説教「神様のご栄光を示される」

2016年10月2日 
聖霊降臨節第21主日

説教、「神様のご栄光を示される」 鈴木伸治牧師
聖書、ヨブ記42章1-6節
    フィリピの信徒への手紙1章12-30節
     ヨハネによる福音書11章28-44節
讃美、(説教前)讃美歌21・81「主の食卓を囲み」
    (説教後)讃美歌21・425「こすずめも、くじらも」


 
 今朝は10月の最初の主日であります。十月は記念する日が続きます。今朝の第一主日は世界聖餐日・世界宣教の日であります。第二主日は神学校日・伝道献身者奨励日であります。第三主日は信徒伝道週間、教育週間であります。そして、10月31日は宗教改革記念日であります。これらは記念暦と言い、一つのことを記念しつつ礼拝をささげるのであります。一つのこと、例えば神学校日であれば、神学校の存立、そこで学ぶ学生、さらに献身者が与えられるように祈りつつ礼拝をささげるのであります。
 記念暦はそれぞれの教会にも独自にあります。例えば、教会創立記念日であります。教団の記念暦には入っていませんが、それぞれの教会が独自にプログラムをもっています。この記念暦に対して、教会暦があります。教会暦は主イエス・キリストの歩みに従って定められているのであります。すなわち、クリスマスはイエス様の降誕日であります。12月25日と定められています。そして、最初にやってくる教会暦は公現日・栄光祭であります。これは1月6日と定められています。いくつかの言い伝えがあります。栄光祭は東の国の博士達が、お産まれになったイエス様にお会いした日であるということ。従って、この日からキリスト教が世界の人々に示されたということであります。公現日後は四旬節(レント・受難節)となり、40日間、主イエス・キリストのご受難を仰ぎ見つつ歩むのであります。特に受難週には主イエス・キリストの十字架の救いをはっきりと示されます。そして、イースターとなります。主イエス・キリストの復活をお祝いします。復活したイエス様は40日間、お弟子さんや人々にご復活の体をお示しになるのであります。そして、昇天日になります。イエス様の復活日から40日後になります。昇天日は主イエス・キリストが天にお昇りになりますので、10日後のペンテコステまで、この地上は神様がお留守となるわけです。そのためにもイエス様は、お弟子さん達に、心を合わせてお祈りするように導かれたのであります。イエス様のご復活から50日後、ペンテコステ聖霊降臨日となります。聖霊降臨により、弟子達並びに人々は聖霊の導きにより歩むことになりました。三位一体の神様のお導きをいただきながら終末主日へと歩み、そこで教会の暦が終わることになり、今度は待降節として新しい暦の歩みが始まるのであります。
 本日は教会暦や記念暦の歩みについて示されましたが、このような暦を覚えつつ歩むということは、私たちがいつも「神様のご栄光を示される」ためなのであります。教会暦や記念暦に励まされながら、今、神様の御心によって歩む者へと導かれたいのであります。今朝は「世界聖餐日」であり、「世界宣教の日」として礼拝をささげていいます。「世界聖餐日」と言えば、私が洗礼を受けた日ですが、折に触れて証させていただいていますので、割愛させていただきます。今朝は「神様のご栄光を示される」示しをいただき、いよいよ信仰の歩みを導かれたいのであります。

 「神様のご栄光を示される」こと、今朝は、旧約聖書ヨブ記が証しています。今朝は42章であり、ヨブ記のまとめの部分であります。ヨブ記は聖書の中では文学書になり、ドラマとして示されています。人が生きるということは、どういうことかの主題が展開されます。ヨブという義人がいました。常に神様を礼拝しつつ歩んでいました。豊かな財産がありました。ある時、天上で天使達が神様の前に集められます。その時、神様はサタンという天使に言います。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上には彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と言われました。旧約聖書におきましては、サタンは天使の一人でした。神様のお許しがなければ何も出来ない存在であります。サタンが悪魔になるのは新約聖書になってからであります。イエス様の荒野の試練の時には、イエス様を誘惑する悪魔として登場しております。さて、サタンは神様のお言葉を聞いたとき、神様に反論します。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」というのであります。そこで神様は、「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし、彼には、手を出すな」と言います。そこでサタンはヨブの財産に手を出し、彼の財産、家畜に至るまで、そして10人の子ども達まで失わせるのであります。その時、ヨブは神様を恨むということはサタンの思惑でした。しかし、ヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と告白するのです。
 サタンは神様に言います。ヨブは自分の命に別状がないので、そのような告白をしています。もし、彼の命に触れるならば神様を呪うに違いないと言うのです。神様のお許しを得て、サタンはヨブに体に被害を与えます。全身にひどい皮膚病を与えるのです。ヨブは陶器のかけらで体中をかきむしるのです。それでもヨブは神様を呪いませんでした。「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と告白したのであります。
 ヨブ記は1章と2章で主題設定をしているのです。すなわち、人が生きるということです。ここでは幸福、不幸にかかわりなく、神様を仰ぎ見つつ生きることが示されています。そのことから、人が不幸になることの意味が問われてくることになります。ヨブを見舞うために三人の友人がやってまいります。ヨブが、このように不幸になったのは、ヨブが悪い存在になったからであり、神様に悔い改めることによって、不幸は解消されると三人の友は主張します。それに対して、自分には身に覚えのないことであり、この現状を理解するのは困難であり、私は生まれなかったほうが良かったと主張するヨブでありました。このような論争が展開されてきました。そして、38章になって神様ご自身が登場します。そして、冒頭に「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは」と言われるのでした。人間は神様の御心、御業については何一つ分からないのです。それを、あたかも知っているかのように言葉を重ねているのです。
 そこで今朝の聖書になるのです。神様の御心を示されたヨブは、今まで自分には罪がないのに、何故このような不幸にならなければならないかと主張してきました。しかし、神様の創造の世界、到底考えも及ばない宇宙、万物を示されたとき、自分がいかに小さな存在であるかを示されたのでした。自分の主張を前面に出し、三人の友人と論争してきましたが、いかに自分が小さな存在であるかを示されたのであります。「そのとおりです」とヨブは言いました。「わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました」と述べ、「それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」と告白するのでした。神様の創造の御業の中に生きること、主にあって生きることが導かれたのであります。

