説教「祈りの祝福」

2018年7月15日、六浦谷間の集会 
聖霊降臨節第9主日

説教・「祈りの祝福」、鈴木伸治牧師  
聖書・サムエル記上17章41-47節
    コリントの信徒への手紙<二>6章1-10節
     マルコによる福音書9章14-29節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・313「この世のつとめ」
    (説教後)讃美歌54年版・524「イエス君、イエス君」
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 日々、暑い日が続いています。熱中症に気を付けましょうとの注意をいただいているのですが、西日本では豪雨被害が続いています。豪雨の災害で多くの人が亡くっており、災害の渦中におられます人々を覚えて日々お祈りをささげています。西日本では甚大な災害が発生しているのに、こちらの方面は猛暑続きで、災害がなく、平穏な日々を感謝しますが、災害の皆さんをお祈りしているのです。タイの国で少年たちが洞窟に閉じ込められ、救出活動が何日も続きましたが、ようやく全員無事に救出されました。救出に至るまで、特に家族の皆さんのお祈りを示されています。全世界の人々が注目していたようです。皆さんのお祈りが深められたことでしょう。苦しい時には、やはり神様にお祈りをささげること、人間の自然な姿でもあります。
 6月17日に宿河原教会の礼拝に招かれ、家族と共に礼拝に出席しました。同教会は4月から就任した牧者の先生が、まだ伝道師なので聖餐式の執行ができませんので、説教と聖餐式を担当させていただいたのでした。同教会には連れ合いのスミさんの高輪教会時代のお友達がおられ、久しぶりにお交わりができたのです。ところが思わぬ出会いがありました。同教会には矯風会の理事長さんも出席されておられ、礼拝後に声をかけてくださいました。以前、大塚平安教会の佐竹順子さんが矯風会の理事長でしたが、その頃から佐竹さんとお交わりが導かれていたようです。その理事長さんが、佐竹順子さんのお孫さんが交通事故に遭い、意識不明の状態にあったとき、私はお孫さんを覚えてお祈りをブログに公開したのですが、そのブログを理事長さんもお読みになっており、昔のお祈りを読まれたご感想を述べられるのでした。改めてブログで公開したお祈りを読み直したのでした。
「神様、今は意識不明のまま、その体が懸命に生きようとしている少年を助けてください。彼に回復に向かう力を与えてください。お医者さんの回復への術を増し加えてください。両親をはじめ彼を愛する人々に導きを与えてください。
神様、あなたの出番です。私達は日ごろ神様を忘れ、なにもかも自分の力で生きていると思っているのです。うまくできて人から褒められるとき、自分の力はたいしたもんだと自負しています。結構、苦しいことがありましたが、ちゃんと切り抜けています。みんな自分で自分の道を歩いていると思っているのです。しかし、神様、今こそあなたの出番です。あなたのお力が必要なのです。あなたの奇跡をも生み出す力が必要なのです。今になって思います。何もかも自分で切り抜けてきたと思っているこの私に、神様がどんなにか力を下さり、導きを与えてくださっていたのです。それなのに、私は私の功績であるかのように思っていたのです。何もかも私の人生はあなたのお計らいでありました。いつだってあなたの出番であったのに、私の出番としていたのです。出番と思っていただけで、何一つできなかったはずです。あなたが終始出番をされたからこそ、今の私があることを、いまさらながら知ることができます。もう、私の出番なんか考えません。あなたの出番です。あなたの御力を現してください。意識のないままに生きようとしている少年に、どうぞ力を注いでください。癒しの御手、支えの御手を差し伸べてください。
この悲しい、苦しい時にあなたに切なる願いを続けている両親と家族に御心を示してください。そして、現れるべき結果において、勇気を持って受け止めていく力を与えてください。慈しみをもって私達を導く主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン。」
以上のお祈りをささげたのですが、災害が重なる現状において祈りを深めて歩みたいと示されています。

