説教「良いお知らせを与えられる」

2018年6月17日、宿河原教会 
聖霊降臨節第5主日

説教・「良いお知らせを与えられる」、鈴木伸治牧師  
聖書・アモス書7章10-16節
    マルコによる福音書6章1-13節
賛美・(説教後)讃美歌21・459「飼い主わが主よ」

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 この度、御教会のお招きをいただきまして、共に御言葉に向かうお恵みを感謝しています。また、皆様と共に主の聖餐式に与ること、喜ばしく思っています。前任の石川幸司先生とは神学校時代から親しくさせていただいていましたので、御教会の存在は深く示されていました。しかし、今までお訪ねしたことがなく、お名前だけを示されている教会でした。この度、お招きをいただきまして、共に礼拝をささげることができ感謝しています。
 私は、今は隠退教師の身分ですが、伊勢原幼稚園の園長を担っています。それはこの4月からでして、3月までは横浜本牧教会付属の幼稚園園長でした。この幼稚園は教会の牧師が園長を兼ねることになっていまして、2016年に前任の牧師が退任しましたので、代務者を立てて歩むことになり、幼稚園は私が園長を仰せつかりまして歩むことになりました。そして、この4月から牧師が就任しましたので、私の一時的な務めが終わることになったのです。ところが、今度は伊勢原幼稚園の園長に招かれてしまいました。お招きをいただいたとき、考え込んでしまいました。自宅から伊勢原まで電車を利用して2時間もかかるのです。この年齢で遠くまで出かけるのはきついと思いました。それでも求められてのことですから、お受けしたのでした。朝は6時には家を出ます。その頃の電車は、大変込み合うのです。当初は混みあう電車で通うのは苦痛に感じていました。しかし、最近は、結構喜んで電車通いをしているのです。京急線を利用していますが、南太田駅付近になると、目線の高さで清水が丘教会を見ることができます。清水ヶ丘教会は私の出身教会であります。信仰が培われた昔の歩みを思い出して喜んでいる次第です。横浜からは相鉄線で海老名に向かいますが、こちらは下り線なので、いつも座ることができます。海老名からは小田急線で伊勢原に向かうのですが、車窓から大山や丹沢山塊が眺められるのです。綾瀬市にある大塚平安教会で30年間務めましたが、機会があれば教会の青年達と、あるいは我が家の子供たちと丹沢登山をしたのです。車窓から山々を眺め、楽しい昔を思い出しています。最初は気が進まないことが、大きな喜びへと変えられていくということです。
 大きな喜びと申し上げましたが、自分の存在の原点を示されることでしょう。そして、私たちの喜びは、生きている喜びを与えられながら歩むということなのです。その人生にいろいろな問題が関わってきますから、いろいろと心を悩ましながら歩んでいるのです。 時々、テレビを見ていると、しきりにコマーシャルを見なければなりません。いいことづくめで紹介されていますが、多くの場合、健康のためです。紹介されているサプリメントをいただけば死ぬことはないと思わされるのです。コマーシャルばかりではなく、あらゆるところで宣伝広告をしていますが、それらを求めることによって幸せいっぱいの人生が与えられるということです。このような宣伝というか、お知らせは大変上手にできているので、乗せられてしまうのです。ところがお知らせにしても、宣伝にしても乗せられないのは教会の宣伝です。「死後裁かれる」との大きな看板を掲げて、お祭りの中を練り歩いているのです。あるいは教会の説教看板にしても、次週の説教の予告をお知らせしているのですが、「弟子たちの失敗」という説教看板なのです。失敗談を聞きに教会に来る人があるかもしれませんが、教会の宣伝は人々の関心にはならないことが多いのです。しかし、教会として、世の人々にイエス様の十字架の救いを発信しなければなりません。大げさにならない程度に、真実の救いという事実をお知らせしたいと示されています。
 今朝は私達に「良いお知らせ与えられる」のです。その良いお知らせをしっかりといただきたいのです。

