説教「存在が導かれる」

2018年6月10日、六浦谷間の集会 
聖霊降臨節第4主日

説教・「存在が導かれる」、鈴木伸治牧師  
聖書・サムエル記上16章14-23節
    使徒言行録16章16-24節
     マルコによる福音書5章1-10節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・168「イエスの君の御名に」    
    (説教後)讃美歌54年版・500「みたまなる」

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 私たちは世界の平和をお祈りしていますが、あちらこちらが戦争状態であり、平和は彼方のものと思わざるを得ません。平和はお互いの信頼関係なのですが、どうしても相手を信頼することができず、戦争になってしまうのです。今は、アメリカのトランプ大統領北朝鮮金正恩朝鮮労働党委員長の会談が注目されていますが、12日に行われるということですが、世界中の人々の関心になっています。北朝鮮が核を放棄すること、戦争兵器を放棄することが条件で話し合われることになっていますが、日本におきましては拉致問題が大きな課題です。拉致されたままでいる人々を解放するよう働きかけてもらいたいのです。中心になって活動している一人、横田めぐみさんの両親も、あらゆる場で人々に訴えています。横田さんはキリスト者であり、祈の和が広がっています。バルセロナ日本語で聖書を読む会も、毎月、一日の日にはヨーロッパのキリスト者と共に祈祷をささげているのでした。世界の至るところで繰り広げられている戦争が、一日も早く終結することをお祈りしていきます。
 「平和の実現」は人々の願いです。そのために立ち上がり、武力をもって平和を実現しようとしているのです。それに対して「平安の実現」と言う言葉はないようです。私たちが「平安」と言った場合、この平安は人間が実現するものではなく、神様が与えてくださることであると思うのです。平安のために武器を持つのではなく、平安は神様が与えてくださる安らぎなのです。このことは私の理解ですが、「平和」は人間の力も加わって実現することでありますが、「平安」は人間が作り出すものではなく、神様が与えてくださる安らぎであるのです。
 その点、新共同訳聖書になって、口語訳聖書で訳されていた「平安」は「平和」として訳されていることは、なんとなく不自然な思いを持っています。旧約聖書はシャロームであり、「平和」と訳されたり、「平安」と訳されています。たとえば、エレミヤ書6章14節は、口語訳聖書は「彼らは、手軽にわたしの民の傷をいやし、平安がないのに『平安、平安』と言っている」と訳されていました。ところが新共同訳聖書は「平和がないのに、『平和、平和』と言う」と訳しているのです。その他の聖書も「平安」は「平和」として訳されているのです。新約聖書ギリシャ語ですが、シャロームと同じ言葉は「エイレーネー」です。この言葉も口語訳聖書は「平安」でしたが、新共同訳聖書は「平和」と訳していることが多いのです。ローマの信徒への手紙1章7節は、口語訳聖書は「わたしたちの父なる神および主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように」と訳されていました。しかし、新共同訳聖書は「恵みと平和」と訳しています。もう一つ引用しておきますと、ヨハネによる福音書14章27節の口語訳聖書は「わたしは平安をあなたがたに残していく。私の平安をあなたがたに与える」でしたが、新共同訳聖書は「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と訳しているのです。「平安」も「平和」も同じではないかと言われますが、異なると思っています。「平安」は神様が与えてくださるのです。言葉の理解でありますが、今朝は「平安」は神様が与えてくださる安らぎであるということで御言葉を示されたいのであります。

