説教「イエス様の招きの言葉」

2020年5月24日、六浦谷間の集会
「復活節第7主日

 

説教、「イエス様の招きの言葉」 鈴木伸治牧師
聖書、列王記下2章1-15節

   ヨハネの黙示録5章6-14節
   ヨハネによる福音書7章32-39節
讃美、(説教前)讃美歌54年版・158「あめには御使」
   (説教後)讃美歌54年版・238「疲れたる者よ」

 


 今年のキリスト教の暦は、前週の5月21日がイエス・キリストの昇天日でありました。従って、今朝は主イエス・キリストの昇天の意義を示されます。イエス様の昇天は、私達が天国への道、天国を目指す人生へと導いておられるのです。今年の暦は4月12日にイエス様は復活され、その後40日間、復活を人々に証しされたのであります。そして5月21日に天に昇られたのでありました。ヨハネによる福音書はイエス様の昇天については記していませんので、使徒言行録1章8節以下の昇天についての証を示されましょう。「イエスは言われた。『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤサマリアの全土まで、また、地の果てに至るまで、私の証人となる。』こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。』」と天使が示したのであります。主イエス・キリストのご昇天は私達を天国へとお導きくださることなのです。
 今まで共に歩んでいたイエス様は十字架に架けられて死んでしまいます。しかし、ご復活されて、再びお弟子さんたちを導かれました。従って、今まではイエス様と共に歩んでいたのです。しかし、イエス様は昇天されました。現実にはおられないのです。あなたがたのために「助け主なる聖霊」を与えると約束されましたが、その「助け主」はまだ与えられていないのです。その「助け主」は5月31日のペンテコステ聖霊降臨祭に与えられるのです。今はイエス様がいない、聖霊も与えられていないという空白の10日間になります。お弟子さんたちは祈りつつ過ごしていたのですが、イエス様のご昇天を示されていますので、お弟子さんたちは寂しく過ごすうちにも、天国への希望を持っていたのです。
 この二ヶ月間、ブログでイスラエル旅行記を掲載しました。イスラエル旅行をしたのはもう25年も前のことです。その時も、ブログで公開したのですが、そのときは写真の掲載はなく、旅行記だけでした。当時はフィルム式のカメラで、いつもフイルムの残数を気にしながら写したものです。今のように際限なく写すという姿勢はなかったようです。それでもイエス様の足跡は写真に残したと思います。改めてイエス・キリストの三年間の歩みを示され、お弟子さんたちと共に過ごされた場所を示され、イエス様の招きの言葉を示される思いであります。福音書を読み、イエス様とお弟子さんたちの過ごされた状況を、あまり気にも留めずに読んでいましたが、実際に福音書の場所にたたずんだ時、困難な状況の中でみ言葉が示されていると思いました。その一つのことは、イエス様が復活され、お弟子さんたちは何をすることもないので漁に出ます。しかし、その夜は何も取れませんでした。朝方になって、岸辺に立つ人が、「船の右の方に網を打ちなさい」と言っているのです。するとたくさんの魚が取れたのでした。お弟子さんたちは、その人がイエス様であることを知り、岸辺に向かいます。するとイエス様は焚火をしており、魚を焼いているのです。そして、朝の食事としてお弟子さんたちに食べさせるのでした。イスラエル旅行で、その場に立ちました。そこは岸辺には違いありませんが。石がごろごろ強いるところであり、ゆっくり座って食事をするようなところではありませんでした。そのような困難な状況の中に、イエス様の導きがあることを示されたのでした。それから、イエス様がガリラヤ湖に面した丘で、五千人の人々を五つのパンで養ったということも、思いを新たにされています。イエス様は丘の上にいるわけです。丘の中腹で聞いている人たちは、振り返るような姿勢で聞くことになります。パンをいただくにしても、振り返りながらいただいていることになるのです。そのような状況説明を示されたのでした。
 イエス様の昇天は、お弟子さんたちにとって、改めてイエス様と過ごされた状況を示されつつ。ご昇天をを示されたと示されています。

