説教「存在の勇気」

2021年10月10日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第21主日」              

                      

説教・「存在の勇気」、鈴木伸治牧師

聖書・申命記4章1-8節

   ローマの信徒への手紙13章1-10節

   マタイによる福音書22章15-22節

賛美・(説教前)讃美歌21・404「あまつましみず」

   (説教後)讃美歌21・532「やすかれ、わがこころよ」

 

 前週も示されましたが、日本基督教団は、毎年10月は幾つかの課題を祈りつつ礼拝を捧げることにしています。前週の3日は世界聖餐日・世界宣教の日でした。そして、本日の10日は伝道者を祈る日であります。伝道者を育てる神学校、そこで学ぶ神学生のためにお祈りするのです。

今朝は10月の第二日曜日、「神学校日・伝道献身者奨励日」として定め、伝道者の育成を祈ることになっています。神学校日が近づくと、私の出身である日本聖書神学校から学校案内書が送られてきます。立派な案内書を手にすることになります。これらの案内書を見て、いろいろと考えさせられたのでした。こういう立派な案内書に触発されて神学校に入るのかと思ったりします。日本聖書神学校はこんなに良い所ですよと紹介しています。何か大学の案内書のようで、豪華な紹介でもあるのです。神学校は日本基督教団立の東京神学大学、認可されている日本聖書神学校、東京聖書学校、農村伝道神学校、同志社大学神学部、関西学院大学神学部です。それぞれ特色がありますので、献身して神学校に進むとき、これらの神学校の中から選ぶというより、既に学ぶべき神学校を決めている場合が多いということです。案内書を見て、案内書により神学校を決めるというのではありません。また、学校案内に触発されて決心するということでもないでしょう。学校案内を批判しているのではなく、案内はそれでよろしいと思いますが、献身を奨励し、伝道者の証等を示しつつ案内をすべきだと思ったのです。

 旧約聖書の今朝の聖書は申命記4章1節からでありますが、「モーセの勧告」として記されています。

 「イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい」と教えています。「法と掟」は同じような意味です。「法」は民族の全体的な定めと言う意味合いがあり、「掟」は個人的な戒めと言う意味合いがありますが、要するに「律法」と言うことです。律法と言うと「法律」のように受け止められますが、神様の教えすべてが律法と言うことなのです。律法と言うと十戒とかいろいろな規定を思うのですが、神様が人間に与えている「教え」であります。今朝の聖書には繰り返し「法と掟」が示されていますが、神様の教えをしっかりと守りなさいと教えているのです。しかし、守らない出来事がありました。それが、ここに記されているようにバアル・ペオルのできごとでした。

 エジプトを脱出したイスラエルの人々は、神様の約束の土地「乳と蜜の流れる土地」カナンを目指しているのですが、途中、シティムに滞在していました。そこで人々は現地のモアブの女性たちと交わるようになりました。食事に招かれ、現地の人々が拝むバアルの神、偶像を一緒に拝んだのであります。これは重大な戒律違反になります。神様が与えた十戒には、神様の他に何をも神としてはならないと示されており、偶像崇拝を固く戒められています。その大罪を犯しているのです。神様は激しく怒り、モーセに偶像を拝んだ人々を処罰しなさいと命じたのでした。これにより処罰された人は24000人であったと記されています。中でもピネハスという青年は、モアブの女性と交わっているイスラエル人を槍で突き刺したのでした。これらの神様に対する姿勢が受け止められ、神様のお怒りが解けたと記しているのであります。今、モーセが人々に説教をするとき、改めて、神様の戒めを守らないならば不幸になり、戒めを守るならば祝福の歩みが導かれると示します。そのために過去の出来事を人々に思い起こさせ、反省させているのです。「あなたの神、主はペオルのバアルに従った者をすべてあなたの間から滅ぼされたが、あなたたちの神、主につき従ったあなたたちは皆、今日も生きている」と示しています。

