説教「祈りの人生」

2022年7月31日、三崎教会

聖霊降臨節第9主日

                      

説教・「祈りの人生」、鈴木伸治牧師

聖書・サムエル記上17章41-47節

   マルコによる福音書9章20-29節

賛美・(説教前)讃美歌21・355「主をほめよ、わが心」

   (説教後)讃美歌21・497「この世のつとめ」

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 日々、暑い日が続いています。熱中症に気を付けましょうとの注意をいただいているのですが、各地では豪雨被害が続いています。豪雨により水害、がけ崩れ等があり、災害が無くなるよう願い、お祈りするのでした。ひところは連日、新聞をにぎわせていたロシアのウクライナ侵攻は、最近はあまり報道されなくなりました。それでもこの戦争を示されると暗い気持ちになり、平和への願い、お祈りが深まるのであります。明日からは8月になります。特に平和へのお祈りが深められる月でもあるのです。

 お祈りは私達の生活と共に示されています。私達の日々の生活が安泰であること、願い通りの歩みが出来ること、今経験していることが良く導かれること、これらの願いがありますから日々のお祈りが導かれてくるのです。お祈りは私達の生活と共にあり、お祈りによって私達の人生が導かれているのです。八木重吉という昔の詩人がうたった詩を紹介します。

 「あかんぼもよびな」という題です。「さて、あかんぼは なぜに あん あん あん あん なくんだろうか ほんとにうるせいよ あん あん あん あん あん あん あん あん うるさかないよ うるさかないよ よんでるんだよ かみさまをよんでいるんだよ みんなもよびな あんなにしつっこくよびな」と歌っています。この詩を詠んだ八木重吉は病を抱えていたのでした。もっと、もっと神様にお祈りしたいとの思いなのです。人は皆、いろいろな願いと共に歩んでいるのですが、この祈りをまことの神様に向けているのか、自分の都合の良い存在に向けているのか、真のお祈りを示されたいのであります。

紀元前8世紀に現れた預言者の中にイザヤという人がいます。この人の預言、神様の御心として示した言葉です。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」と示しています。預言者の時代、真の預言者たちは平和を叫び、平和を実現するために神様の御心を示したのであります。だから聖書の戦いを重く受けとめないで、それは偶像がはびこることを阻止したのであり、人々が真に生きるためであることであると思わなければならないのです。平和の実現のために導く神様として示されなければならないのであります。

今朝の旧約聖書も戦いの部分です。よく知られた少年ダビデと巨人ゴリアテとの戦いであります。紀元前1千年がダビデの時代です。聖書の国・イスラエルはペリシテの国と戦争中でした。双方がにらみ合っているとき、ペリシテは巨人であり強者のゴリアテイスラエルの戦士と一騎打ちすることを呼び掛けてきます。到底勝ち目のない戦いに誰も応える者がいないのです。そのとき、まだ少年でありますが、ダビデが名乗りを上げます。自分が巨人のゴリアテと戦うことを申し出ます。王様はダビデに鎧兜をつけさせるのですが、少年なのでだぶだぶで合わないのです。ダビデはこのような武具で固めるのではなく、自由な自然のままの姿で戦いをすることになりました。槍も剣も持ちません。持っているのは、羊飼いですから悪い獣を追い払う石投げ道具です。いわゆるパチンコというものです。

相手のゴリアテはそのようなダビデを軽く見ました。今にもひねりつぶすかに見えましたが、その前にダビデが放ったパチンコの石が、ゴリアテの眉間に命中していました。ゴリアテは倒れ、それと共にペリシテの軍隊は敗北したのでした。この時、ダビデゴリアテに「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される」と述べています。基本的には平和の実現を示しているのです。もはや剣や槍は必要ないこと、神様が平和を実現することを示しているのです。ここにはダビデが祈りつつゴリアテに立ち向かったことがしめされているのです。ダビデの武器は「祈り」であったのです。羊を守るためであり、戦いのためではありません。まさに平和のためにもつものでした。

