説教「神様にお返しするもの」

2013年10月6日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第21主日

説教・「神様にお返しするもの」、鈴木伸治牧師
聖書・申命記4章1-8節
     ローマの信徒への手紙13章1-10節
      マタイによる福音書22章15-22節
賛美・(説教前)54年版・217「あまつましみず」
    (説教後)54年版・535「今日をも送りぬ」


 今朝は10月6日の礼拝ですが、私の洗礼記念日でもあります。主日礼拝と洗礼記念日が重なったことを喜んでいる次第です。私の洗礼については、おりに触れて証していますが、記念日を迎えていますので、再び紹介しておきます。洗礼を受けたのは1957年10月6日ですから、それから56年を経ています。横浜にある清水ヶ丘教会で倉持芳雄牧師から受洗しました。私が高校3年生の時でした。私が教会に行きはじめるのは小学校3年生の時からです。近くにある関東学院六浦の中にある教会の日曜学校でした。その辺りからお話すると長くなりますので、今回は割愛します。6年生まで毎週のように日曜学校に通いました。中学になって二人の姉が出席している清水ヶ丘教会に出席するようになりました。中学、高校時代、出席する高校生達との交わりを深めながら歩んでいたのです。洗礼を受けた年の夏に青年会の修養会が葉山で行われました。高校生でしたが、その修養会に参加しました。海が近いので海水浴のプログラムがありました。私も皆さんと共に泳いだりしていました。泳いでいると、いつの間にか倉持牧師と並んで泳いでいるのです。今までも洗礼への思いがあり、友達と話し合っていたりしたのですが、牧師と二人だけで泳いでいるとき、洗礼志願が自然に出てきて、倉持牧師に「洗礼を受けたいのです」と言っていたのです。泳ぎながら、倉持牧師は大変喜んでくれました。この洗礼志願告白はよほど印象に残ったようで、洗礼式当日の説教の中で、その模様を詳しく紹介していました。その後何かに付けて、私を紹介する時には泳ぎながらの洗礼志願告白を紹介されるのでした。
 10月の第一日曜日は、日本基督教団は「世界聖餐日」、「世界宣教の日」として定めています。その世界聖餐日に洗礼を受けたことが、私の信仰の原点にもなっています。ですから、いつも世界の人々と共に聖餐をいただき、世界の人々への伝道が示されていました。しかし、そうは言っても世界の宣教へと赴くのではなく、神学校を卒業して東京の青山教会、宮城の陸前古川教会、神奈川の大塚平安教会等、42年間、もっぱら日本にある教会の宣教を担ってきました。2011年6月に隠退教師になったのですが、隠退してから外国に住む皆さんとの信仰のお交わりが導かれました。2011年4月からと2012年9月から、それぞれ二ヶ月ずつスペイン・バルセロナで娘がピアノの演奏活動をしていますので滞在しました。バルセロナ日本語で聖書を読む会という集いがあり、月に一回の礼拝ですが、それぞれの礼拝で御言葉を取り次がせていただきました。また、マドリッドにも行く機会があり、そこでもマドリッド日本語で聖書を読む会があり、御言葉を取り次がせていただきました。さらに今年は3月からマレーシアのクアラルンプール日本語キリスト者集会のボランティア牧師として務めてまいりました。海外で働く日本人宣教師は、現地にいる日本人のために派遣されているのです。隠退してからですが、私も世界宣教の一端を担うことができ、「世界聖餐日」、「世界宣教の日」に洗礼を受けた意味が、今になって証されているような思いでいるのであります。
 世界の果てまでイエス様の救いを宣べ伝えて行くこと、私達の使命でありますし、主イエス・キリストのご命令なのです。私たちがキリスト教を人々に証するのは、この教えに生きることが喜びであり、常に希望が与えられるからなのです。今朝の聖書は、信仰による喜びと希望を示しているのです。

