説教「安らかな住まい」

2013年10月20日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第23主日

説教・「安らかな住まい」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書33章17-22節
    ヨハネの黙示録7章9-17節
     マタイによる福音書25章1-13節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・218「よをもるともよ」
    (説教後)讃美歌54年版・368「つとめいそしめ」


前週の10月15日は「神の庭・サンフォーレ」の礼拝の担当で、秦野にあるキリスト教シニアホームに行ってまいりました。そこに入居されている皆さんと礼拝をささげたのであります。皆さんはかなり高齢になっていまして、耳が聞こえないとか、文字が読めないとか、歌うことができないとか言われるのですが、礼拝で讃美歌を歌うときには、大きな声で歌われていました。入居するまでは教会の礼拝で讃美歌を歌い、皆さんと共に信仰のお交わりをされていたのです。讃美歌は式次第に印刷されている歌詞が読めなくても、体にしみ込んでいるので、一緒に歌うことができるのです。そのため、歌いなれていると思われる讃美歌54年版の90番「ここもかみの」、312番の「いつくしみ深き」を歌います。皆さんは、心から讃美しているようです。
若い時から教会員として教会生活をされていた皆さんです。礼拝の喜びをもって教会に導かれていたのです。あるいはお交わりを深めていました。そして、献身と奉仕の生活をされていたのです。どんなにか教会の働き人であったことでありましよう。しかし、年齢を重ね、自宅では生活が困難になってきましたので、キリスト教シニアホーム「神の庭・サンフォーレ」に入居されたのです。そもそもキリスト教シニアホームを造ろうと計画が始まったのは1994年頃からです。その頃、私は神奈川教区の宣教部委員長を担っていました。ある協議会の中で、高齢者と共に歩むことが話題となり、神奈川教区もキリスト教シニアホームをつくる計画を立ちあげることにしたのです。いろいろと調査・研究をして計画を進める中で、教区が独自に老人ホームを造るのは資金的にも困難であることを示されるようになりました。そのように行き詰っているとき、サンフォーレの社長さんとの出会いが与えられました。株式会社サンフォーレさんは、それまでの社会の取組みは、老人ホームという大きな施設を造り、医療、介護、生活に必要な環境をすべて整えていたのです。そして、そのためには街の中から離れた、郊外に建設される場合が多かったのです。それに対してサンフォーレさんは街の中にホームを造り、街にある医療等と提携しつつ、そして誰もが気軽に行き来できる場所にしていたのです。キリスト教シニアホームの取組みをご理解くださり、一緒に担って下さることになったのです。最終的には神奈川教区の取り組みではなく、有志が支えることになったのですが、今年で15周年を迎えており、今でも存続していることは、私達の取組みが神様に祝福されていると思っています。
 キリスト教シニアホームを建設にあたり、その趣旨として次のように記しています。これは1996年5月11日に発行した「神奈川教区高齢者生活支援」(取組みの紹介)の冒頭に記したことです。「『神奈川教区高齢者生活支援』の具体的取り組みとして、老人施設建設を進めています。信仰に生きる者が安らかな晩年を迎え、礼拝に始まり、主を仰ぎ見つつ一日を過ごし、感謝のうちに目を閉じる、そういう施設を造りたいのです。丹沢山麓、秦野市渋沢の山懐、閑静な住宅街の一角に所を定めました。既存の建物を改修して老人施設とします。老人施設を造り、そこに入っていただくという事で使命を終えたとは致しません。高齢者の方々と共に生き、力と時のある方々が常に関わり、支援を続けて行きたいのです。やがて私たちがお世話を受ける者として、いま出来る事をして差し上げたいのです」。この趣旨は、その通りに「神の庭・サンフォーレ」の現在の歩みとなっています。
 「安らかな住まい」を与えてくださることは神様のお約束であります。聖書には至るところに「安らかな住まい」に導いて下さることが示されているのです。今朝は、神様のお導きをいただき、「安らかな住まい」へと向かいたいのであります。

