説教「心が燃える」

2015年4月12日 横須賀上町教会
「復活節第2主日

説教・「心が燃える」、鈴木伸治牧師
聖書・列王記下7章1-7節
    ルカによる福音書24章28-35節
賛美・(説教前)讃美歌21・318「勝利の声を」
    (説教後)讃美歌21・431「喜ばしい声ひびかせ」


 前週の日曜日は主イエス・キリストの復活祭でありました。4月5日は2015年度の始まりであります。そしてこの年度が終わる2016年3月27日がイースターでありまして、この年度はイースターで始まり、イースターで終わるということです。この様な教会の暦は時々巡ってきます。受難週で始まり。受難週で終わる年度もありますから、教会の暦のめぐり合わせについては余り気にする必要はありません。しかし、折角巡ってきた祝福の年度を、希望をもって歩みたいのであります。ご復活の主が私達を力強くお導きくださるという希望をもって歩みたいのであります。実は私が前任の大塚平安教会を退任する2009年度は4月5日の受難週をもってはじまりました。そして年度が終わる2010年3月28日が受難週であり、受難週で始まり受難週で終わったということでした。その最後の日曜日、受難週礼拝をもって退任したのであります。それは何ほどの意味はないのですが、私が退任する年度でありましたので、やはり教会の皆さんも牧師の異動ということで、いろいろと心に示されて歩んだと思います。その最後の一年を歩む中で、何事につけ最後のイースターであり、最後のペンテコステと示されながら職務に当たっていました。その2009年度は大塚平安教会の60周年記念であり、30年間の牧会を振り返る時でした。それらをまとめて60周年記念誌に記しましたので、最後のまとめができたと思っています。
 その最後の礼拝説教は「時の到来」と題して御言葉を取り次ぎました。丁度その日に説教集「最初の朝餐」を発行したのでした。その時の説教の一部を引用しておきます。
 「説教集が発行され感謝しています。説教集の発行は鈴木伸治牧師に説教を生み出させた皆さんの証し集であるのです。その題を『最初の朝餐』としました。最後の晩餐において信仰を導く原点が示されました。最初の朝餐は、復活されたイエス様がお弟子さん達と最初に朝の食事されたのであります。お弟子さん達は、今後は自立して歩みだすのであります。今まではイエス様と一緒でした。しかし、もはやイエス様は目に見える存在ではなく、復活信仰の中で導かれる方なのであります。朝の食事を与えたイエス様は、お弟子さん達を新しい歩みへと導いておられるのであります。『時の到来』はイエス様の十字架の救いが完成されたことであります。そして、時の到来は、明日への新しい時へと導かれることなのであります。十字架のイエス様を仰ぎ見つつ新しい歩みへと導かれるのであります。」
 この様な説教を取り次がせていただきましたが、「最後の晩餐」は信仰の導きでありますが、「最初の朝餐」はイエス様が生活を導いておられということであります。イエス様が私達に「燃える心」を与え、力強く導いておられるのです。別の言葉で現すなら、聖霊の導きでありますが、今朝はご復活の主が私達に「燃える心」を与えて導いておられるということを特に示されたいのであります。

