説教「示されている人生」

2019年10月13日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第19主日



説教・「示されている人生」、鈴木伸治牧師
聖書・アモス書6章1~7節

   ヤコブの手紙2章1~9節
   ルカによる福音書16章19~31節
賛美、(説教前)讃美歌21・403「聞けよ、愛と真理の」

   (説教後)讃美歌21・544「イエス様が教会を」


前週は「世界聖餐日・世界宣教の日」としての礼拝でありました。今朝は「神学校日・伝道献身者奨励日」として礼拝をささげています。神学校を覚え、学ぶ神学生を覚え、さらに伝道献身者が与えられるよう祈る日であります。
私は日本聖書神学校で学びました。この神学校は夜学でありまして、働きながら学ぶ学校でありました。従って、大学を卒業して、社会で働くうちにも牧師への道が示され、入学する人々も多くいました。私は21回生の卒業生で、神学校には6年間在学しました。神学校の創立の頃は学校という校舎はなく、教会を借りての授業であったのです。しかし、その後、広大な土地の寄付があり、木造の校舎が建てられました。そこで、学んでいるうちにも、模様替えが行われ、校舎の部分は一階が店舗で、上がマンションと言うビルが造られました。新しく造られた校舎には半年位、学んだと思います。それで卒業したのですが、その後、その校舎はテアトルと言う俳優養成学校が使うことになり、校舎は奥まったところに造られ、礼拝堂も図書館も、いずれも新しい立派な建物になりました。これらの取り組みは、私達が卒業した後の時代の取り組みでした。毎年、送られて来る神学校の案内書を見ながら、随分とりっぱになったものだと思っていました。そのように思いながらも、懸念することもありました。案内書ですから、いいことづくしの内容を紹介するのは当たり前です。立派な校舎、立派な図書館、素晴らしい礼拝堂、快適な寮生活を豪華な冊子で紹介しているのです。神学校に入る決心をしている人は、この様ないいことづくしの内容を提示されて入るのでしょうか。大学の場合は、たくさんある大学の中から選ぶこともあり、いいことづくしで選ぶ基準になるのかもしれません。しかし、神学生の場合、将来は牧師になるのであり、いいことづくしより、牧師への道を整えてくれる場所であると思うのです。だから、立派な案内書で決めるのではないのですから、そういう案内書は不要だと思っていました。私達の入学当時は、簡単な学習の道筋を記している紙一枚の案内書でした。絶えず良い道を歩もうとするのが私達です。それは当然なことですが、現実を見つめながら、良い生活ではなく、良い方向へと導かれることであります。