 新約聖書旧約聖書預言者たちの平和の叫びを受け止めて証しているのです。そして、最初にも示されましたように、平和は主イエス・キリストにより実現したことを証しているのです。平和を祈りつつ実現へと導かれて行くのです。イエス様の十字架こそ平和の実現の基であるということです。そのイエス様が平和の実現を導いておられるのです。

 今朝の聖書はマルコによる福音書9章14節からですが、19節からにしています。だから19節に至る出来事を説明しておかなければなりません。この段落は「汚れた霊に取りつかれた子をいやす」との題で記されています。この前の段落ではイエス様が山に登り、姿が変わることが記されています。イエス様はペトロ、ヤコブヨハネの三人の弟子を連れて高い山に登りました。そこでイエス様が輝かしい姿に変貌したことが記されています。それについてはいずれ示されるので割愛しますが、その高い山から下りてきますと、他のお弟子さん達が大勢の人に囲まれて議論しているところでした。イエス様がおられないとき、一人の父親が病気の子どもを連れてきて、いやしてもらうためお願いしました。ところがお弟子さんたちはいやすことが出来なかったのです。そこでいろいろな議論が起こり、お弟子さんたちを大勢の人たちが取り囲んでいたのです。山から下りてきたイエス様は、病気の子供の父親から事情を聞くと、「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れてきなさい」と言われたのです。父親が子供を連れてきました。この子は地面に倒れ、転びまわって泡を吹いたと言われます。何かの病気なのかもしれません。イエス様はこの子供の汚れた霊に向かって、「この子から出て行け」というと、汚れた霊は大声を上げながら出て行ったと言われます。そして子供はいやされたのでした。

 その後、お弟子さんたちは「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょう」と尋ねています。この質問には、お弟子さん達自身の疑問があるのです。自分たちは治せると思ったのです。だから父親が病気の子供を連れてきたとき、いとも簡単に引き受け、治そうとしたのです。それが、治らなかったということで理解できないでいるのです。お弟子さんたちは、この類の病気を治しています。それはこのマルコによる福音書は6章7節以下で示しています。イエス様がお弟子さんたちを二人ずつ組にして、村や町に遣わされたのです。その際、イエス様はお弟子さん達に、汚れた霊に対する権能を授け、神の国の福音を伝道する力を与えたのです。実際、お弟子さんたちは悪霊を追い出し、人々を悔い改めに導いたのでした。このような経験を持っているので、汚れた霊に取りつかれている子どもに対しても、自分たちは治せるはずなのです。だから経験を思い出しながら試みましたができなかったのです。

 その彼らに、イエス様は嘆いておられます。「なんと信仰のない時代なのか」ということです。「なぜ、治せなかったのですか」とイエス様に尋ねていますが、すでにイエス様はお答えになっています。子どもを治す前に、治せなかった原因をはっきりと示しているのです。それは「信仰のない時代」であるということです。そして、わかりやすく言われたことは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」ということです。お弟子さんたちは信仰がありませんでした。そして、お祈りがありませんでした。自分たちの経験に頼ったのです。自分たちは治したことがあるという経験に基づいたのでした。経験は確かに偉大なことをしたに違いありません。しかし、そのときはイエス様の信仰に導かれていたのです。偉大な技は経験にすぎません。今必要なことは「信仰」なのです。主にある「お祈り」なのです。

 「苦しい時の神頼み」と言われますが、それでよいのです。私たちは現状において、困難の渦中にあり、また困難を示されています。祈らなければならないのです。過去に起きた同じような事例に対する経験ではなく、今こそ、全身を神様に向けてお祈りしなければならないのです。

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 祈りを重ねましょう。しかし、それは私達の答えを神様に求めるのではなく、神様の結果を受け止めることです。それがイエス様が示されている信仰なのです。イエス様がいよいよ十字架にお架りになる時、イエス様は神様に心からお祈りをささげています。私たちの祈りを導くお祈りであります。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られています。神様に委ねるお祈りをしなければならないのです。

<祈祷>

聖なる神様。祈ることのお恵みを感謝致します。御心に委ねて歩ませてください。イエス・キリストの御名によりおささげいたします。アーメン。

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