくださっているのです。

 イエス様の言われるとおりです。聖書はイエス様が御子としてこの世に現れ、神様の御心をお示しくださいました。しかし、人々はそれでも自己満足、他者排除の歩でありました。それでイエス様は御自分を犠牲としてささげ、十字架に架けられました。神様はイエス様の死と共に、私たち人間の自己満足、他者排除を滅ぼされたのです。イエス様が私の悪い姿を滅ぼされた、その事実を信じることなのです。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが聖書はわたしについて証しをするものだ」とイエス様が言われているとおりです。イエス様について何も研究する必要はないのです。ヨハネによる福音書がイエス様についての生まれも、どこの誰とも示さないのはそのためなのです。十字架によって私たちをお救い下さった、ただその事実を信じることなのです。

私たちの命、イエス様の御心をいただいて歩むことで、この命は永遠の命、天国への命へと導かれるのです。

<祈祷>

聖なる御神様。クリスマスの喜びを与えて下さり感謝致します。聖書の御言葉を示され、永遠の命へとお導きください。主の御名より、アーメン。

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