 私達は生活の中で胸騒ぎを経験します。あるいは周囲の状況で不安を感じることがあります。そういう意味では、地震や災害の不安をいつも持っている私達であります。あるいは世界的にも不安定な状況です。イスラム過激派と言われる人々の、無差別の破壊があります。平和な日本でありますが、なんとなく暗い影が漂っているような面もあります。旧約聖書は戦いの最中でありますが、戦うものは常に不安が付きまとっているのです。聖書はイスラエルの国が相手のアラム軍に対して手を出せないのであり、いつ滅ぼされるかという状況でありました。この列王記下では神の人と言われるエリシャが神様の御心を人々に示している時代です。ところがイスラエルの王様はこのエリシャを面白くないと思っています。王様の至らぬ姿をずけずけと言うからです。それで、王様は使者をエリシャにさし向かせて言わせるのです。「この不幸は主によって引き起こされた。もはや主に何を期待できるのか」というのでした。エリシャが言う神の言葉は信用できないと言わせているのです。それに対してエリシャは使者に言います。「明日の今頃、サマリアの城門で上等の小麦粉1セアが1シェケル、大麦2セアが1シェケルで売られる」というのです。当時の流通から考えて、要するに四分の一で売られるということです。100円の物が25円で売られる。それほど物が豊富になるということです。しかし、現実には人々は食べることにもこと欠いている状況です。強敵アラム軍に対して、城の中で困り果てているのです。だから、エリシャの言うことは信じられないし、そんなことはありえないと思うのです。王様からの使者は「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう」というのでした。神様が窓を造って、この国をご覧になっても、そんなことは起こらない。神様は助けることはできないと言っているのです。
 この神の人エリシャの言葉を信じなかったので、現実に神様が救いを与えられたとき、この王様からの使者は、人々に踏みつけられて死んでしまうのです。神様の救いの御業が与えられました。アラム軍の兵士は、神様が戦車の音や軍馬の音、大軍の音をアラム軍の陣営に響き渡らせたので、イスラエルの陣営が、周辺の国の軍隊と共に攻めてきたと思います。それでアラム軍の兵士は我先にと逃亡していったのでした。だからアラムの陣営は誰もいなくなったのです。人々から追い出されている重い皮膚病の人々が、空になったアラム軍の陣営に入り、飲食をしたり貴金属を盗んだりしていましたが、これはイスラエルの王様に報告しなければならないと思うのでした。報告を聞いた王様は、誰もいないアラム軍の陣営から、食料を始め必要な物を運び出したのでした。それにより、今にも死を選ばなければならない貧困の状況から救われたのでした。物がたくさんあるので安く売られるようになったということなのです。王様の使者は人々に踏みつけられて死んでしまいます。それは神様の御心を信じなかったからであると示されています。
 こうしてイスラエルは戦わずして勝利を収めたのでした。それも神様の導きであったのです。戦車の音や軍馬の音、大軍の音をアラム軍の陣営に響き渡らせたのは神様でした。戦いの中にある兵士はその様な音には敏感でした。不安の心が拡大されて、恐ろしい思いへと変えられていったのです。しかし、心を静めているならば、その音は風の音であったかもしれません。雷の音であったのかもしれません。神様が風を与え、地を揺り動かしたのであります。人間の心が騒ぐことになるのです。パニックという状況があります。置かれている状況が良く分らないままに、とにかく危ない状況であると判断して、人々の騒ぎになります。確かに危ないのでありますが、状況判断が必要であるのです。
 主イエス・キリストは時々「静まれ」と言われています。イエス様とお弟子さんたちが船に乗って向う岸に渡ろうとしています。すると激しい突風が吹いてきて、今にも沈みそうになるのです。その時、イエス様は艫の方で寝ていたと言われます。お弟子さんたちは恐ろしくなり、イエス様を起こし、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えるのでした。そこでイエス様は起き上がり、風を叱り、荒れ狂っている湖に、「黙れ、静まれ」と言われました。すると風はやみ、湖は凪になったと記しています。確かにイエス様は風や荒れ狂う湖に向かって「黙れ、静まれ」と言っていますが、むしろお弟子さんたちの心に向かって言われたのでした。静まってこの状況を見つめる、そこには神様のお導きがあると示されるのです。
 こうしてイエス様は静まる心を導いておられるのですが、今朝の新約聖書は「静まる心」ではなく、「燃える心」もお与えになるイエス様を示しているのです。