 「安らかな住まい」を示しているのは、旧約聖書イザヤ書33章です。イザヤ書は32章と33章に「正しい王様」について記しています。この世の王は人間であり、自らの思い、自らの腹で人々を支配するのですが、「正しい王様」は神様ご自身であり、あるいは神様がお選びになる存在なのです。この「正しい王様」が人々を導き、もはや苦難もない、悲しみもない、人々の嘲りもない状況へと導いて下さると示しています。今朝の聖書では、人間にはそのような「正しい王様」は存在せず、「主は我らの王」と神様のお導きに委ねているのです。今朝の聖書33章17節、「あなたの目は麗しく装った王を仰ぎ、遠く隔たった地を見る」と記していますが、昔の苦しかった状況を見つめながら、今は救い主の神様に導かれている喜びを記しているのです。「あなたの心はかっての恐怖を思って言う。あのとき、数を調べた者はどこにいるのか。量った者はどこにいるのか。やぐらを数えた者はどこにいるのか」と過去の苦しい状況を見つめているのです。これはバビロンが都エルサレムを攻撃し、占領された時のことを述べているのでしょう。すべてのものが失われました。
 苦しい過去の歩みでありましたが、今こそ喜びの時なのです。「シオンを仰ぎ見よ、我らの祝祭の都を。あなたの目はエルサレムを見る。それは安らかな住まい、移されることのない天幕」と見ているのです。敵なる存在の侵入によって荒廃した都エルサレムは悲しみの場所に変わりました。しかし、その都は「安らかな住まい」へと変えられているのです。聖書には「安らかな住まい」について、至るところに示されていると述べました。何よりも創世記に記される「エデンの園」こそ「安らかな住まい」なのです。しかし、人間の自己満足の原罪により、楽園から追放されてしまいます。人間は人間の手で「安らかな住まい」を建設します。それが「バベルの塔」でした。しかし、人間の傲慢の目的である「塔のある町」は神様によって破壊されるのです。その後、神様は「安らかな住まい」へと導きます。「乳と蜜の流れる土地」でした。しかし、そこも「安らかな土地」にはならなかったのであります。
 「安らかな住まい」、「安らかな土地」は、人々が神様の御心をいただいて生きる場であるということです。「神の庭・サンフォーレ」の基となる聖書は詩編92編13節から16節の言葉です。「神に従う人はなつめやしのように茂り、レバノンの杉のようにそびえます。主の家に植えられ、わたしたちの神の庭に茂ります。白髪になってもなお実を結び、命に溢れ、いきいきとし、述べ伝えるでしょう。わたしの岩と頼む主は正しい方、御もとには不正がない」と歌っています。信仰に生きる者の場が、「安らかな住まい」であることを示しているのです。

