説教「存在する救い主」

2020年1月5日、六浦谷間の集会
降誕節第2主日」新年礼拝

 

説教、「存在する救い主」 鈴木伸治牧師
聖書、イザヤ書40章27-31節

   コロサイの信徒への手紙1章3-8節
   ヨハネによる福音書1章14-18節
賛美、(説教前)讃美歌54年版94「久しく待ちにし」

   (説教後)448「みめぐみを身にうくれば」



新年あけましておめでとうございます。カレンダーの上での新しい年でありますが、キリスト教の暦はクリスマスをもって新しい歩みとなりますので、既に新しい歩みが導かれているのです。前週は一年の終わりであり、歳晩礼拝でありましたので、一年の歩みを振り返り、恵みの多い歩みを感謝しつつ礼拝をささげたのであります。新しい年も主イエス・キリストの十字架のお導きをいただき、祝福と恵みが与えられて歩むことができます。常に神の国に生きるものへと導かれたいのであります。それで、2020年は「神の国に生きながら」との主題を与えられました。示されている聖書はルカによる福音書17章21節です。「実に、神の国はあなたがたの間にある。」との示しであります。この言葉がイエス様から示されたのは、当時のファリサイ派の人々がイエス様に尋ねたからでした。ファリサイ派の人々は当時の社会では指導的な存在でした。人々の模範的な生き方をしていたのです。その時、イエス様は重い病気の人たちを癒してあげていました。まさに喜びの歩みを導かれたのです。それを見たファリサイ派の人たちが、「神の国はいつ来るのか」とイエス様に尋ねたのです。イエス様は、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』、『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われたのです。すなわち、神の国に生きるということは、場所的なものではなく、人間関係の中に存在するということなのです。人と人とが心を通わせ、共に生きるとき、まさに神の国に生きているということなのです。この新しい年を「神の国に生きながら」歩みたいのであります。
この御言葉に励まされ、歩みたいと願っています。私達には常に神の国に生きる導きを与えられているのです。しかし、ともするとお導きを忘れて不平不満を述べてしまうのです。私達がどのような環境におかれましょうとも、どのような状況を歩みましょうとも、神様はイエス様を通して、厳然と神の国に導かれているのです。そのため私たちはいつも与えられている現実の神の国を喜びながら、感謝をささげつつ歩まなければなりません。昨年は「ナルドの香油をささげつつ」との主題でした。一人の女性が、高価なナルドの香油をイエス様に注ぎ、その行為がイエス様に喜ばれたことでした。私たちのナルドの香油とは、イエス様の御心に生きることなのです。それはまた「神の国に生きながら」の歩みとなるのです。
5年前のことですが、1月はじめはまだスペインにいました。1月2日と3日はマドリッドにおりました。吉川祥永さんとフェルナンドさんにご挨拶するために行ったのです。娘の羊子が2014年10月25日にスペイン人のイグナシオさんと結婚式をあげました。その結婚式の時、私も神父さんと一緒に司式をしたのですが、その時短い奨励を行いました。その奨励をスペイン語に訳してくださったのが、祥永さんとフェルナンドさんでした。そのお礼として伺ったのですが、1月3日のマドリッド日本語で聖書を読む会の礼拝説教をすることになりました。祥永さん達はプロテスタント教会に出席していますが、その教会の集会室で礼拝がささげられました。出席は10名で、皆さんと共に礼拝をささげたのです。2011年にもマドリッドを訪問しました。その時は祥永さん達が日本の東日本大震災復興支援コンサートを企画され、羊子がピアノを演奏したのでした。そのときも礼拝の奉仕を担当させていただいたのです。今回は礼拝が終わるやすぐに帰途に着きました。バルセロナからマドリッドまで600キロもあります。車で往復したのですから、車を運転した羊子の彼、イグナシオさんは大変であったろうと感謝しています。そして1月6日にはバルセロナ日本語で聖書を読む会の礼拝であり、説教をさせていただきました。そして1月7日には帰国の途についたのでした。
今年の2020年は本日が最初の礼拝ですが、この年も常に礼拝をささげ、「神の国に生きながら」イエス様の十字架によるお導きをいただきつつ歩みたいのであります。