人間は自分勝手に、都合の良い道を歩んでしまうものです。旧約聖書に登場する預言者は、人々が勝手に生きようとすることに対して、いつも警告を与えていました。預言者と言われるイザヤにしてもエレミヤにしても、自分勝手に生きている人々に警告を与えているのです。たとえば、エレミヤは神様の御心を示しています。「主はこう言われる。さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ」ということです。余談になりますが、神学生の頃、このエレミヤの言葉を深く示されました。聖書は「岐路に立つ」私達の姿勢を問うているのです。それで神学生の頃、クラスで文集を発行することになり、主題を「岐路に立つ」としました。神学生になり、2、3年もすると、改めて自分の人生を考えてしまうのです。神学校をやめて行くのもこの頃なのです。自分に問いかける意味で、「岐路に立つ」自分を顧みる文集にしたのでした。
余談でしたが、神様は人々に御心を示しているのであり、昔からの人々の歩みを示されるならば、祝福の導きは与えられているのです。だから、その神様の導きの道は現実にも与えられているのであり、自分の思いに歩むことを厳しく警告しているのです。エレミヤがこのように警告しているとき、指導者達は平和がないのに、「平和、平和」と叫んでいると示しています。指導者たちは時代の流れを見極めないで、自分勝手に解釈し、楽観的に歩もうとしていたのです。だから、バビロンという大国が攻めてきたとき、我々はエジプトに応援を頼めば大丈夫なのだと言い張っていたのです。それに対して、エレミヤはバビロンに対してエジプトの応援を得て戦うのではなく、それはむなしい抵抗であり、バビロンに降伏して生き延びることであると示すのです。実際、頼みにしていたエジプトは応援してくれるどころか、途中で引き上げてしまうのです。それによってバビロンに滅ぼされる結果になって行くのです。預言者たちは神様の御心を示し、人々に歩むべき方向を示したのです。人々は預言者の導きの言葉に聞き従わなければならないのです。しかし、自分勝手に生きようとしたのでした。
本日の旧約聖書アモス書6章であります。ここにも御心に従わない、特に指導者たちの姿が示されています。アモス書はエレミヤが警告した人々より前の時代の人々に警告しています。この時代はアッシリアの大国でした。そのアッシリアの大国が迫りつつある状況でも、指導者たちは「安逸をむさぼっている」と示しています。国は危機にある状況なのに「長椅子に寝そべり、羊の群れから小羊を取り、牛舎から子牛をとって宴を」開いていると示しています。贅沢三昧に過ごしていることを警告しているのです。アモスという人は牧畜を仕事としていました。牧畜の仕事は波風もなく平和な生活でありました。しかし、その彼が御心を示されたのでした。人々が神様の御心を無視した歩みをしていることを示され、人々に御心を語りなさいと導かれたのです。聖書は神様の御心を聞き、その導きに従って歩むのか、そのように厳しい姿勢が求められています。基本的にはモーセを通して与えられた「十戒」を守ることです。十戒は特別な戒めではないのです。人間が普通に生活するように示しているのが十戒です。しかし、人間は普通の生活ができないのです。十戒には「汝、殺すなかれ」と戒められています。表面的には人を殺さないでしょう。しかし、心の中で人を憎み、排除すること、それも人を殺しているとイエス様は教えています。真実に十戒を守るよう導いているのが主イエス・キリストなのです。

この旧約聖書の神様のメッセージをイエス・キリストは意味深く教えています。ルカによる福音書16章19節以下31節には「金持ちとラザロ」との内容でイエス様のたとえ話が示されています。イエス様がこのたとえ話をするとき、それがそのまま天国と地獄の教えではありません。さらに金持ちは地獄に落ち、貧しい者は天国に迎えられることを教えているのでもありません。むしろ、金持ちとか貧しい者とかを考えないほうが良いのです。そもそもイエス様がこのたとえ話を示したのは、前の段落、14節以下に記されるように、そこにいるファリサイ派の人々がイエス様のお話をあざ笑ったからでありました。何故あざ笑ったのか。イエス様が「不正な管理人」のたとえ話をしたからでした。
「ある金持ちに一人の管理人がいた」とイエス様のお話が始まります。この管理人が無駄使いをしていると告げ口をするものがあったので、主人は管理人に会計報告の提出を求めました。すると管理人は出入りの業者、主人に借りのある人を呼び、証文を書き換えてあげるのです。油百バトスを50バトスと書き換えてあげます。他の人にも証文を書き換えて上げます。もちろん書き換えてもらった人は大喜びです。そうすることによって、この管理人は主人から辞めさせられることになったとき、書き換えてあげた人達に迎えられるのであります。これは明らかに不正を行っているように思えます。ところが主人はこのやり方をほめたのでした。結局、このたとえ話は、神様のお心に生きる人を示しているのであり、「人は神と富とに仕えることはできない」と教えているのであります。それを聞いたファリサイ派の人々があざ笑ったのでした。イエス様がお金を持ってはいけないような言い方をしたからでありました。そこで「金に執着するファリサイ派の人々」があざ笑ったのです。ファリサイ派の人々は富というもの、お金は神様の祝福と信じていました。そのために働き、そして戒律を厳格に守るのです。お金には常に執着する人々なのです。あざ笑ったのは、イエス様の教えばかりではなく、聖書は15章1節からの状況が続いているのであり、イエス様が罪人といわれる人々と交わっていたからでもありました。
このようなファリサイ派のあざ笑いに応えて教えたのが「金持ちとラザロ」のたとえ話でありました。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやってきては、そのできものをなめた」と記されています。ここに金持ちがいます。イエス様はこのお話をしたとき、金持ちが紫の衣や麻布を着ているから悪いと言っているのではありません。また、ぜいたくに暮らしているから悪いといっているのでもありません。だから地獄に落ちたとは言ってはいないのです。問題は、ここに貧しい人ラザロがいるということであります。食べるものがなく、残飯で飢えをしのごうとしており、全身できもので痛みを持ち、苦しんでいる人がいるのです。しかし、金持ちはラザロを見なかったし、気がつくこともありませんでした。あるいはそのような人が大勢いるので、見慣れた風景であったのでありましょうか。イエス様がこのたとえ話をしたのはその点なのです。金持ちの前にラザロがいるのに気がつかなかったということであるのです。
やがて金持ちもラザロも死にました。ラザロは天国に迎えられ、金持ちは地獄に落ちたとしています。このことから、私たちは、この世で良い思いをし、幸せに生きたものは、あの世で苦しみが待っていると思う必要はありません。この世で苦しみ、貧しく生きたものが、あの世で幸せになるということを示しているのでもありません。私たちは金持ちであっても良いのであり、どんなに財産があっても良いのであります。そういうことではなく、私たちが隣人にどう向くかが問われているのであります。もし、私たちが隣人に対して無関心でいるなら、神様も私たちに無関心であります。この世で隣人の声を聞かないなら、神様も私の声を聞かれないのです。「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける」とイエス様は教えています。

