説教「永遠の命へと導かれる」

2014年6月1日、六浦谷間の集会
「復活節第7主日

説教・「永遠の命へと導かれる」 鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書45章1-7節
    エフェソの信徒への手紙1章15-23節
    ヨハネによる福音書17章1-13節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・158「あめには御使」、
   (説教後)讃美歌54年版・535「今日をも送りぬ」 


今朝は主イエス・キリストのご昇天を示されます。主イエス・キリストは十字架による救いの御業を完成され、天に昇られました。そして、私達を神様におとりなしくださっているのであります。私たちが「永遠の命へと導かれる」ためであります。
 イエス様が十字架にかけられ、死んで葬られ、三日目にご復活なさるのは、今年は4月20日でありました。復活されたイエス様は40日間、お弟子さん達をはじめ、多くの人々に復活の主をお示しになられたのであります。そして、今年の暦では40日後の5月29日にご昇天になられました。イエス様のご昇天についての聖書をルカによる福音書24章49節以下により示されましょう。「『わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。』イエスは、そこから彼らをベタニアのあたりまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」
 これはルカによる福音書の証言でありますが、同じ著者により書かれた使徒言行録の証も示されておきます。使徒言行録1章6節以下、「さて、使徒たちは集まって、『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた。イエスは言われた。『父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる。』こう話し終わると、イエスは彼らの見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」と記されています。
 イエス様は天に昇られるにあたり、この後に聖霊が降り、あなたがたに力が与えられることを示しておられるのであります。その力の聖霊が降るのはイエス様の昇天後すぐではありません。昇天から10日後になります。今年は6月8日がペンテコステ聖霊降臨日であります。従って昇天後の10日間は、まだ聖霊が降らず、ご復活のイエス様もおられません。空白の10日間なのであります。使徒言行録によれば、お弟子さん達はエルサレムの泊まっていた家の二階の部屋に上がり、心を合わせて祈っていたのであります。その中には婦人たちやイエス様の母であるマリアさん、そしてイエス様の兄弟達も祈りに加わっていたと報告しています。空白の10日間こそ祈りを合わせることであると聖書は示しているのであります。イエス様のご昇天により、お弟子さん達は天におられる主イエス・キリストを仰ぎ、祈りが導かれていたのであります。
 天を仰ぎ見るということは、もはや自分たちだけの救い、聖書の国、イスラエルの救いいにとどまらず、世界の救い主イエス様として仰ぐようになったということであります。人類の救いは天におられる救い主により与えられるのであります。
 主イエス・キリストのご昇天、そしてその後のペンテコステまでの期間、空白の10日間を示される時、無牧の教会を思わされます。大塚平安教会に1979年に赴任した時、教会は二ヶ月間無牧でした。私の前の牧師は6月に退任しました。私が赴任したのは9月でありました。二ヶ月間、毎週の講壇はいろいろな教会の牧師に依頼しました。私が赴任した時、教会の皆さんが口をそろえて言われたことは、先生が赴任してくださりほっとしました、ということでした。イエス様のお弟子さん達の空白の10日間と重なるのではないでしょうか。大塚平安教会を退任しましたが、その後の4月から9月までは横浜本牧教会の代務者に就任しました。その教会でも3月まで専任牧師がおられましたが、後任は10月からの赴任であり、それまでの間、代務者として、いわば留守番牧師として務めたのです。そして10月に選任の牧師を迎えたとき、教会の皆さんはほっとされたようです。牧師として代務者がいたとしてもなんとなく落ち着かない思いであります。空白の10日間と重なるのではないでしょうか。お弟子さん達の空白の10日間は、心を一つにしてお祈りすることでありました。これは空白というものではありません。信仰が深まる時なのであります。祈りが深まる時なのであります。この祈りは、私達を導く存在を与えてくださいということであります。メシアを与えてくださいと祈っているのであります。

 旧約聖書におきましてメシア待望が生まれるのは、聖書の国が真に小さな国であり、いつの時代も外国に脅かされていました。奴隷の国、エジプトから脱出してカナンに定着した時、周辺の外国により脅かされるようになります。そこで立てられたのが士師という人々であります。それは士師記に記される通りであります。ギデオン、サムソン等の物語は大変興味のあるものであります。士師記が終わりますとサムエル記になります。このサムエル記で王様が登場します。周辺の国々は王国であり、王様を中心にして勢力を誇っていました。それに対抗するためにも、聖書の人々も王国を求めるようになりました。最初の王様サウル、次にダビデ、ソロモンと続きます。ソロモンの後にお家騒動が起きて北イスラエルと南ユダの二つの国になりました。その後、人々は再びダビデのような王様が現れて、平和な国にしてもらいたいとの希望を持つようになるのであります。それが一つにはメシア待望のルーツにもなるのであります。
 今朝の聖書イザヤ書は大国バビロンに滅ぼされた南ユダの人々が、囚われの身となり、バビロンに生きている状況であります。そのような中でメシア待望、救い主の出現を待望していますが、それは人々にとって同じ民族から現れる存在でありました。しかし、神様は人々の思いもよらない救いの道を示されているのであります。イザヤ書45章1節以下、「主が油注がれた人キュロスについて、主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り、国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ、どの城門も閉ざされることはない」と示しています。「主が油注がれた人キュロス」はペルシャの王様であります。バビロンが衰退していくとき、ペルシャのキュロスがバビロンを滅ぼし、キュロスによって囚われの身、捕囚が解放されるのであります。まさにキュロスはメシアとなりました。メシアとは「油注がれた者」であります。人々の指導者になるとき、その人には油が注がれるのであります。油注がれた者は、神様のお心をいただきつつ、人々を導くのであります。従って、メシアは救いをもたらす者でありますから、メシアすなわち「救い主」ということになります。メシアをラテン語で言えばメサイアギリシャ語で言えばキリストであります。従って、イエス・キリストは名前と苗字ではありません。社会の人々はそのように受け取っています。救い主イエス様はまさに救いをくださるメシアであります。今、この旧約聖書は外国の王様を通して救いを与えておられるのであります。もはや人々が身近な救いにしか希望を持つのではなく、神様の大きな救いを示されているのであります。自分たちの民族の誰かがメシアになって、我々を救ってくれるという小さな望みから、神様は世界的規模で救いを与えてくださることを知るようになるのであります。
 「日の昇るところから日の沈むところまで、人々は知るようになる。わたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない。光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをする者である」(イザヤ書45章6-7節)。天におられる神様こそ、私達を救い、導き、平和を与えてくださるお方であることを人々は知るようになるのであります。