 旧約聖書は列王記下2章1節以下8節であります。ここには預言者エリヤから弟子のエリシャに職務の継承が示されています。エリヤは預言者として活動しましたが、「わたしは万軍の神、主に熱情を傾けて仕えた」(列王記上19章10節)と言うほど、神さまのお心に忠実に生きた人でした。時の王様が偶像礼拝をするので、激しく反対し、罪を宣告したのであります。また、バアルという偶像を拝む預言者たちと対決し、この預言者たちに勝利したことも記されています(列王記上18章)。力強く活動したエリヤでありましたが、神さまのもとに召されるときが来ました。そのことを示すのが今朝の聖書であります。
 エリヤはお弟子さんのエリシャを連れてギルガル、ベテル、エリコと旅をします。その時、エリヤは「主はわたしをベテルにまでお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」とエリシャに言います。すると、エリシャは「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と言うのでした。それでエリヤはエリシャを連れてベテルに来ます。ベテルでは預言者の仲間達がエリシャに言います。「主が今日、あなたの主人をあなたから取り去ろうとなさっているのを知っていますか」とエリシャに問いかけるのです。すると、エリシャは「わたしも知っています。黙っていてください」と言うのでありました。つまり、エリヤが神さまのもとに召されることについては、預言者たちもエリシャも知っていたのでした。「黙っていてください」とエリシャは言います。騒がないでください、静かにその時を待っているのです、とエリシャは言っているのです。エリヤは、今度はエリコへ遣わされていると言い、ベテルのときと同じように、エリシャにここで待てと言いますが、エリシャは一緒に行くのです。エリコに来たときにも、エリコの預言者たちはベテルの預言者たちと同じことを言いました。エリシャはベテルで答えたと同じ内容でエリコの預言者たちに答えたのであります。そして、エリヤとエリシャはヨルダンへと向かいます。
 ヨルダン川を前にして、エリヤは外套で水を打つと、水が左右に別れ、彼らは乾いた川の中を渡って行ったのであります。渡り終わると、エリヤはエリシャに、「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい」と言いました。エリシャは、「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」とお願いいたします。その時、エリヤは「あなたはむずかしい願いをする。わたしがあなたのもとから取り去られるのを見れば、願いはかなえられる」と言うのでした。そして、その後、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、エリヤは嵐の中を天に上って行ったのでありました。エリシャが「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」と願いました。これは相続にあたり、長子が与えられる特権でありました。長子は、分け前が他の兄弟達より二倍が与えられたのであります。したがって、エリシャはエリヤの弟子として、他の預言者たちよりも多く、エリヤの力を譲り受けることは当然と思っていたのであります。エリヤのあとの働きは自分であるとの自負を持っていたということです。まさに、エリヤの霊がエリシャに継承され、力が発揮されていくのでありました。
 エリヤの昇天の証し人になったエリシャは、エリヤを離れず、どこまでも従う姿勢において、祝福の人生へと導かれて行くのです。旧約聖書では天国への思いはありませんが、やはり天国への希望を持ったということです。

