説教「その日、その時」

2021年10月17日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第22主日」              

                      

説教・「その日、その時」、鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書33章17-22節

   ヨハネの黙示録7章9-17節

   マタイによる福音書25章1-13節

賛美・(説教前)讃美歌21・405「すべての人に」

   (説教後)讃美歌21・573「光かかげよ、主のみ民よ」

 私達は日々の生活が、やはり何不自由なく、安心して生活することが願いです。いつも示されていることですが、私たちが生活しているこの場所は、まさに天国のようです。六浦谷間の集会として礼拝をささげていますが、まさに谷間という印象です。いつも鳥の声を聞いています。家の前の電線はリスたちが行き来しています。家の一方の側は山の斜面になっていて、いつも樹木が茂っています。そのような環境ですから、道路も行き止まりであり、車の通行はありません。本当に静かな場所なのです。

 時々、新聞の広告等で高齢者の入居施設についての案内があります。そこに入れば、何もかも行き届いていて、何も心配することはないということです。医療が整えられており、日常の生活にしても何不自由なく過ごせるということです。映画館もあり、温泉もあり、娯楽施設はなんでも用意されているということでした。まさに天国にいるような生活だと示しています。しかし、天国はそのように何の苦労もなく、祝福の生活になるのでしょうが、何不自由なく過ごすことが天国なのかと思います。しかし、人間として、いろいろと心に示されながら歩むことが、本当の喜びの生活ではないかと思います。親は子供のために、子どもは親のために、家族のために、あるいは友達のために心に示され、祈りが導かれてくる、その歩みこそ喜びの生活なのであり、何不自由なく過ごすことは、祈ることができなくなってしまうのです、いつも、いろいろと心に示されてはお祈りが導かれてくる、そういう人生が幸せなのです。

 祝福の人生を示しているのは、旧約聖書イザヤ書33章です。イザヤ書は32章と33章に「正しい王様」について記しています。この世の王は人間であり、自らの思い、自らの腹で人々を支配するのですが、「正しい王様」は神様ご自身であり、あるいは神様がお選びになる存在なのです。この「正しい王様」が人々を導き、もはや苦難もない、悲しみもない、人々の嘲りもない状況へと導いて下さると示しています。今朝の聖書では、人間にはそのような「正しい王様」は存在せず、「主は我らの王」と神様のお導きに委ねているのです。今朝の聖書33章17節、「あなたの目は麗しく装った王を仰ぎ、遠く隔たった地を見る」と記していますが、昔の苦しかった状況を見つめながら、今は救い主の神様に導かれている喜びを記しているのです。「あなたの心はかっての恐怖を思って言う。あのとき、数を調べた者はどこにいるのか。量った者はどこにいるのか。やぐらを数えた者はどこにいるのか」と過去の苦しい状況を見つめているのです。これはバビロンが都エルサレムを攻撃し、占領された時のことを述べているのでしょう。すべてのものが失われました。

 苦しい過去の歩みでありましたが、今こそ喜びの時なのです。「シオンを仰ぎ見よ、我らの祝祭の都を。あなたの目はエルサレムを見る。それは安らかな住まい、移されることのない天幕」と見ているのです。敵なる存在の侵入によって荒廃した都エルサレムは悲しみの場所に変わりました。しかし、その都は「安らかな住まい」へと変えられているのです。聖書には「安らかな住まい」について、至るところに示されていると述べました。何よりも創世記に記される「エデンの園」こそ「安らかな住まい」なのです。しかし、人間の自己満足の原罪により、楽園から追放されてしまいます。人間は人間の手で「安らかな住まい」を建設します。それが「バベルの塔」でした。しかし、人間の傲慢の目的である「塔のある町」は神様によって破壊されるのです。その後、神様は「安らかな住まい」へと導きます。「乳と蜜の流れる土地」でした。しかし、そこも「安らかな土地」にはならなかったのであります。祝福の人生は、人々が神様の御心をいただいて生きるということであるということです。