 「平安」を与えてくださるのは神様です。今朝は旧約聖書のサムエル記上16章14節以下に記されるダビデの働きについてであります。聖書の歴史において、このサムエル記において初めて王様が選任されたことが記されています。エジプトで奴隷であった聖書の人々は、その後40年間、荒野を旅して神様の約束の土地へとやってまいります。そこに定着していくのです。そのあたりはヨシュア記や士師記に記されています。その頃は12部族がそれぞれの土地で周辺の国々と戦いながら暮らしています。しかし、周辺の国々は王国であり、部族に過ぎない聖書の人々は、ここで一つになって王国になることでした。そして王国となり、最初に選ばれたのがサウル王でした。サウルは当初は神様の御心をもって国を支配しますが、次第に自らの腹で君臨するようになり、神様のお心から離れていくのです。そのため、神様はサウルを見離し、次なる王様を選任するのです。それについては今朝の聖書の前の部分、16章1節以下に記されています。当時、祭司であったサムエルは神様の命により、エッサイの家に行きます。エッサイの子どもの一人が次なる王様であると示されるのです。サムエルはエッサイの子供たち、7人の目通りをします。結局、7人とも次なる王様ではないことを示されるのです。ところがエッサイには更に8番目の子がいることを知ります。その子がダビデでありました。サムエルはダビデに王様になる儀式、油注ぎをダビデにするのでした。しかし、次なる王様が与えられても、サウル王は生きているのです。まだ当分はサウルが王様として支配しているのです。
 そのダビデがサウル王の家来になることを記しているのが今朝の聖書であります。「主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった」と冒頭に記されています。ここでは神様の良い霊、悪い霊が示されていますが、これは人間の思いが神様の霊を悪霊にしてしまうということです。神様の導きの霊が、人間の自分勝手な思いを押しとどめるのです。だから悪霊と思うわけです。本来は導きの霊であるのです。その様にサウルは自分勝手にふるまうようになるので、神様の導きの霊が妨げになっていました。そのため、神様から来る悪霊と思っていました。それに対して、家来が音楽療法を勧めるのです。悪霊が来たら竪琴を上手に奏でる者が、王様の側で竪琴を奏でるということです。この提案はサウル王の意にかない、竪琴を上手に奏でる者を探させるのです。それについては家来がダビデを知っており、王様に紹介します。「わたしが会ったベツレヘムの人エッサイの息子は竪琴を巧みに奏でるうえに、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見も良く、まさに主が共におられる人です」と紹介しています。それでサウル王はダビデを呼び、自分の側に仕えさせることにします。悪霊で悩むようになると、ダビデが竪琴を奏でます。サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れたと記されています。この音楽療法が功を奏しているのですが、自分の思いのままにならないとき、心がイライラするのですが、ダビデの竪琴が心を休ませるのであります。まさに神様から与えられる「平安」でありました。従って、「平安」を与えられるということは、自分の思いを捨て去ることであります。自分の思いを成し遂げようとしますが、それがうまく行かなくて、イライラとするのです。まさに神様にストップをかけられているのです。ダビデの竪琴が神様のみ心へと導いているのです。それにより「平安」を喜び、かみしめるようになるのです。
 ダビデは、こうして油注がれ、次なる王様に導かれているにしても、サウルに仕えて、サウルのために働くのであります。しかし、この後の聖書は、ダビデが優れているがゆえに、サウルはダビデを憎むようになります。ダビデはサウルから逃れて逃亡生活をするのですが、サウルは外国との戦いの中で戦死して行くのです。そして、その後、ダビデが王様になるのです。旧約聖書は今朝の聖書により、ダビデが人々に「平安」を与えるものであることを示しているのです。神様の「平安」をいただきなさいと示しています。