 旧約聖書を開くと戦いが次々に出てきます。最初の人と言われるアブラハムにしても、各地で戦いをしています。イサク、ヤコブにしても民族が生き伸びるために戦いをしています。そして、エジプトでの奴隷から解放され、神様の約束の土地、乳と蜜の流れる土地に向かうときにも戦いを展開しながら進むのです。しかし、そのような戦いにしても聖書の人々は祈りつつ、戦いに臨んだことが示されるのです。そして、いよいよ約束の地に侵入したとき、神様は聖戦として、土地の人々を皆殺しにすることを命じるのです。それに対してモーセの後継者ヨシュアは、無益な殺生をせず、自分たちに害がなければ相手を滅ぼすことはしませんでした。それは神様の御心に反することでありました。ヨシュア記に続いて士師記が置かれています。その士師記では、ヨシュアによって滅ぼされなかった人々が立ち上がって聖書の人々を悩ますのです。それで、一時的に強者が登場し、現地の人々と戦うのです。聖書にある聖戦の原理です。皆殺しの原理は理解できません。しかし、そうしないと自分たちが危なくなるのです。現地の人々は偶像崇拝の人々です。ヨシュアのように、優しい温情によって、のちの人々が困難な状況になりますし、また人々が偶像崇拝のとりこになっていくのです。聖書は聖戦と言い、皆殺しを教えているのではありません。しかし、基本的にその姿勢で生きないと、自分もまた偶像崇拝者になりかねないし、相手の剣に倒れていくのです。神様に選ばれた民族、存在として、信じて生きる基本的な姿を後世に残していかなければならないのです。従って、聖書の初期の歴史においては聖戦であり、皆殺しでありますが、次第に平和の導きが与えられて行きます。
紀元前8世紀に現れた預言者の中にイザヤという人がいます。この人の預言、神様の御心として示した言葉です。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」と示しています。預言者の時代は、真の預言者たちは平和を叫び、平和を実現するために神様の御心を示したのであります。だから聖書の聖戦とか皆殺しを重く受けとめないで、それは偶像がはびこることを阻止したのであり、人々が真に生きるためであることであると思わなければならないのです。平和の実現のために導く神様として示されなければならないのであります。
今朝の旧約聖書も戦いの部分です。よく知られた少年ダビデと巨人ゴリアテとの戦いであります。紀元前1千年がダビデの時代です。聖書の国・イスラエルはペリシテの国と戦争中でした。双方がにらみ合っているとき、ペリシテは巨人であり強者のゴリアテイスラエルの戦士と一騎打ちすることを呼び掛けてきます。到底勝ち目のない戦いに誰も応える者がいないのです。そのとき、まだ少年でありますが、ダビデが名乗りを上げます。自分が巨人のゴリアテと戦うことを申し出ます。王様はダビデに鎧兜をつけさせるのですが、少年なのでだぶだぶで合わないのです。ダビデはこのような武具で固めるのではなく、自由な自然のままの姿で戦いをすることになりました。槍も剣も持ちません。持っているのは、羊飼いですから悪い獣を追い払う石投げ道具です。いわゆるパチンコというものです。
相手のゴリアテはそのようなダビデを軽く見ました。今にもひねりつぶすかに見えましたが、その前にダビデが放ったパチンコの石が、ゴリアテの眉間に命中していました。ゴリアテは倒れ、それと共にペリシテの軍隊は敗北したのでした。この時、ダビデゴリアテに「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される」と述べています。基本的には平和の実現を示しているのです。もはや剣や槍は必要ないこと、神様が平和を実現することを示しているのです。ここにはダビデが祈りつつゴリアテに立ち向かったことがしめされているのです。ダビデの武器は「祈り」であったのです。

