説教「恵みの働き人」

2013年10月13日、横須賀上町教会
聖霊降臨節第22主日

説教・「恵みの働き人」、鈴木伸治牧師
聖書・ネヘミヤ記6章11-16節
    マタイによる福音書25章14-30節
賛美・(説教前)讃美歌21・404「あまつましみず」
    (説教後)讃美歌21・536「み恵みを受けた今は」


日本基督教団は毎年10月の第二日曜日を「神学校日・伝道献身者奨励日」として定め、伝道者の育成を祈ることになっています。神学校日が近づいたので、先週は私の出身である日本聖書神学校から学校案内書が送られてきました。あまりにも立派な案内書を手にして、いろいろと考えさせられたのでした。こういう立派な案内書に触発されて神学校に入るのかと思ったりします。日本聖書神学校はこんなに良い所ですよと紹介しています。何か大学の案内書のようで、豪華な紹介でもあるのです。神学校は日本基督教団立の東京神学大学、認可されている日本聖書神学校、東京聖書学校、農村伝道神学校、同志社大学神学部、関西学院大学神学部です。それぞれ特色がありますので、献身して神学校に進むとき、これらの神学校の中から選ぶというより、既に学ぶべき神学校を決めている場合が多いということです。案内書を見て、案内書により神学校を決めるというのではありません。また、学校案内に触発されて決心するということでもないでしょう。学校案内を批判しているのではなく、案内はそれでよろしいと思いますが、献身を奨励し、伝道者の証等を示しつつ学校案内をすべきだと思ったのです。
 私が伝道者へと導かれるのは高校生の頃でした。私は10月6日の世界聖餐日に洗礼を受けました。前週の主日礼拝は10月6日であり、私の洗礼日と重なりましたので、私の受洗について触れさせていただきました。高校生の頃に伝道者への道を示されるのですが、その時はまだ受洗していませんでした。普通は洗礼を受けてから伝道者への道を歩み始めるのですが、まだ洗礼を受けていないのに伝道者への道を示されました。それは当時の「福音と世界」というキリスト教の雑誌に、ある牧師の手記が掲載されており、それを読んで強烈な印象を与えられたのでした。青森県五所川原にある教会の牧師、菊池吉弥先生が書いているものでした。農村地帯における伝道がいかに困難であるかを報告していました。しかし、困難な伝道の中にも福音を宣べ伝える喜びがあり、教会に来なくても周辺の皆さんとの触れ合い等を記しているのです。この報告を読んで、ここに私の進むべき道があると思うようになったのです。困難だからこそ私の歩むべき道ではないかということです。そのため、当初は農村伝道神学校で学ぶつもりでいましたが、いろいろな導きがあり日本聖書神学校に進むことになったのでした。
 当時のことですから、どこでも簡単な案内書であったと思います。案内書というより募集要項だけであったと思います。だから入学して初めて学校の様子、寮や図書館のこと等を知ることになるのです。昔の寮は二人部屋で、新入生は卒業年度の先輩と一緒の部屋でした。先輩に教えられながら寮生活をするうちにも、神学生としての姿勢が導かれてきたということです。昔と今を比較する必要はありませんが、伝道献身者を奨励する場合、何をもって奨励するのかということでありましょう。主イエス・キリストの十字架の贖い、救いの喜びを、福音を宣べ伝える伝道献身者を奨励したいのであります。