 新約聖書において主イエス・キリストは「安らかな住まい」に導くために、繰り返し教えておられますが、今朝の聖書は、その備えとしての示しです。マタイによる福音書25章1節から13節は「十人のおとめのたとえ」として記されています。「そこで、天の国は次のようにたとえられる」としてお話されました。「天の国」に生きる導きです。十人のおとめが花婿を迎えるために入口で待つという設定です。結婚式の状況ですが、まず花婿さんが花嫁さんの家に来て、お祝いの宴会が開かれます。その後、花婿さんは花嫁さんを連れて自分の家に行き、そこでまた宴会を開くのです。今、花嫁さんの家に来る花婿さんを十人のおとめが、お出迎えのために待っているのです。ところが花婿さんはなかなか来ません。ともし火をもってお出迎えするのですから、夜の宴会なのでしょう。十人の中で五人のおとめは予備の油を持っていました。ところが他の五人は予備の油を用意してはいませんでした。結局、花婿さんが到着するのは真夜中でした。それで到着されたという知らせを聞き、お出迎えをしようとしたとき、ともし火の油は少なくなっていました。このままでは消えてしまいのすので、予備の油を注ぎ足さなければなりません。予備の油を持たない五人のおとめは、持っているおとめに油を分けてくれるよう頼みます。しかし、分けてあげれば、お互いのともし火が長くもたないことになりますので、断らなければなりません。それで予備の油を持たない五人は油を買い求めに行くのです。その間に花婿さんが到着しました。そして、入口の扉は閉められてしまいます。五人のおとめが油を買い求めて戻ると門は閉じられていました。「ご主人様、開けてください」と叫んでも、主人は「わたしはお前たちを知らない」と言って戸を開けませんでした。何か、かわいそうなお話ですが、このお話の最後で言われているのは、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」ということです。花婿が来るということ、これはイエス様の終末の出現と言うことになります。イエス様が再びお出でになるということですが、人間のそれぞれの終末をも意味しています。人間はいつ死ぬのか分かりません。その時のために備えをすると言うことです。備えとは、神様の御心に生きることです。
 そこで、ここで示されている「予備の油」とは何を意味しているのでしょうか。予備の油を持つことにより、ともし火をいつまでも灯していることができます。そうであれば、「油」は信仰と言うことになるでしょう。すると信仰を予備として持つのでしょうか。信仰をもって歩んでいますが、予備の信仰もあるという考え方は理解できないのです。ここで、ルカによる福音書16章に記されている「不正な管理人のたとえ」が思い当たります。イエス様がお話されたたとえ話です。ある金持ちに一人の管理人がいました。この管理人が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者がありました。そこで主人はこの管理人に会計報告を求めるのです。すると管理人は出入りの業者を呼び、この主人から借りている証文を書き変えてあげるのです。油百バトスの人には五十バトスに、小麦百コロスの人には八十コロスに証文を書き変えてあげます。それにより、この管理人は主人から解雇されても、証文を書き換えてあげた人たちが自分をなんとかしてくれると思ったからでした。ところが主人は、この管理人の抜け目のないやり方を褒めたのでした。この主人は証文が書きかえられたので、本当は怒るのではないでしょうか。怒らない理由があるのです。主人は財産を管理人に任せています。そして自分が受け取るべき利益を得ています。証文を書き変えても、受けるべき利益は得ています。主人は損をしていないのです。出入りの業者も証文を書き変えてもらったのですから損をしていません。誰かが損をしていることになるのです。そうです、この管理人が損をしているのです。自分が受けるべき収入がなくなるのです。自分を捨てて他の存在に喜んでもらったということです。従って、この管理人の「無駄使い」は信仰に生きる姿なのです。この「無駄使い」と「予備の油」は同じことを示しているのです。予備の油を持たないおとめ達は自分のことしか考えていないのです。予備の油を持つということは、他の存在に心を向けることなのです。そこで、この「不正な管理人」のお話をしたイエス様は、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」と教えています。信仰に生きることは他の存在を見つめて生きることなのです。それが「無駄遣い」であり、「予備の油」なのです。

十人のおとめの中、五人のおとめは「予備の油」を持っていたので、花婿を迎え入れ、共に喜びの宴会に臨むことができました。それは「安らかな住まい」へと導かれたということです。「安らかな住まい」に導かれるためには、「無駄使い」をすること、「予備の油」を持つことです。
先日、賛育会がチャリティーコンサートを開催したので、連れ合いと共に行ってまいりました。錦糸町にある「すみだトリフォニーホール」で開催されましたが、東日本大震災復興支援のためでありました。そのために有名な声楽家であるオクサーナ・ステパニュックさん、又吉秀樹さん、そしてパイプオルガン奏者の水野均さんの演奏が行われたのです。これらの演奏者を協賛者が招き、謝礼は協賛者が負担したと言われます。東日本大震災復興支援としてでありますが、収益金は日本キリスト教海外医療協力会が行っている被災地での訪問ケアや心のケア活動に役立てていただくという趣意であるということです。主催者にしても協賛者にしても、2000円も払って入場する人々にしても、「無駄使い」であり「予備の油」を持つことになるのです。
私達も「無駄使い」と「予備の油」を持とうとしています。11月4日にドレーパー記念幼稚園のホールを会場にして、今スペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしている娘の羊子が一時帰国しますので、「シルバさん家族支援チャリティー・ピアノコンサート」を開催することにしました。スリランカ人のシルバさん家族は難民として日本に渡りましたが、難民申請は却下されてしまいました。スリランカは内紛がおさまり、今は平和な国になっていることが理由であります。しかし、シルバさん達にとっては、子供達も日本で成長していますし、スリランカに帰国しても厳しい人間関係の課題があるのです。どうしても日本で生活したいというシルバさん家族を支援しているのです。そのためにチャリティーコンサートを開催するのですが、やはり「無駄使い」と「予備の油」を持つ姿勢でなければならないのです。「無駄使い」と「予備の油」を持つために、主イエス・キリストは十字架にお架りになられたのです。いよいよ主の十字架を仰ぎ見たいのです。「安らかな住まい」に導かれるためであります。
<祈祷>
聖なる御神様。「予備の油」の人生に導いてくださり感謝致します。さらに「予備の油」を増し加えさせてください。主イエス・キリストの御名によりおささげ致します。アーメン。