 旧約聖書の今朝の聖書は申命記4章1節からでありますが、「モーセの勧告」として記されています。申命記は1章1節に、「モーセイスラエルのすべての人にこれらの言葉を告げた」と記されますので、ヘブライ語原典は「言葉集」という名称でした。しかし、日本語の聖書は「申命記」としています。「命を申し渡す」と言う意味になりますが、実際、モーセが神様の御心を示し、御心に生きるならば命を得ると示しています。奴隷の国、エジプトから、神様に選ばれたモーセの導きで脱出した人々に対して、神様の御心に生きるように説教をしているのが「申命記」なのです。その説教は今までの歴史の導きを示し、神様が示した戒めを固く守って生きるよう教え、諭しています。
 「イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい」と教えています。「法と掟」は同じような意味です。「法」は民族の全体的な定めと言う意味合いがあり、「掟」は個人的な戒めと言う意味合いがありますが、要するに「律法」と言うことです。律法と言うと「法律」のように受け止められますが、神様の教えすべてが律法と言うことなのです。律法と言うと十戒とかいろいろな規定を思うのですが、神様が人間に与えている「教え」であります。今朝の聖書には繰り返し「法と掟」が示されていますが、神様の教えをしっかりと守りなさいと教えているのです。しかし、守らない出来事がありました。それが、ここに記されているようにバアル・ペオルのできごとでした。
 エジプトを脱出したイスラエルの人々は、神様の約束の土地「乳と蜜の流れる土地」カナンを目指しているのですが、途中、シティムに滞在していました。そこで人々は現地のモアブの女性たちと交わるようになりました。食事に招かれ、現地の人々が拝むバアルの神、偶像を一緒に拝んだのであります。これは重大な戒律違反になります。神様が与えた十戒には、神様の他に何をも神としてはならないと示されており、偶像崇拝を固く戒められています。その大罪を犯しているのです。神様は激しく怒り、モーセに偶像を拝んだ人々を処罰しなさいと命じたのでした。これにより処罰された人は24000人であったと記されています。中でもピネハスという青年は、モアブの女性と交わっているイスラエル人を槍で突き刺したのでした。これらの神様に対する姿勢が受け止められ、神様のお怒りが解けたと記しているのであります。今、モーセが人々に説教をするとき、改めて、神様の戒めを守らないならば不幸になり、戒めを守るならば祝福の歩みが導かれると示します。そのために過去の出来事を人々に思い起こさせ、反省させているのです。「あなたの神、主はペオルのバアルに従った者をすべてあなたの間から滅ぼされたが、あなたたちの神、主につき従ったあなたたちは皆、今日も生きている」と示しています。
 神様から与えられた「法と掟」を守るのは、新しく入って行く土地で証となるためなのです。「あなたたちはそれを忠実に守りなさい。そうすれば、諸国の民にあなたたちの知恵と良識が示され、彼らがこれらすべての掟を聞くとき、『この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である』と言うであろう」と教えています。神様が下さった「法と掟」を守ることは人々への証でもあると示しています。そして、モーセは「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか」と律法に生きる喜びを示しています。神様の律法、すなわち神様の「教え」に生きることがどんなにか喜びであるか、そして尽きることのない希望であることを、モーセは人々に示しています。そのような喜びを与えられているのですから、戒められているように、ただ神様のみを中心にして生きることが神様への信仰であり、人々の務めなのです。神様を信じて生きることが、神様へのお返しと言うことであります。神様へのお返しと言うことで、当時行われていた動物をささげて礼拝をする、そのようなことは必要ありません。律法を守って生きることが、神様へのお返しであると言うことです。