 伝道者ばかりではありません、教会の信者は恵みの働き人であると言うことです。教会の皆さんが献身と奉仕により教会の歩みが導かれているのです。今朝の旧約聖書はネヘミヤ記でありますが、神殿再建のために奔走したのがネヘミヤという人でした。
 ネヘミヤ記の前はエズラ記でありますが、本来の聖書はこの二つのものは一つであり、「エズラ」称されていたのです。しかし、エズラとネヘミヤは同時代で、協力しつつ働いたのですが、それぞれの取組みとして分けられるようになりました。ネヘミヤ記の前にあるエズラ記のエズライスラエルの宗教的再建を果たした人でした。それに対してネヘミヤはユダヤの総督としてエルサレムに帰還し、エルサレムの城壁を再建したのであります。二人ともバビロンに捕われの身分であり、バビロンが滅びて解放されるのですが、順次エルサレムに帰還して行く人々を励ましてエルサレムの再建に立ちあがったのであります。
 ネヘミヤはペルシャ王の献酌官でした。王様にお酒を注ぐ人で、いつも王様の側にいます。ネヘミヤはエルサレムからやってきた人から、今の都エルサレムがどのようになっているのかを聞いています。1章3節によりますと、「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです」と報告されたのでした。これを聞いたネヘミヤは、幾日も嘆き悲しみ、食を断ち、天にいます神様に祈り続けたのでありました。その後、王様の前に出てお酒を注ぐのですが、ネヘミヤが暗い顔をしているので、王様は心配して尋ねるのでした。そこでネヘミヤは故郷の都エルサレムが荒廃しており、神殿が荒らされていることを話すのでした。そして、王様に故郷に行かせてくださいとお願いします。王様が赦してくれたので、ネヘミヤはそれぞれの街を通行するための書状を願います。いわゆる通行手形というものです。王様は心良く書状を作り、更に将校と騎兵を共に派遣してくれることになったのであります。
 こうして無事に故郷のエルサレムに着いたネヘミヤは、まずエルサレムの城壁から、都の中を調べて回ります。そして、いよいよ城壁の修復工事を始めます。ところがエルサレムがバビロンに滅ぼされた後は、エルサレムには諸外国の人々が住むようになっていたのです。神殿にしても城壁にしても、何の意味も感じない人々でした。それらの人々がネヘミヤを中心とする修復工事をする人々に妨害をするようになるのです。さらに同胞でも敵なる者たちから買収されているものもいるのです。
 そこで今朝の聖書になります。同胞であるシェマヤの家に行った時、シェマヤは「神殿で会おう、聖所の中で。聖所の扉を閉じよう。あなたを殺しに来るものがある。夜、あなたを殺しにやってくる」というのです。そう言ったことに対するネヘミヤの答えが今朝の聖書なのです。「わたしの立場にある者は逃げることができない。わたしのような者で、聖所に入って、なお生き長らえることのできる者があろうか。わたしは入らない」と答えたのであります。ネヘミヤは祭司ではなく一般の人の立場です。祭司ではない者が聖所に入ることは禁じられているのです。誘いに乗って聖所に入れば、人々の批判があり、律法では死罪に処せられると戒められているのです。ネヘミヤを殺しにやってくる者から逃れるために聖所に入れと誘惑しているのです。このような脅迫に対しても敢然と対処しつつ、ネヘミヤは神殿の城壁修復工事を進めたのでした。そして52日間で城壁修復が完成したのでした。そのときネヘミヤは証しをしています。「わたしたちのすべての敵がそれを聞くに及んで、わたしたちの周囲にいる諸国の民も皆、恐れをいだき、自らの目に大いに面目を失った。わたしたちの神の助けによってこの工事がなされたのだということを悟ったからである」と神様に感謝しつつ宣言しているのであります。ネヘミヤは城壁工事完成を自らの偉業とはしません。神様の導きであると証しています。まさに「恵みの働き人」でありました。