 良いお知らせは「神様のお心」です。そのために、まず神様のお心をいただかなければなりません。どのような状況にありましょうとも、神様のお心を土台として生きることなのであります。旧約聖書アモス書であります。アモスについては、今朝の聖書アモス書7章14節以下でアモス自身が言っております。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ」と自己紹介しています。アモス書は紀元前8世紀に書かれた最初の預言書とされています。自らが示すように家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者でありましたが、社会の流れが悪い方向に向かっている中で神様の御心として示されるのであります。北イスラエルの社会に神様の御心を示すことがアモスの活動でした。聖書の国は、この時点では、本来イスラエルの国でしたが、北イスラエルと南ユダの二つの国に分かれてしまいました。今朝は北イスラエルが神様のみ心から離れていることを示されるのです。北イスラエルの王様ヤロブアムは神様の御心から反する歩みをしていたのです。それで、南ユダに住んでいましたが、北イスラエルに出向いて、神様のみ心から離れていることを指摘するのです。神様の御心とは、旧約聖書にありましては、モーセをとおして与えられた十戒を中心とする戒めでした。その戒めに生きるならば、祝福されるということが旧約聖書の示しなのです。旧約聖書の分厚い示しは、神様の御心に生きているか、離れているかを示し、祝福の歩みをしなさいと示しているのです。今朝は「ベテルの祭司アマツヤ」が登場しています。ベテルは北イスラエルの中心的な聖所であります。そのアマツヤがヤロブアム王に対し、預言者アモスが王様に不利なことを言っていると報告します。つまり、預言者アモスは王様のヤロブアムが神様のみ心から離れているので、神様のお怒りを与えられるとハッキリ示したのでした。しかし、祭司アマツヤは王様に進言しながら、アモスに対しては、ただちにユダの国に逃れることを勧告しているのです。この北イスラエル、ベテルで騒ぎを起こしてもらいたくないと言っている訳です。いなくなれ、と言っているのであります。王様も、よそ者のアモスの言うことを聞かないのであります。だから、アモスは、むしろ神様の御心を示すな、彼らは聞き耳を持たないと言っています。神様の御心を素直に受け入れない人々への警告をアモス書が示しているのです。御心は示されている。神様の御心の前にどのように立つのか、それは御心を示された者の責任であります。神様の御心は隠されているのではない。既に与えられているのであります。責任が問われているのであります。
 旧約聖書は、いろいろな預言者と言われる人々が神様の御心を示しています。そのとき、神様の御心に対して、従うのか、無視するのか、いつも問うているのであります。神様のみ心は示されている、さあ、あなたがたはどのように生きるのか、御心を示されている人々の責任を問うているのが旧約聖書なのです。

 主イエス・キリストは言われました。「あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出て行くとき、彼らへの証しとして足の裏の埃をはらい落としなさい」と示しています。福音を聞かない人々の責任であることを示しているのです。ここではイエス様がお弟子さん達を町や村へ遣わすにあたり、その心構えをお示しになっているのであります。まず、遣わすにあたり二人ずつ組にして遣わされるということです。一人であると、つい自分のわがままが出てしまいます。二人が組になる、励まし合って、力を出し合って福音を宣べ伝えるのであります。ここで「二人ずつ」とありますので、モルモン教にしてもエホバの証人にしても、二人ずつ組になって勧誘しているのです。中には子供ずれで来ることもあります。子供でも二人になるからです。イエス様はお弟子さん達を派遣するにあたり、「汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして下着は二枚着てはならない」と示しているのであります。いわば生活に必要なものは、自分で備えるのではなく、ただ神様に委ね、福音を力強く語ることを示されているのであります。自分のことは顧みず、ひたすら福音を人々に示すのです。そんなにしてまで神様の御心を示しているのに、もし人々が聞こうとしないなら、「足の裏の埃を払い落しなさい」と言うのであります。
 先ほども触れましたが、いろいろな宣伝活動があったとしても、すべての人がその宣伝に乗るのではありません。やはり、何事も疑問を持つからです。社会に生きる者として、いろいろなことに遭遇しながら、心を痛め、悩みつつ歩んでいるのです。人生、生活というもの、必ずしも私達の思うようにはいかないことは、私たち自身知るところであります。大分前の新聞に記されていたことですが、Lifeについて記していました。書いている人も、ある人の言葉として引用しているのです。Lifeは人生、生活という意味ですが、日本語でも人生とか生活といえば、人間が活力を持って生きることになります。ところが、Lifeのスペルの中に「if」が含まれているというのです。「もしかしたら」という不安、「もしも」という恐れを持ちつつLife生命があることを意味しているのであります。「if」は不安を仮定しています。しかし、私達は「if」を持ちつつも、現実を神の国として喜びつつ生きるのがイエス様の救いを信じるキリスト者であります。イエス様は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と教えておられます。そして「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイによる福音書6章33節〜34節)と教えておられるのです。「その日の苦労」というのは、自分との戦いにおいて、神の国と神の義を求める一日の生活であるのです。イエス様が示す神の国に生きる、そこには「if」はありません。
お弟子さん達はメッセージを携えて、村や町で福音を宣べ伝えたのであります。「12人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教しました。そして多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒した」と報告されています。「if」を持つ人々に、神様の御心こそ強く生きる者へと導くことを示したのでした。今までお弟子さん達はイエス様の宣教の側にいて見ていました。しかし、今度はお弟子さん達がイエス様から力をいただいて宣教するのです。イエス様の福音、良きおとずれをいただくことにより、「ifが無くなります」との「お知らせ」を人々に示したのであります。