 「神様のご栄光を示される」証しはラザロでありました。しかし、このヨハネによる福音書にはラザロの人柄とかは紹介されていません。11章の初めに、ある病人がいて、その病人はラザロであり、イエス様が愛しておられたと紹介されているだけです。マルタさんとマリアさんはイエス様を信じており、いくつかのことが聖書に記されています。マルタさんとマリアさんの兄弟であるラザロさんも、ここで初めて登場するのですが、主にあって歩んでいたと思われます。ラザロは病気でありましたが、やがて死んでしまいます。主イエス・キリストはその成り行きをご存知でありました。だから、神様のご栄光が現されるためには、イエス様がラザロのそばにいないことが設定されているのです。イエス様がラザロのもとに赴いたとき、ラザロは死んでおり、墓に埋葬されていたのでした。まず、マルタさんがイエス様を迎えます。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」とマルタさんは言うのでした。
そして、今朝の聖書、ヨハネによる福音書11章28節以下になります。マルタさんが、イエス様が来られたことをマリアさんに伝えます。家の中で悲しみにくれていたマリアさんは急いでイエス様のもとに来ました。そして言うのです。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」とマルタさんと同じことを言うのでした。主イエス・キリストがおられるならば、病気は治り、死ぬことはないと信じていたのであります。しかし、イエス様がいなかったので病気は治らず、死に至ることになったと思うのです。マルタさんとマリアさんの信仰は、「主にあって生きる」ということはそのような信仰なのでありました。病気が治り、死なないとの思いは人間の都合でもあるのです。イエス様はラザロさんが葬られている墓に行きます。そして、墓の入り口は石で塞がれていますので、「その石を取りのけなさい」と言われました。マルタさんが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」というのでした。「もし、信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われ、神様にお祈りをささげたのであります。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りの群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」と祈られてから、「ラザロ、出てきなさい」と声をかけられたのであります。
ヨブさんが最後に示されたように、人間の論争によって新しい状況が現れることではありません。神様の創造の御業の中に生きることであります。たとえ、どのような状況にありましょうとも、この状況は主にあって、主に声をかけられて生きていることが導かれるのであります。
 主イエス・キリストは墓に埋葬されているラザロに声をかけられました。ラザロはその呼びかけに反応して墓から出てきたのであります。人間の世界では死んで墓に納めること、もはやお別れのときであります。しかし、イエス様は死んだラザロに声をかけられたのであります。それは、死ということで主イエス・キリストとの関係が切れたということではないということを示しているのです。あなたは、死んだ状況かも知れないが、私とは切れてはいないのですよ、とイエス様は示しているのです。私たちの側で、もう死んだのであるからと結論を出してはいけないのであります。主イエス・キリストは私がどのような状況に生きていようとも、その状況に声をかけておられるのです。「神様のご栄光が示される」とはそのことであります。いつも礼拝に出席しているからとか、いつもお祈りしているから、だからこうあるべきであるとは、マルタさんとマリアさんの発想でありました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」との発想は人間の発想であります。そうではありません。主イエス・キリストが私の現実に声をかけてくださっていることを信じることであります。今、苦しい状況でしょうか。悲しい状況でしょうか、苦しくてたまらない状況でしょうか。どうしてよいか分からないと思っているでしょうか。そうです、この状況にイエス様が声をかけておられるのです。その声を受け止めて生きること、「神様のご栄光が示される」のです。「ラザロよ、出てきなさい」と主イエス・キリストは声をかけておられます。声をかけられた私たちは、ヨブのように神様の創造の御業の中に生かされていることを受け止めることなのであります。創造の御業に生きるとは、神様の無限の恵みを知ることであります。無限の導きを示されることなのであります。私たちが考えていることは小さな方向でしかありません。その小さな事でもがき苦しんでいるのです。神様の無限の恵みに導かれること、それが「神様のご栄光示される」人生なのです。

 先日、知人から電話をいただきました。知人は近所の人で、小さい頃は一緒に遊んで成長したのです。しかし、中学、高校生の頃になると、それぞれの道を歩んでいますので、共に過ごすことはありませんでした。そして、私は牧師になって実家から離れていたのです。最近になって、再び知人と会い、お話しいたしました。既に知人がクリスチャンになっていることを聞いていました。その時、私の説教集「最初の朝餐」を差し上げていました。電話をいただいたのは、その説教集の中に、私の洗礼に至る証を記していましたので、それを読んで、昔のことを示されたと言いつつ電話をいただいたのです。海で泳ぎながらの洗礼告白です。実は知人は私の母から洗礼のことを聞いていたので、改めて説教集で示され、連絡をいただいたのでした。私はその知人のことで「神様のご栄光を示される」証をいただいています。私は小学校の頃は日曜学校に通いつつ成長しましたが、知人はキリスト教には関係がありませんでした。それが、いつの間にかクリスチャンになり、信仰のお話しをすることが導かれているのです。この知人を思うごとに、「神様のご栄光を示される」喜びをいただいているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。十字架の救いは神様の栄光として示され、恵みを感謝致します。何事も神様のご栄光として歩ませてください。主のみ名によっておささげ致します。アーメン。