 新約聖書において主イエス・キリストは祝福の人生を導くために、繰り返し教えておられますが、今朝の聖書は、その備えとしての示しです。マタイによる福音書25章1節から13節は「十人のおとめのたとえ」として記されています。「そこで、天の国は次のようにたとえられる」としてお話されました。「天の国」に生きる導きです。十人のおとめが花婿を迎えるために入口で待つという設定です。結婚式の状況ですが、まず花婿さんが花嫁さんの家に来て、お祝いの宴会が開かれます。今、花嫁さんの家に来る花婿さんを十人のおとめが、お出迎えのために待っているのです。ところが花婿さんはなかなか来ません。ともし火をもってお出迎えするのですから、夜の宴会なのでしょう。十人の中で五人のおとめは予備の油を持っていました。ところが他の五人は予備の油を用意してはいませんでした。結局、花婿さんが到着するのは真夜中でした。それで到着されたという知らせを聞き、お出迎えをしようとしたとき、ともし火の油は少なくなっていました。このままでは消えてしまいますので、予備の油を注ぎ足さなければなりません。予備の油を持たない五人のおとめは、持っているおとめに油を分けてくれるよう頼みます。しかし、分けてあげれば、お互いのともし火が長くもたないことになりますので、断らなければなりません。それで予備の油を持たない五人は油を買い求めに行くのです。その間に花婿さんが到着しました。そして、入口の扉は閉められてしまいます。五人のおとめが油を買い求めて戻ると門は閉じられていました。「ご主人様、開けてください」と叫んでも、主人は「わたしはお前たちを知らない」と言って戸を開けませんでした。何か、かわいそうなお話ですが、このお話の最後で言われているのは、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」ということです。花婿が来るということ、これはイエス様の終末の出現と言うことになります。イエス様が再びお出でになるということですが、人間のそれぞれの終末をも意味しています。人間はいつ死ぬのか分かりません。その時のために備えをすると言うことです。備えとは、神様の御心に生きることです。

 そこで、ここで示されている「予備の油」とは何を意味しているのでしょうか。予備の油を持つことにより、ともし火をいつまでも灯していることができます。そうであれば、「油」は信仰と言うことになるでしょう。すると信仰を予備として持つのでしょうか。信仰をもって歩んでいますが、予備の信仰もあるという考え方は理解できないのです。ここで、ルカによる福音書16章に記されている「不正な管理人のたとえ」が思い当たります。イエス様がお話されたたとえ話です。ある金持ちに一人の管理人がいました。この管理人が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者がありました。そこで主人はこの管理人に会計報告を求めるのです。すると管理人は出入りの業者を呼び、この主人から借りている証文を書き変えてあげるのです。油百バトスの人には五十バトスに、小麦百コロスの人には八十コロスに証文を書き変えてあげます。それにより、この管理人は主人から解雇されても、証文を書き換えてあげた人たちが自分をなんとかしてくれると思ったからでした。ところが主人は、この管理人の抜け目のないやり方を褒めたのでした。この主人は証文が書きかえられたので、本当は怒るのではないでしょうか。怒らない理由があるのです。主人は財産を管理人に任せています。そして自分が受け取るべき利益を得ています。証文を書き変えても、受けるべき利益は得ています。主人は損をしていないのです。出入りの業者も証文を書き変えてもらったのですから損をしていません。誰かが損をしていることになるのです。そうです、この管理人が損をしているのです。自分が受けるべき収入がなくなるのです。自分を捨てて他の存在に喜んでもらったということです。従って、この管理人の「無駄使い」は信仰に生きる姿なのです。この「無駄使い」と「予備の油」は同じことを示しているのです。予備の油を持たないおとめ達は自分のことしか考えていないのです。予備の油を持つということは、他の存在に心を向けることなのです。そこで、この「不正な管理人」のお話をしたイエス様は、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」と教えています。信仰に生きることは他の存在を見つめて生きることなのです。

十人のおとめの中、五人のおとめは「予備の油」を持っていたので、花婿を迎え入れ、共に喜びの宴会に臨むことができました。それは祝福の人生へと導かれたということです。「無駄使い」をすること、「予備の油」を持つことです。わたしたちの人生において「無駄使い」をする、「予備の油」を持つ、そういう人生が祝福の歩みであると示されているのです。

<祈祷>

聖なる御神様。予備の油の人生に導いてくださり感謝致します。さらに予備の油を増し加えさせてください。キリストの御名により。アーメン。

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