説教「救いの確信」

2022年7月24日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第8主日

                       

説教・「救いの確信」、鈴木伸治牧師

聖書・列王記上10章1-9節

   テモテへの手紙<一>3章14-16節

   マルコによる福音書8章22-26節

賛美・(説教前)讃美歌21・355「主をほめよ、わが心」

   (説教後)讃美歌21・448「お招きに応えました」

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 宗教と言うものは、根本は「救いを与えられる」ことであります。その宗教によって、人生の生きる意味を示され、救われたという思いが深まることであります。宗教によって家内安全、商売繁盛、大願成就が成し遂げられるというのでは、宗教ではありません。自分が本当に一人の存在として生きていることを示されることがまことの宗教なのです。仏教で、あるいは神道でそのような体験が得られるなら、良い宗教との出会いが与えられているのです。私達はキリスト教ですので、イエス・キリストの十字架による救いを信じておりますので、まことの宗教の世界にいるのです。しかし、キリスト教の信者でも、時には他の宗教に行ってしまう人がいます。多くの場合、今までのキリスト教の信仰の持ち方に物足りなさを感じて、熱心な信仰に赴くのです。同じキリスト教でも手をたたいて讃美歌を歌ったり、お祈りしている人と一緒に唱和したりするのです。そのように自分を鼓舞するような信仰もあるのです。それで救われたと信じている人もいるのですが、自分の所作によって救いの確信が与えられるようです。

キリスト教の救いは主イエス・キリストの十字架の救いです。ただ十字架を仰ぎ見つつ、救いを信じつつ歩むことなのです。どのような状況であろうとも、十字架の救いを信じて歩むことなのです。数年前に、九州の天草方面の「隠れキリシタン」の人々の遺産が世界遺産に指定されました。今は「潜伏キリシタン」と称していますが、日本の戦国時代から江戸時代にかけて、キリスト教の人々は迫害されました。迫害を逃れ、表面的には仏教信者を装いながら、イエス様の十字架の救いを隠れつつ信じたのです。その遺跡が諸所に残されており、世界遺産に指定されたこと、大きな証であります。隠れながらも十字架の救いを信じて歩んできたのです。自分に言い聞かせるような信仰の持ち方ではなく、しっかりと十字架の救いをいただくことがまことの宗教であります。イエス様が私たちの救い主であること、「はっきりと救いを示され」ているのですから、信仰を持ちつつ歩みたいのであります。

 主イエス・キリストの教えをいただき、相互の交わり、喜びと真心を持って一緒に食事をすること、神様を讃美すること、ここに救いの確信があります。旧約聖書における救いの確信を示されます。旧約聖書は列王記上10章であります。外国のシェバの女王がソロモン王の知恵を求めてやってくることが記されています。ソロモン王はダビデ王の後継者として王様になりました。ダビデ王は神様の御心に従い、名君と言われて人々に喜ばれた王様です。ソロモンが王様になったとき、神様は「何事でも願うが良い。あなたに与えよう」と言われました。その時、ソロモンは「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」とお願い致しました。すると神様は「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命を求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える」と言われたのであります。以後、ソロモンは神様の知恵をいただき、人々の王として支配したのであります(列王記上3章)。

こうしてソロモンの神様からいただく知恵は国の内外に知られ、シェバの女王の来訪になりました。女王は難問をもってソロモンを試そうとやってきました。しかし、ソロモン王はすべてに解答を与えました。王には分からないこと、答えられないことは何一つなかったのであります。女王はソロモン王の支配、事績のすべてに驚嘆し、心から賛辞を送っています。「いつもあなたの前に立ってあなたの知恵に接している家臣たちはなんと幸せなことでしょう。主はとこしえにイスラエルを愛し、あなたを王とし、公正と正義を行わせられるからです」と言いつつ自分の国に帰って行ったのであります。ソロモン王の裁きは神殿において行われました。その神殿で公正と正義が示され、人々は神殿を人生の土台としたのであります。教会において正しい神様のお心をいただくことを示しているのです。

旧約聖書は神様の知恵こそ、人々を真に生きさせ、幸せにする基であることを示しています。神様の知恵、すなわち神様の御心であります。その神様の御心が神殿において示されたのであります。人々は常に神殿に詣でては御心をいただき救いの確信を与えられたのであります。