 日々、お恵み下さる神様に、何を持ってお返しするのか。それを示しているのが今朝の新約聖書、マタイによる福音書22章15節以下の示しです。「皇帝への税金」との表題で示されています。聖書の国ユダヤは、当時の世界を支配していたローマに治められていました。何かに付けてローマとの関わりが出てきます。徴税人はローマのために人々から税金を集めています。ローマからは総督が送られております。従って、使徒信条にはイエス様が総督の「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」たと告白しているのは、時代を銘記するためでありました。
 主イエス・キリストは当時の社会で、律法を模範的に守っていると自負している人々には批判していました。口先だけであるとし、表面的な律法遵守であるとして厳しく戒めています。それに対してファリサイ派の人々は、巻き返しを図ろうと、常にイエス様を試そうとしています。イエス様の言葉じりをとらえ、罠にかけようと相談しているのです。それで質問したことは、「先生、わたしたちはあなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教え下さい。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか」という内容でした。大変、意地悪な質問です。人々はローマのために税金を払わされているのですが、誰一人喜んで納める者はいません。だから、その税金を取り立てる徴税人を悪者と称しています。従って、イエス様が皇帝に税金を納めるのは律法に適っていると言うならば、民衆の反感を買います。それではイエス様の宣教が行き詰ってしまうのです。逆に、人々が納めるのを嫌がっているので、皇帝に税金を納めるのは律法に適っていないと言えば、ローマに訴える口実になります。どちらにも答えられないと言うことです。さあ、どういう答えをイエス様がしたのでしょうか。
 イエス様は彼らの悪意に気づき、「税金に納めるお金を見せなさい」と言われました。そして、デナリオン銀貨を示しながら「これは、だれの肖像と銘か」と言われたのです。流通するお金は、国の支配者の肖像を入れるのは古今東西からです。もっとも今はそうでもありませんが、国によっては国の支配者の肖像を入れています。マレーシアはリンギットですが、1、5、10、20、50リンギットすべては元首の肖像が印刷されているので、数字を見ないと間違える場合があります。聖書の世界はシェケム等の通貨がありますが、多くはローマの通貨で取引されていました。ローマの貨幣は皇帝の肖像と名が記されているのです。だから答えは「皇帝のものです」と言わなければなりません。そこでイエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのであります。これを聞いた人々は二の句が出ないままに立ち去ったのでありました。誠に明快な答えであったと言うことです。
 それでは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とはどういうことなのでしょうか。支配されている者、あるいは国民にしても税金を納めるのは義務であります。税金を納めることにより、国の安定があり、国の歩みがあります。だから税金を納めなさいと言っても良いわけです。そのため「皇帝のものは皇帝に」と言われました。しかし、それと共に「神のものは神に返す」のです。それは献金をささげるということであります。税金は国民の義務として納めますが、献金は感謝としてささげます。同じ納めると言うことでも大きな違いがあるのです。そして、必ずしも献金としてささげるのではなく、神様の御心に生きることが神様へのお返しと言うことなのです。これは旧約聖書で繰り返し教えられていることでした。「法と掟」を守ることが、神様へのお返しであると言うことです。

 「ささげる」ことについては、ルカによる福音書21章に「やもめの献金」について、イエス様が示しています。イエス様が神殿で人々がささげる献金を見ています。お金持ちはたくさんささげていました。そこに一人の女性がやって来て、レプトン銅貨二枚をささげました。一番低い貨幣です。ざっと換算して、当時の日当が1デナリオンでしたから、その100分の1が1レプトンです。1デナリオンを1万円とすれば1レプトンは100円であり、200円をささげたということです。そのときイエス様は言われました。「この貧しい女性は、だれよりもたくさん入れた」と言われ、「あの金持たちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからだ」と説明しています。ささげると言うことは、お金の多い少ないではなく、自分自身をささげるということです。礼拝をささげるのは自分をささげるということなのです。
 何よりもイエス・キリストは御自分を神様にささげられました。イエス様が十字架にお架りになるのは、人間が、どうしても自己満足、他者排除を克服できないので、十字架による御自分の死と共に、人間の原罪を滅ぼされたのです。もともと旧約聖書の昔から、礼拝がささげられています。いろいろな礼拝がありますが、罪祭という礼拝があります。これは罪を犯した者が、自分の代わりに動物を神様にささげ、動物を焼き殺すことによって自分が贖われるのです。罪を犯した者は死に定められていました。自分が死ぬ代わりに動物を犠牲にしていたのです。そうなると人間は根本的に罪人ですから、動物は地球上からいなくなってしまうのではないでしょうか。イエス様の十字架の死には、動物犠牲の背景があります。御自分を人間の罪の贖いとして、神様へご自分の命をささげられたのです。イエス様が命をささげられたので、私たちは祝福の道へと導かれるのです。
 それでは、私たちは何を持って神様にささげ、お返しをしたらよいのでしょう。それは旧約聖書でも示されたように律法、神様の教えを守ること、イエス様の「隣人を自分のように愛する」ことが、神様へお返しするということであります。
<祈祷>
聖なる御神様。十字架のお導きを感謝致します。神様へお返しする人生、他者を愛しつつ歩ませて下さい。主イエス・キリストの御名によっておささげ致します。アーメン。