 新約聖書旧約聖書預言者たちの平和の叫びを受け止めて証しているのです。そして、最初にも示されましたように、平和は主イエス・キリストにより実現したことを証しているのです。平和を祈りつつ実現へと導かれて行くのです。イエス様の十字架こそ平和の実現の基であるということです。そのイエス様が平和の実現を導いておられるのが新約聖書の今朝の聖書です。
 今朝の聖書はマルコによる福音書9章14節からですが、19節からにしています。だから19節に至る出来事を説明しておかなければなりません。この段落は「汚れた霊に取りつかれた子をいやす」との題で記されています。この前の段落ではイエス様が山に登り、姿が変わることが記されています。イエス様はペトロ、ヤコブヨハネの三人の弟子を連れて高い山に登りました。そこでイエス様が輝かしい姿に変貌したことが記されています。それについてはいずれ示されるので割愛しますが、その高い山から下りてきますと、他のお弟子さん達が大勢の人に囲まれて議論しているところでした。イエス様がおられないとき、一人の父親が病気の子どもを連れてきて、いやしてもらうためお願いしました。ところがお弟子さんたちはいやすことが出来なかったのです。そこでいろいろな議論が起こり、お弟子さんたちを大勢の人たちが取り囲んでいたのです。山から下りてきたイエス様は、病気の子供の父親から事情を聞くと、「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れてきなさい」と言われたのです。父親が子供を連れてきました。この子は地面に倒れ、転びまわって泡を吹いたと言われます。癲癇の病気なのかもしれません。イエス様はこの子供の汚れた霊に向かって、「この子から出て行け」というと、汚れた霊は大声を上げながら出て行ったと言われます。そして子供はいやされたのでした。
 その後、お弟子さんたちは「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょう」と尋ねています。この質問には、お弟子さん達自身の疑問があるのです。自分たちは治せると思ったのです。だから父親が病気の子供を連れてきたとき、いとも簡単に引き受け、治そうとしたのです。それが、治らなかったということで理解できないでいるのです。お弟子さんたちは、この類の病気を治しています。それはこのマルコによる福音書は6章7節以下で示しています。イエス様がお弟子さんたちを二人ずつ組にして、村や町に遣わされたのです。その際、イエス様はお弟子さん達に、汚れた霊に対する権能を授け、神の国の福音を伝道する力を与えたのです。実際、お弟子さんたちは悪霊を追い出し、人々を悔い改めに導いたのでした。このような経験を持っているので、汚れた霊に取りつかれている子どもに対しても、自分たちは治せるはずなのです。だから経験を思い出しながら試みましたができなかったのです。
 その彼らに、イエス様は嘆いておられます。「なんと信仰のない時代なのか」ということです。「なぜ、治せなかったのですか」とイエス様に尋ねていますが、すでにイエス様はお答えになっています。子どもを治す前に、治せなかった原因をはっきりと示しているのです。それは「信仰のない時代」であるということです。そして、わかりやすく言われたことは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」ということです。お弟子さんたちは信仰がありませんでした。そして、お祈りがありませんでした。自分たちの経験に頼ったのです。自分たちは治したことがあるという経験に基づいたのでした。経験は確かに偉大なことをしたに違いありません。しかし、そのときはイエス様の信仰に導かれていたのです。偉大な技は経験にすぎません。今必要なことは「信仰」なのです。主にある「お祈り」なのです。
 「苦しい時の神頼み」と言われますが、それでよいのです。私たちは現状において、困難の渦中にあり、また困難を示されています。祈らなければならないのです。過去に起きた同じような事例に対する経験ではなく、今こそ、全身を神様に向けてお祈りしなければならないのです。

 先ほどの交通事故に遭われた少年は、その後、意識が快復されました。その後のブログも記しています。
 「神様、そのとおりです。もう、私たちは自分の願いをかなえてもらおうとする祈りではなく、神様の御心を受けとめることができるように祈ります。今痛み、今悩み、今苦しんでいるとしても、それは明日の私への備えのときだと知るでしょう。今喜んでいる、それは私の祈りがかなえられたという喜びではなく、神様の御心の中にいる自分を知った喜びなのです。神様、そのとおりです。でも、私たちは、やはり現実を叫ばざるを得ません。何故、こんなことになったのかと思っています。そのことで人を恨み、私の悲哀を嘆いているのです。どうしても納得できないのです。そこにも神様の御心があるというなら、どうぞ、示してください。私は人から理解されないまま生きることになるでしょう。こういう人生を何度も歩んでまいりました。神様、そのとおりです。私は知っています、神様の御心がいつもあったことを。神様、そのとおりです。」
 祈りを重ねましょう。しかし、それは私達の答えを神様に求めるのではなく、神様の結果を受け止めることです。それがイエス様が示されている信仰なのです。イエス様がいよいよ十字架にお架りになる時、イエス様は神様に心からお祈りをささげています。私たちの祈りを導くお祈りであります。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られています。神様に委ねるお祈りをしなければならないのです。
<祈祷>
聖なる神様。祈ることを導いてくださり感謝致します。祈りつつ、すべてを神様に委ねることができるようにしてください。イエス様の御名によりおささげいたします。アーメン。