 私の人生、life の中に「if 」が含まれているとしても、イエス様の十字架の救いが私たちの基となっているのです。「if」を持っていても、イエス様により現実を神の国へと導かれ、永遠の命へと導かれる喜びを持っているのです。「if」を持ちつつも、「if」を超える人生、「良いお知らせをあたえられる」人生なのです。
 少し、私の証しをさせていただきます。私は79歳になりましたが、今日まで「良いお知らせを与えられる」人生を歩んでまいりました。イエス様の十字架による「良いお知らせ」、いつも私の人生の土台となっています。小学校3年生の頃から教会学校に通い始めたのです。その頃は日本が戦争に負けて3年を経た頃です。その頃、私の母は身体を損ねて病院に入院していたのです。ある時、見知らぬ子供たちが数人、病室に入ってきました。そして、花を贈ってくれるのです。「早く良くなさってください」との言葉をかけられたのでしょう。見ず知らずの子供たちにお見舞された母は、深い感動を与えられたようです。それは6月の第二日曜日、キリスト教会はこの日を「子どもの日・花の日」の行事を行っています。近くの教会の日曜学校の子供たちがお見舞してくれたのです。この行事は、この頃もあったのですから、昔から行われていました。先週の日曜日がその日になります。それから、しばらく母は入院していましたが、退院します。そうしますと、ある日曜日に、私を連れて母をお見舞してくれた教会の日曜学校に行くのです。日曜学校の先生に、花の日のお礼を述べ、これからはこの子が日曜学校に来ますから、よろしくお願いしますと言っているのです。私は何だか分らないままに、母の励ましで日曜学校に出席するようになるのです。日曜日だから、友達と遊ぶ約束があると言っても、とにかく日曜学校に送り出されるのでした。しかし、母は自分が教会に出席するのではなく、自分の子供を日曜学校に通わせたのであります。それは、見ず知らずの子供が自分を喜ばせてくれたという思いです。自分の子供もそのように成長してほしいとの願いを持っていたのです。私は母の祈りでもあった「if」を超える人生へと導かれているのです。母にとって、「子どもの日・花の日」により、「良いお知らせを与えられる」日になったのでした。
 小学校3年生の途中から出席するようになりましたが、4年生、5年生、6年生では毎年精勤賞をいただくほど毎週出席していたのでした。しかし、中学生になってからは二人の姉が出席していた横浜の清水ヶ丘教会に出席するようになります、高校3年生の時に洗礼を受け、伝道者への導きをいただいたのも清水ヶ丘教会でした。そして1969年に伝道者となり、来年で50年になりますが、「良いお知らせ与えられる」メッセージを語り続けて参りました。「良いお知らせ」は何の説明もいりません。イエス様が十字架により、私たちのすべての「if 」を取り去ってくださること、ただそれだれを皆さんにお話しさせていただいているのです。主イエス・キリストが十字架により、私の中にある自己満足、他者排除を滅ぼしてくださったのです。この「良いお知らせ」をしっかりといただきつつ歩みたいのです。祝福の人生へと導かれるのです。
 「良いお知らせを与えられる」こと、私たちは今朝の礼拝に集められています。主イエス・キリストは十字架にお架りになり、私たちの中にある自己満足、他者排除を滅ぼしてくださったのです。今朝は聖餐式を与えられ、イエス様の「良いお知らせ与えられる」お恵みへと導かれています。しっかりと「良いお知らせ」をいただきたいのです。
<祈祷>
聖なる神様。良いお知らせを与えてくださり感謝致します。この良いお知らせをすべての人々に知らせることが出来ますようお導きください。キリストの御名によって。アーメン。