 エリシャがエリヤの昇天を見ることによって、願いはかなえられました。同様に主イエス・キリストの昇天を見ることになったイエス様のお弟子さん達は、天国を信じて歩むようになるのです。今朝のヨハネによる福音書は主イエス・キリストの昇天については触れていませんが、イエス様の昇天により、人々に霊が与えられることを示しています。その霊をいただくことにより、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」のであります。そして、天国への希望を持ちながら歩むことになるのです、
 時の社会の指導者達は主イエス・キリストが次第に人々の希望になっていくことを知りました。何とかしなければなりません。社会を指導するのは自分達であり、あのイエスがいては、自分達の体制が崩れていくと思うのであります。7章32節、今朝の聖書の冒頭で、ファリサイ派の人々は、群衆がイエス様についてこのようにささやいているのを耳にしました。「このようにささやいている」というのは、前の段落、25節以下で、群衆の中にはイエス様を信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言っていたのであります。ということは、このイエス様こそメシアであると信じる人々が大勢いたということなのであります。それで祭司長達とファリサイ派の人々は、イエス様を捕らえるために下役達を遣わしました。そのときイエス様は、「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」と言われたのでありました。すなわちイエス様の昇天について触れているのであります。イエス様のご昇天は天国の実在を示していることになります。その天国を示すために、この後に霊が降るのであります。聖霊降臨であります。霊をいただいた人は、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」のであります。天国の歩みを、現実に歩むことになるのです。
 今朝の聖書は、イエス様は仮庵祭の中にいる状況です。仮庵祭は収穫の感謝祭であるが、出エジプト後は天幕生活で上をしのぎつつ、苦しい歩みの中から導かれて乳と密の国に導かれて住むようになったことを記念してお祝いするようになったのが仮庵祭であります。その祭りのクライマックス、終わりの時にイエス様は人々に示されたのでした。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と言われたのであります。この言葉を聞いて信じる人、しかし疑う人もおり、人々の弱腰の姿を聖書は示しているのであります。
 そのようなはっきり信じない人々の中で、イエス様は特にお弟子さんたちに昇天を証しされたのでした。イエス様は昇天され、再びお出でになって人々をお導きくださるという示しなのです。イエス様が天に昇られる、そして再びお出でになる、この導きをお弟子さんたちは示されたのであります。ヨハネによる福音書には記されませんが、イエス様がお弟子さんたちの前から、そのお姿が見えなくなったとき、お弟子さんたちはかつてイエス様と共に最後の晩餐をした部屋に集まっていたのです。そして、そのとき、聖霊が降ったのであります。それは次の聖霊降臨日で示されることでありますが、イエス様との出会いは、一人一人がイエス様から招きの言葉をいただいているということです。イエス様と同じようにも、永遠の住まいへと導かれるお招きの言葉をいただいているのです。

 教会に集められている人々は、イエス様のお招きの言葉をいただいているのです。イエス様の御心を示され、導きを与えられ、自分の人生をイエス様が担ってくださっていること、その基はイエス様の十字架の救いであることを示されているのです。時々ですが、今までの教会の記念誌を紐解いています。2009年に教会創立60周年記念誌を発行しました。教会に所属する皆さんから信仰の証しを掲載させていただいています。皆さんに愛唱聖句、愛唱讃美歌を記していただきました。ご自分の愛唱聖句を示していただいたとき、皆さんがイエス様の招きのお言葉をいただいていることをつくづくと示されたのでした。
 お一人の方のお証しが示されています。イエス様のお招きの言葉は、「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイによる福音書6章34節)との示しです。この言葉に導かれたのは、その方のお姉さんに導かれ、佐古純一郎先生と言うキリスト教の牧師であり、文学者でもあった方の伝道集会で示されたのが、そのイエス様のお招きの言葉であるということです。家庭や社会の中でのいろいろな問題があり、いろいろと苦しみつつ歩まれていたということですが、支えとなっていたのはイエス様のお招きの言葉であったと証しされています。そして、随分と長いことイエス様のお招きの言葉を聞き続けていたのですが、そのイエス様のお招きの言葉に応えられたのでした。その証しを60周年記念誌に記されているのです。
エス様は天に昇られました。だから、今は現実にいないのです。少なくとも聖霊降臨日までイエス様はおられないのです。しかし、イエス様は言われています。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろう。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのところに迎える。」(ヨハネによる福音書14章1-3節)と約束されているのです。イエス様のご昇天は、イエス様が私達を天国へと迎えてくださるためなのです。そのことを信じて生きるとき、イエス様の招きの言葉として示されてくるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。主の昇天を示され感謝致します。イエス様のお招きの言葉をしっかりといただきつつ歩ませてください。イエス様のみ名によりお祈り致します。アーメン。

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