 神様がくださる「平安」は人々が共に安らぎを与えられて生きることです。ダビデは王様として人々に「平安」を与えました。新約聖書になりまして、主イエス・キリストが人々に「平安」を与えてくださったのであります。新約聖書はマルコによる福音書5章1節以下の示しとなっています。「悪霊に取りつかれた人をいやす」イエス様が記されています。旧約聖書も「悪霊」として記されていましたが、ここでも「悪霊」です。古代では心の病、体の病にしても、身体的に不都合になると「悪霊」に取りつかれていると思うのです。これは日本の国でも考えられていたことです。病気が続けば祈祷師にお祈りしてもらい、体内の悪霊を追い出すことが行われていました。医学的なこと、精神的なことについては考えも及ばなかったのです。そういう中で、先ほどのサウルの場合、ダビデの竪琴によって神様の平安を与えられたのでした。それは理論ではありません。竪琴で奏でられることに心が触れるのです。神様の平安に導かれるということです。
 今朝のマルコによる福音書も悪霊に苦しむ人を紹介しています。「汚れた霊に取りつかれた」人であると言われています。さまざまな思いが体内で交錯していたのでしょう。身内の人や近所の人々は彼を取り押さえ、鎖でつないでいたと言われます。それでも鎖を引きちぎり、山や墓場に行って叫び続けていたということです。山や墓場は誰にも干渉されず、思いっきり叫ぶことが出来るからでしょう。その彼がイエス様を見つけ、走り寄って行ったと言われます。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と叫ぶのです。むしろこの叫びは、汚れた霊に取りつかれている人と言うより、汚れた霊そのものが言っていることです。神様の御心に対して、反する存在が苦しむのです。旧約聖書のサウルで示された通りです。だから、イエス様はこの汚れた霊に向かって命令しています。「汚れた霊、この人から出て行け」と命じるのです。すると汚れた霊は、この人から出て行きますが、ここにいる豚の中に入らせてくれと願います。イエス様が許しますと、汚れた霊は豚に入り、豚は驚いて湖の中に飛び込んで死んでしまうのです。2000匹の豚であったと言われます。汚れた霊に取りつかれていた人は、豚が犠牲になったことで救われました。しかし、豚を飼う人々は穏やかではありません。これ以上豚が犠牲になったら困るのです。だからイエス様にこの地方から出て行ってもらいたいというのでした。豚を飼う人々の言う通りです。しかし、イエス様は一人の存在を大切にしているのです。一人の人が神様の平安をいただくために豚を犠牲にしているのです。神様の平安は人間の思いでは与えられないということです。
 この地球上の人々はいよいよ住みよい環境を造りだしています。しかし、そのためには人間を犠牲にしながら人々の喜びを得ているのです。日本でもオリンピックが開催されることになり、そのために競技場や道路整備、飛行場の整備等、大変な事業を行っています。すべてが便利になるのですが、しかし、そのためには人間が犠牲になっているのです。文化の発展、繁栄の陰には人間の犠牲があるのです。ですから人間の造りあげた文化、繁栄においては平安ということはありません。一人の存在を大切にしているイエス様がここに示されているのです。
 この汚れた霊に取りつかれた人が救われる聖書のお話に関しては思い出があります。幼稚園の先生が結婚することになり、主賓として祝辞を述べました。その前に新郎の主賓の祝辞があり、長々とお話しされたのです。その頃、私は40歳そこそこの若さであり、私は相手の向こうを張って祝辞を述べたのでした。わが幼稚園の先生は一人一人を大切にする姿勢があるということ、その姿勢はイエス様から示されているということ、この根拠はイエス様が2000匹の豚を犠牲にして一人の人を救われたということ、それらのことを長々とお話ししてしまったのでした。後に幼稚園の教師が結婚すると、豚のお話はしないで下さいと言われたものです。イエス様は大きなものを犠牲にしてまで一人の人に平安を与えてくださるのです。そして、イエス様はご自身を犠牲にして、私たちに「平安」を与えてくださったのです。いよいよ「平安」をいただきつつ歩みたいのであります。

 前任の教会は大塚平安教会でした。日本基督教団は全国で1700の教会がありますが、「平安」との名をつけている教会は8教会あります。世田谷平安教会、玉川平安教会、京都の平安教会、近江平安教会、神戸平安教会、呉平安教会、天草平安教会、そして大塚平安教会です。それに対して「平和」の名をつけている教会は茅ヶ崎平和教会、長崎平和記念教会の2教会です。口語訳聖書、文語訳聖書は「平安」と訳していたので、その「平安」をいただいている教会が多いということです。
 平和のイメージは人間が造りだす思いが強いと申していますが、その「平和」はイエス様が与えてくださることは聖書の示しでもあります。口語訳聖書エペソ人への手紙2章14節の以下の言葉を引用しておきましょう。「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし…」と記されていますが、ここでは「平安」ではなく「平和」であります。「平和」の根源は主イエス・キリストが作りだしてくださることを示しているのです。同じエペソ人への手紙1章2節では、口語訳聖書では「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように」と記されています。それに対して新共同訳は、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」としているのです。ここは「平和」ではなく「平安」であるべきです。神様の「平安」があるようにお祈りしているのです。
 大塚平安教会時代、礼拝が終わり、最後の頌栄を歌い、祝祷の後に相互挨拶を行っていました。礼拝が終わったとき、皆さんはなんとなく挨拶していました。しかし、夫婦や家族が並んで出席していますが挨拶はありません。やはり共に礼拝をささげ、導きを与えられたのです。お互いに祝福をお祈りするべきです。そのため、礼拝後は「あなたに平安がありますように」と挨拶をかわすようになったのです。特にご夫婦はこの挨拶を喜ぶようになりました。互いに、何時も「平安」を祈りつつ歩む者へと導かれているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。イエス様により救いの導きをくださり、平安を与えてくださり感謝致します。いよいよ平安を求めて歩ませてください。イエス様のみ名により祈ります。アーメン。