 「恵みの働き人」、それは私達も導かれているのです。その導きを主イエス・キリストがたとえ話をもって示しています。
 新約聖書はマタイによる福音書25章14節以下です。「タラントン」のたとえとして示されています。マタイによる福音書は25章になると、終末に関する教えをはっきりとイエス様が教えておられるのです。25章1節以下は「十人のおとめ」のたとえとして示されています。いつ終末が訪れても、神様に祝福されるような人生を歩みなさいと示しています。25章31節以下は「すべての民族を裁く」として示されていますが、生前どのように生きたかが問われると示しています。自分勝手な生き方ではなく、隣人を自分を愛するように愛したか、と示しているのです。この二つのたとえ話に挟まれて「タラントン」のたとえを示しています。問われていることは今朝の主題である「恵みの働き人」であるかということです。
 「ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた」という設定です。主人は、僕の一人に5タラントン、一人に2タラントン、一人に1タラントンを預けました。預けられた人の中、5タラントン、2タラントン預けられた人は、それで商売をして、それぞれ陪の利益を得たということです。少し疑問になるのは、預けられた財産で商売なんかして良いのか、と思います。財産を預けるということは管理を任せるということなのです。ですからルカによる福音書16章に「不正な管理人」のたとえが記されています。ここでは主人が管理人に財産管理を任せていることが記されています。マタイによる福音書21章33節以下に「ぶどう園と農夫」のたとえについて記されています。ここでもぶどう園の主人が、ぶどう園の管理を農夫に委ねていることが記されています。それぞれのメッセージは割愛しますが、今朝の聖書も主人が財産を預けているのは、管理を委ねているのです。ですから預けられた財産で商売をするのは当然なのです。預けられた以上、財産が祝福されるよう働かなければならないのです。財産を倍にした人たちは主人から喜ばれました。しかし、1タラントンを預けられた人は、預けられた財産を地面に隠しておいたので、そのままお返ししたというのです。財産を地面に隠すということも、マタイによる福音書13章44節以下に示されています。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」ということです。誰かが財産を畑に隠し、その後死んでしまったかしたので、だれも隠された財産については知らなかったのです。1タラントン預けられた人も、当時の財産管理に従って隠しておいたのでしょう。しかし、この1タラントンは何にも用いられなかったので、減りもしなければ増えもしない。そのままであるということなのです。「タラントン」のたとえは、財産が増えることを示しているのです。
 「タラントン」は6000デナリオンに相当します。イエス様の「ぶどう園の労働者」のたとえで、労働者が一日1デナリオンで働くことが記されています。1デナリオンでも16年分の日当に相当します。5タラントンであれば82年間分の日当ですから、一生食べて行かれる程の財産になります。このタラントンには「能力、才能、賜物」という意味があります。従って、このタラントンのお話は、神様が人間に与えてくださっている賜物であるということです。人間は誰もが神様から賜物を与えられているということです。与えられた賜物をどのように用いているか、という聖書の示しなのです。昔は「タレント」と訳され、それがそのまま芸能人に使われるようになりました。人々の前で特別な才能がある者として演技する人をタレントと称していますが、聖書は特別な人ではなく、すべての人に神様が賜物、才能、能力を与えてくださっていると示しているのです。だから用いなければならないのです。何もしないで地面に隠しているような傍観者であってはならないと教えているのです。

 今朝は神学校日、伝道献身者奨励日でありますが、最初にも示されたように、この日は「恵みの働き人」として、私達もタラントンをいだいている者として、賜物を用いて歩むことが示されています。しかし、そのことを思うと、何かしなければいけないとの責任感が、何もしていない自分を見いだそうとするのです。賜物をいただいている者として、何をするのではなく、日々の生活の中で主に向いつつ歩むことが「恵みの働き人」であると示されます。
 私達はこの世に生きるものです。社会の人々と共に生きるのです。私はキリスト教の牧師であるから、隣近所のお付き合いはしませんというのでは、地面に財産を隠すようなものです。神学校を卒業して青山教会の担任教師になり、4年後には宮城県の陸前古川教会に赴任しました。6年半の牧会でしたが、信者が増えたということではありません。それでも10名位の皆さんが洗礼へと導かれました。そうしたことは喜びでありますが、むしろ、隣近所のお付き合いが深まったということが喜びでもありました。近所でどなたかが亡くなれば葬式に参列し、法事に出なければなりません。法事に出ると、食前の前に経文を渡され、一同が一緒に読むのです。私は牧師であるから読みませんというのではなく、一緒に読み、一緒に会食を行い、故人の思い出を皆さんから聞いたりするのです。隣近所の付き合いをして、その土地の住人として認められ、教会には来ることはありませんが、牧師さんとしての位置付けが認められるのです。最初にお話した五所川原教会の菊池吉弥先生の手記を、東北の教会で経験したのでした。土地の人々に心を開いてもらって、存在が認められ、牧師としてのメッセージを語ることができるのです。
この社会に生きる者として、自分の存在はイエス様を信じて生きる者であると証しする。それが「恵みの働き人」であるということです。この社会の中で私の存在が証しされているからです。私に与えられている賜物は礼拝へと導かれ、賛美の歌をささげることができるのです。一人静かに聖書を紐解き、御言葉に触れ、お祈りが導かれること、それが私に与えられている賜物であり、喜びの人生へと導かれているのです。
 <祈祷>
聖なる御神様。小さき存在に賜物をくださり、恵みの働き人にしてくださり感謝します。いよいよ賜物を用いさせてください。イエス様の御名によりおささげ致します。アーメン。