 前週は主イエス・キリストのご復活を与えられました。その復活されたイエス様のお導きが今朝の聖書であります。ルカによる福音書は24章においてイエス様のご復活を記しています。イエス様が十字架に架けられ、埋葬されたのは金曜日でした。翌日の土曜日は安息日なので、何もできない掟があります。それで三日目の日曜日の朝早く、マグダㇻのマリアさん、ヨハナさん、ヤコブの母マリアさんや他の婦人たちがイエス様のお墓参りに行きますと、イエス様のご遺体がないことを知り、お弟子さんたちに知らせました。お弟子さんたちは、この話はたわ言のように思えて信じなかったのであります。しかし、お弟子さんのペトロさんはお墓に行き、中を覗いたのであります。確かにイエス様のご遺体はありませんでした。ペトロはこの事実に驚きながら家に帰ったのでした。今朝は、「ちょうどこの日」でありますから、イエス様の復活された日曜日です。二人のお弟子さんが都エルサレムからエマオという村へ向かって歩いていました。すると途中でイエス様が近づいて来て、一緒に道ずれになったのであります。しかし、二人のお弟子さんはイエス様であることが分りません。道ずれの人は、どんな話をしていたのか聞くのです。それで二人のお弟子さんは、イエス様が時の指導者たちに捕えられ、十字架に架けられ、埋葬されたこと、婦人たちお墓に行ったとき、天使が現れて「イエスは生きている」と告げたこと、お弟子さんたちもお墓を見に行きましたが、ご遺体がなかったこと等を話したのでした。すると道ずれのイエス様は、聖書が預言していること等、聖書全体の救いをお話ししたのでした。それでも二人のお弟子さんは道ずれの人がイエス様であることが分りません。そして、とうとうエマオの村に着きました。二人のお弟子さんは、もう夕方なので一緒に泊まることを勧めるのです。そして、一緒に食事をしました。その時、イエス様はパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて二人のお弟子さんに渡されたのです。その時、二人の目が開け、道ずれの人がイエス様であると示されたのでした。しかし、その時は既にイエス様は見えなくなっていました。二人のお弟子さんは、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合ったというのです。それですぐにエルサレムに行き、お弟子さんたちに会いました。するとお弟子さんたちもご復活のイエス様にお会いしたということを話しあっていたというのです。二人のお弟子さんもイエス様とお会いし、心が燃えたことを報告したのでした。
 道連れになった人がイエス様であることが分らなかったことは、お弟子さんたちの思いが、イエス様が死んでしまったということです。その前提にありますから、イエス様であることが分らなかったのでした。しかし、道連れの人が聖書の話しをされたとき、彼らの心は燃えていたのです。聖書の救いを全体的に示されたからです。しかし、ただ聖書の話しを示されたことより、イエス様ご自身が共におられたのですから、心が騒ぐのです。そして、食事の時のパンを与えられたこと、お祈りの事で目が開かれたのでした。まさにこの方はイエス様ご自身であると示されたのでした。彼らは「心が燃えた」のです。ご復活のイエス様のお導きを自分の身体に示されたからでした。イエス様のお導きは「心が燃える」のです。

 「クオ・ヴァディス」という物語があります。「主よ、いずこへ」と言う意味です。紀元前64年の頃、ローマの皇帝はキリスト教を迫害していました。それで使徒ペトロは信者の皆さんから勧められてローマを脱出するのです。ローマはいろいろな街道を作っていますが、ペトロはアッピア街道を歩いてローマから逃れていったのでした。ところが、ペトロが歩いていると、向うから復活のイエス様が歩いてくるのです。ペトロは思わずひざまづいて、「主よ、どこへ行くのですか」、(Domine Quo Vadis)と言いました。するとイエス様は「あなたは、私の民を見捨てようとするのか。だからわたしはローマに行き、再び十字架につけられるのである」と言われたのでした。その時、ペトロはローマから脱出したのでしたが、心が燃えたのです。そして、逃れてきたアッピア街道を引き返しました。そして、ローマにおいて多くの信者を励まし、祝福を与えたのでした。そのペトロが捕えられ、十字架の刑に処せられるとき、イエス様と同じ姿で十字架につけられることに畏れを持ち、逆さに十字架につける様にと頼むのでした。ペトロは逆さに十字架につけられたということです。これは物語ですが、ペトロはイエス様によって「心が燃え」たのです。「燃える心」が信仰の道を歩み続けたのでした。
 私達も「心が燃える」のです。その様に言うと、何かウキウキした思いなのかと思いますが、何か自分ではわからない導きを感じるのです。どこかでお話ししていますが、一人の人の証しが忘れられません。昔、在任した教会の時代です。一人の女子青年が看護学校を卒業し、初めてお給料をいただきました。いただいた給料です。何よりも両親への御礼を封筒に入れます。二人の弟たちにもそれぞれお小遣いを封筒に入れます。そして、自分のために洋服代、演劇が好きなので観劇代等を袋に入れます。その時、「ハッ」と思うのです。献金をささげなければと示されるのでした。それで、もう一度袋に入れなおすのです。そしても最後に献金を袋に入れるのですが、いくらも残らないのです。何回か入れなおしますが、どうしても献金になると少なくなってしまうのです。それで、思い直して、まず最初に献金を袋に入れました。そして、両親、弟たち、自分のためにと袋に入れました。そして、すぐに教会に献金を送ってくれました。「心が変わらないうちに送ります」と記してありました。この青年が「ハッ」と思ったこと、それが「心が燃える」ことでありました。
 私達の生活の現実に起きましても、復活されたイエス様が共におられて導いてくださっているのです。そして「心を燃やして」くださるのです。私達が今朝も礼拝に出席していること、イエス様によって「心が燃やされて」導かれていることなのです。
<祈祷>
聖なる御神様。イエス様の十字架、そして復活を感謝いたします。「心が燃やされて」力強く歩ませてください。主イエス・キリストのみ名によりおささげいたします。アーメン。