 神様から与えられた「法と掟」を守るのは、新しく入って行く土地で証となるためなのです。「あなたたちはそれを忠実に守りなさい。そうすれば、諸国の民にあなたたちの知恵と良識が示され、彼らがこれらすべての掟を聞くとき、『この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である』と言うであろう」と教えています。神様が下さった「法と掟」を守ることは人々への証でもあると示しています。そして、モーセは「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか」と律法に生きる喜びを示しています。神様の律法、すなわち神様の「教え」に生きることがどんなにか喜びであるか、そして尽きることのない希望であることを、モーセは人々に示しています。そのような喜びを与えられているのですから、戒められているように、ただ神様のみを中心にして生きることが神様への信仰であり、人々の務めなのです。神様を信じて生きることが、神様へのお返しと言うことであります。神様へのお返しと言うことで、当時行われていた動物をささげて礼拝をする、そのようなことは必要ありません。律法を守って生きることが、神様へのお返しであると言うことです。

 日々、お恵み下さる神様に、何を持ってお返しするのか。それを示しているのが今朝の新約聖書、マタイによる福音書22章15節以下の示しです。「皇帝への税金」との表題で示されています。

 主イエス・キリストは当時の社会で、律法を模範的に守っていると自負している人々には批判していました。口先だけであるとし、表面的な律法遵守であるとして厳しく戒めています。それに対してファリサイ派の人々は、巻き返しを図ろうと、常にイエス様を試そうとしています。イエス様の言葉じりをとらえ、罠にかけようと相談しているのです。それで質問したことは、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか」という内容でした。大変、意地悪な質問です。人々はローマのために税金を払わされているのですが、誰一人喜んで納める者はいません。従って、イエス様が皇帝に税金を納めるのは律法に適っていると言うならば、民衆の反感を買います。逆に、人々が納めるのを嫌がっているので、皇帝に税金を納めるのは律法に適っていないと言えば、ローマに訴える口実になります。どちらにも答えられないと言うことです。

 イエス様は彼らの悪意に気づき、「税金に納めるお金を見せなさい」と言われました。そして、デナリオン銀貨を示しながら「これは、だれの肖像と銘か」と言われたのです。ローマの貨幣は皇帝の肖像と名が記されているのです。だから答えは「皇帝のものです」と言わなければなりません。そこでイエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのであります。これを聞いた人々は二の句が出ないままに立ち去ったのでありました。誠に明快な答えであったと言うことです。

 それでは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とはどういうことなのでしょうか。支配されている者、あるいは国民にしても税金を納めるのは義務であります。税金を納めることにより、国の安定があり、国の歩みがあります。だから税金を納めなさいと言っても良いわけです。そのため「皇帝のものは皇帝に」と言われました。しかし、それと共に「神のものは神に返す」のです。それは献金をささげるということであります。税金は国民の義務として納めますが、献金は感謝としてささげます。同じ納めると言うことでも大きな違いがあるのです。そして、必ずしも献金としてささげるのではなく、神様の御心に生きることが神様へのお返しと言うことなのです。これは旧約聖書で繰り返し教えられていることでした。「法と掟」を守ることが、神様へのお返しであると言うことです。

 何よりもイエス・キリストは御自分を神様にささげられました。イエス様が十字架にお架りになるのは、人間が、どうしても自己満足、他者排除を克服できないので、十字架による御自分の死と共に、人間の原罪を滅ぼされたのです。もともと旧約聖書の昔から、礼拝がささげられています。いろいろな礼拝がありますが、罪祭という礼拝があります。これは罪を犯した者が、自分の代わりに動物を神様にささげ、動物を焼き殺すことによって自分が贖われるのです。罪を犯した者は死に定められていました。自分が死ぬ代わりに動物を犠牲にしていたのです。そうなると人間は根本的に罪人ですから、動物は地球上からいなくなってしまうのではないでしょうか。イエス様の十字架の死には、動物犠牲の背景があります。御自分を人間の罪の贖いとして、神様へご自分の命をささげられたのです。イエス様が命をささげられたので、私たちは祝福の道へと導かれるのです。

 それでは、私たちは何を持って神様にささげ、お返しをしたらよいのでしょう。それは旧約聖書でも示されたように律法、神様の教えを守ること、イエス様の「隣人を自分のように愛する」ことが、神様へお返しするということであります。勇気をもって神様のお心に生きることを示されました。

<祈祷>

聖なる御神様。十字架のお導きを感謝致します。神様へお返しする人生、他者を愛しつつ歩ませて下さい。キリストの御名によって、アーメン。

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