私たちがイエス様から「金持ちとラザロ」のお話を示されるとき、もう一度「不正な管理人」(ルカ16章1節~)のお話が示されます。明らかにイエス様は二つのたとえ話を別々の意味で話されたのではなく、一対のお話をされたのであります。「金持ち」に対するものは、お金を自由に動かすことのできる「不正な管理人」です。そして、ラザロに対する存在は管理人によって利を得た業者であります。というより、その土地の人々、また貧しき人々ではなかったでしょうか。不正な管理人は自分のためだとしても、まずそのような人々に目を留め、苦しみを担ってあげたと理解したいと思います。それに対して、「金持ちとラザロ」の金持ちは、隣人には一切心を向けなかったのであります。少しでも隣人を見つめれば、そこに貧しきラザロがいることを知るのです。ルカによる福音書は、この後の19章で「徴税人ザアカイ」について記しています。これはたとえ話ではなく、今までのイエス様のたとえ話を現実に生きる証を示しているのです。金持ちであったザアカイさんがイエス様と出会ったとき、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と告白したのでした。今までは自分しか見つめなかったザアカイさんは、貧しきラザロさんを見つめることができたのです。社会の人々を見つめるようになったのです。
貧しきラザロ、それはまた私たち自身であります。この私という貧しきラザロをいつも見つめてくださり、こころにかけてくださるイエス様がおられます。私という貧しきラザロがイエス様のお心にとめられているように、私たちも隣人の貧しきラザロさんに心を向けなければなりません。隣人の生き方を受け止め、隣人を見つめるものが神様の祝福に与るのです。その生き方を導くのがイエス・キリストの十字架であります。「金持ち」のように貧しきラザロを見ない私たちでありますが、その私のためにイエス様は十字架にお架かりになり、私の中にある「金持ち」を滅ぼされたのです。
金持は陰府の国で、せめて兄弟たちが自分と同じようにならないために、天国にいるラザロを兄弟たちのところに遣わしてください、と天国のアブラハムに願っています。すると天国のアブラハムは、「生きている者はモーセ預言者がいる」と言うのでした。つまり生きているものには神様の御心が与えられているのであり、いつでも御心を聞くことができると示しているのです。生きている者は与えられている神様の御心をしっかりと受け止めること、イエス・キリストの十字架の救いをしっかりと信じて生きることであると記しているのです。生きている私達には神様の御心がいろいろな道筋で与えられているのです。何よりも十字架を仰ぎ見ることにより神様の御心を示され、人生の基とするのです。
<祈り>
聖なる御神様、導きを与えてくださり感謝いたします。十字架の救いの言葉を信じて歩ませてください。キリストのみ名によっておささげいたします。アーメン。

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