 主イエス・キリストは昇天されました。今は天におられて新しい救いの導きをお与えになるのであります。それが聖霊降臨日であります。今は空白の10日間でありますが、天におられる主イエス・キリストに心を向けるときなのであります。
 ヨハネによる福音書17章は主イエス・キリストのお祈りであります。14章から16章まで、イエス様はお弟子さん達に決別説教をいたしました。そしてその後は神様にお祈りをささげているのであります。十字架の道を歩み、死んで葬られ、三日目に復活されます。そして40日間、ご復活を証されますが、天に昇られるのです。いわば弟子たちを残していくにあたり、神様にお願いをしているのであります。「父よ、時が来ました」とお祈りを始めています。「時」とは十字架による救いの時であります。そして、その後の昇天をも示しているのです。イエス様は何をお祈りしているのでしょう。2節「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」とお祈りされています。イエス様の十字架の救いと昇天は、私達に永遠の命を与えるためなのであります。永遠の生命、それは私達が死んで彼方の国に迎えられることでありますが、イエス様は、この現実において永遠の生命に生きていることを示されているのであります。それは神の国を生きるということであります。イエス様の教えを示されて生きること、それが神の国を生きるということであります。神の国を生きているのでありますから、今の私の状況がどのようなものであれ、体に痛みを持っています、人間関係の問題があります、しかし私は神の国に生きているのですから、喜びへと導かれるのです。その喜びは永遠の命への道なのです。ヨハネによる福音書3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と示されています。ヨハネによる福音書は特に「永遠の命を得る」ことを繰り返し示しているのであります。
そして、お祈りで示される第二のことは、11節「わたしは、もはや世にいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」と祈られているのであります。前週はアブラハムのとりなしの祈りを示されましたが、主イエス・キリストが私達をおとりなしくださっているお祈りであります。「御名によって彼らを守ってください」とイエス様はこの私のためにお祈りくださっているのであります。神様のお名前によって、わたしが守られているということであります。神様が私の生活に介入し、お守りくださるのであります。
そして13節「今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ち溢れるようになるためであります」とお祈りされています。イエス様の昇天は、私達に永遠の命を与えるため、神様のお守りが与えられるため、イエス様の喜びが私達の内に満ち溢れるためなのであります。イエス様の喜びが私達の内に満ち溢れている、自ずと体の外に現れてくるのであります。イエス様の栄光が私達にも現れるということであります。イエス様を信じる人々からイエス様の栄光が光輝いているのであります。イエス様の十字架の救いを与えられた者は、そのまま神の国を生きる者であります。この世に生きている今、すでに永遠の命を与えられて生きているのでありますから、喜びの歩みへと導かれているのです。

 先週の5月27日に、大塚平安教会の教会員である小室きよみさんと古屋弘子さんが私どもの家においでくださいました。2008年12月以来、スリランカ人のシルバさん家族を支援する会を立ち上げ、今日まで支援を続けています。難民として日本に逃れてきていますが、入国管理局は難民として認めないのです。だから今は裁判に訴えて難民であることを証明したいのです。しかし、スリランカは、今は紛争がなくなり、一般的に見ても平和になったと理解されているのです。それは表面的な見方であり、シルバさんにとっては危険が付きまとっているというわけです。だから、平和になったと言われてもスリランカには帰れないし、子ども達も日本で成長しているので、このまま日本で暮らしたいとの希望があるのです。そのシルバさん家族を支援する会を立ち上げたとき、最初から委員として加わり、今日まで活動してくれているのが小室さん、古屋さん、そして連れ合いのスミさんなのです。27日は、今後の支援の取り組みを話し合いましょうということで集まりました。私達もそうですが、お二人とも久しぶりにお会いしての話し合いをとても喜んで下さいました。大塚平安教会在任当時は、少なくとも日曜日にはお会いして親しくお話しできていたのです。久しぶりにお会いしての話し合いは、心の平安が与えられるのです。
 イエス様が十字架にお架りになる前にお弟子さんたちに決別説教をし、その後、神様にお祈りしているのは、このことなのです。イエス様とお弟子さんたち、親しく過ごした3年間でした。それが、十字架によって新しい状況へと導かれていくのです。しばし、寂しさがあり、弱さを訴えなければなりません。しかし、再び主にある導きが与えられるのです。聖霊が降り、再びイエス様との交わりに入れられ導かれるのです。既に天に昇られているイエス様ですが、次の日曜日はペンテコステです。再びイエス様とのお交わりが与えられるのです。人間の再会の交わり以上に、大きな喜びが与えられるのです。
 今週はイエス様のご昇天が私達の「永遠の命への導き」であることを示されたのでした。
<祈祷>
聖なる御神様。いつも変らぬお導きを感謝いたします。イエス様のご昇天により、神様のご支配に委ねて歩ませてください。主の御名によりおささげいたします。アーメン。