 今朝の新約聖書は主イエス・キリストが一人の盲人を癒されたことが記されています。「一行はベトサイダに着いた」と冒頭に記されます。これは前の部分で示されましたように、4千人に食べ物を与えた後、イエス様はお弟子さん達と共に向こう岸に船で渡られました。向こう岸であるベトサイダにつきました。するとすぐに人々が一人の盲人をイエス様のところに連れてきました。マルコによる福音書8章22節から26節までが今朝の聖書であり、ここではイエス様の盲人の癒しが示されているのであります。主イエス・キリストは神様の知恵、神様の御心を人々に示しました。前の部分で、4千人の人々は三日もイエス様のお話を聞き続けたのであります。イエス様ご自身がそれらの群衆を労り、食べ物を与えることをお弟子さん達に提案されました。御心を与える、生活の糧を与える、そのイエス様の呼びかけに多くの人々がイエス様に招かれたのであります。その後、一人の盲人の癒しが求められました。その時、イエス様はどのように癒したのか。他の聖書の場所では、すぐに癒したことがいくつか示されていますが、ここではすぐにではなく、段階的な癒しがありました。イエス様は盲人の手を取って、村の外へ連れ出しました。そして、その目に唾をつけ、両手をその人の上において、「何か見えるか」と尋ねました。「人が見えます。木のようです。歩いているのが分かります」と答えました。おぼろげながら見えるようになったのです。すると、イエス様は、もう一度両手をその人の目に当てられました。はっきりと見えるようになったのであります。イエス様は、「この村に入ってはいけない」と言われ、自分の家に帰されたと記しています。村に入ることにより、村の人が大騒ぎするからです。イエス様は、この人が救いの確信を受けとめるようにされたのです。

 もう一度、癒しの奇跡の順序を示されます。何よりもイエス様により知恵、神様の御心が人々に与えられたということです。人々はイエス様に希望を持つようになりました。そして、具体的に自分が変えられるためにイエス様のもとに来たのであります。イエス様はその人の信仰を励ましながら、次第に真実が見えるように導かれたのであります。しかし、初めのイエス様との出会いは、おぼろげながら見えるようになったということでした。なんだか良く分からないけれども、おぼろげながら、かすかに見えるようになったのです。そして、さらにイエス様の導きがあり、はっきりと見えるようになるのであります。今朝の聖書はそのように示しております。一人の盲人が御心により生きるためにイエス様のもとに参りました。最初はおぼろげながら御心を示されていたのでありますが、はっきりと神の国の現実を見ることができるようになったのであります。イエス様の十字架の救いであり、「救いの確信」であります。

 知人の証しです。1996年の頃はアメリカのヒューストンにおられました。会社の友達が家庭のトラブルがあり、彼も何とかしたいと働きかけていたのですが、良い方向にはならなかったと言われます。そんな時、ある家族が日本に帰国することになり、送別会を開きましたが、帰国される方の夫人が、トラブルの中にある友人のためにお祈りをささげられたのでした。このお祈りを聞いたとき、深い感動に包まれたと言われます。人間的な解決は必要でありますが、まず神様に委ねるということを深く教えられたと言われるのです。それから、この方の心をとらえたことがありました。それは2000年11月頃ですが、そのときは日本に帰国していました。会社の友人のお父さんが亡くなり、その前夜式が阿佐ヶ谷教会で行われたので列席されます。友人の母親が最後の挨拶をされました。結局、父親は教会には出席しなかったのですが、亡くなる前に、自分の葬儀は教会でしてもらいたいと言われたということでした。その友人のお母さんのご挨拶を感銘深く伺ったのですが、そのお母さんのご挨拶は、「あなたはここで何をしているのか。まだわからないのですか」との言葉として、神様の言葉として聞こえてきたと言われるのです。そうだ、今こそ神様の御心に従って生きよう、そういう決心が与えられたのでした。すべての導きを信じて洗礼を受けました。救いの確信を与えられたと言われます。

私たちはイエス様の十字架を与えられ、「はっきりと救いを示され」ています。そのイエス様の十字架に導かれて歩みたいのであります。

<祈祷>

聖なる神様。救いを与えてくださり感謝致します。この救いを人々に示すことができますよう。主イエス様のみ名によりお祈りします。アーメン。

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