旧約聖書のメッセージを示されましょう。イザヤ書40章31節に、「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」と示されています。このイザヤ書の状況は、聖書の人々が捕われの身であります。バビロンという国に滅ぼされ、多くの人々がバビロンの空の下で、悲しみつつ、苦難に生きていたのでありました。小さな国である聖書の民、ユダの人々は、当時の大国であるエジプトやバビロン、アッシリアの間にあって、どちらに身をおくべきか、常に選択を迫られていました。その中で、ひたすら神様の導きに委ねなさいと叫び続けたのが預言者でありました。しかし、時の指導者達は神様の御心ではなく、人間的な力に依存したのであります。国が破れ、都が破壊されると共にバビロンへと多くの人々が捕われて行きました。預言者イザヤは捕われの民に慰めを与え、希望を与え続けるのであります。
 40章25節以下は神様の尊厳と創造主であることを示します。神様を誰だと思っているのかと言い、「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ」と神様の創造の世界の偉大さを確認させているのです。そして、自分達は神様に見放されており、神様から忘れられている、ということを言ってはならないと戒めています。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主はとこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい」(28節)と示しています。約50年とも言われる捕われの身は、希望をなくすと共に、この状況は神様の審判なのかと思ってしまうのです。そうではなく、神様は救いを与えておられるのだと励ましているのが預言者イザヤでありました。すなわち神様がお恵みを与え続けていることを示しています。
 悲しみに生きるとき、苦しみに生きるとき、また希望をなくしてしまったときにも、まず神様がお造りになった業、天地を見つめることが大事なことなのであります。この神秘に満ちた宇宙万物、「その英知は究めがたい」創造の世界をしっかりと受止めることなのであります。今は悲しみと苦しみの状況でありましょうとも、神様の英知が働いて、支えの御手が差し伸べられるのです。「主に望みをおく人は新たなる力を得る」のであります。
 聖書の最初の人、アブラハムは神様に忠実に従った人として記されています。後の世の人々も祝福されたアブラハムを誇りとしているのです。神様は、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」と約束されたのです。アブラハムは神様の導きに委ねて故郷を後にしました。しかし、アブラハムは神様の約束が確信できないでいました。そのとき、神様はアブラハムに天を仰ぐようにと言います。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」と言います。アブラハムは天を仰ぎ、そのたびに神様の導き、大いなる力、お恵みを示されたのでありました。すなわち神様のお恵みを深く示されたのであります。このことは主イエス・キリストも人々に示しています。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」と教えておられます。さらに、「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」(マタイによる福音書6章25節~)とお恵みの神様を示しているのです。
神様の創造の世界を見つめることは、私が導かれていることの確認であります。究めがたい創造の神秘の中におかれているのです。神様の救いは、必ず与えられることを、悲しみと苦しみの中に生きる人々に示しているのです。そのためには、主に望みをおくことなのです。人の力、存在する物質に活路を求めるのではなく、ただ主に望みをおくことがイザヤの示しなのでありました。神様のお恵みを仰ぎ見なさいと教えているのです。

新しい創造を与えるために現われたのが主イエス・キリストであります。ヨハネによる福音書1章1~5節において「言」が示されました。「初めに言があった。言は神と共にあった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った」と示されていますが、この「言」を「イエス・キリスト」と読み替えることによって、ヨハネによる福音書の証が示されるのであります。そして、今朝の聖書は1章14節からでありますが、5節からの続きとして読まなければなりません。
 14節は「言は肉となって、私たちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」と証しされています。「言は肉となって」とは、イエス様のお生まれになったクリスマスであります。聖霊の力により、マリアさんから生まれたイエス様です。一人の人間として、私たちの現実を生きたのでありました。神の御子だからとの前提はありません。一人の人間として私たちの間に宿られたということです。そして、栄光を現されたのでありました。その栄光は「初めに神と共にあった」ことでもありますが、ヨハネによる福音書が証しするのは、その栄光こそ十字架の贖いであり、復活されたことなのであります。十字架が私を新しく創造し、主の道を歩むものへと導いてくださるのです。このヨハネによる福音書の主イエス・キリストの死は他の福音書とは異なる証をしています。マタイによる福音書とマルコによる福音書は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言って息を引き取ったと記しています。また、ルカによる福音書は「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と言われて息を引き取ったと記しています。しかし、ヨハネによる福音書は、「成し遂げられた」と言われて息を引き取られたと証ししているのです。すなわち、ヨハネによる福音書は主イエス・キリストが人間の間に宿られ、神様のお心と業を示しましたが、それはまだ栄光ではなく、十字架の贖いこそ栄光であり、息を引き取られるとき、まさに栄光が成し遂げられたことを示しているのであります。
 イエス・キリストの十字架は私の救いであります。人間は自己満足と他者排除をどうしてもなくすことはできません。ある程度自己規制ができたとしても、やはり心の奥深くに残されているのです。神様は歴史を通して導きを与えて来られましたが、人間がどうしても根源的な罪から抜け切れないので、イエス・キリストの十字架により人間を救われたのであります。イエス様の十字架の死と共に私の根源的な罪、自己満足・他者排除が滅ぼされていくのです。私達は私を救う十字架として仰ぎ見るのであります。それにより私が新しく創造されていくのです。「神の国に生きながら」の人生へと導かれるのです。その歩みが「存在する救い主」への信仰となるのです。

2019年の歩みを振り返ること、それは前週の歳晩礼拝で示されました。多くの知人が六浦谷間の集会の礼拝に出席してくださいました。隔月には三崎教会の礼拝にも招かれています。昨年の3月には、実に40年ぶりに宮城県の陸前古川教会にて説教を担当させていただきました。神学校を卒業して、最初の教会は東京の青山教会でした。4年間、副牧師として務め、その後に陸前古川教会に招かれたのでした。6年半のお勤めでしたが、その頃、中学生・高校生であった皆さんも礼拝に出席してくださり、久しぶりに共に礼拝をささげる喜びを与えられたのでした。神様に向かいつつ歩んでいる皆さんを示されたのです。神様に向かいつつ共に歩んでいる皆さんを、神様に感謝したいのであります。神様のお心を示されつつ、お一人、お一人が祈りつつ歩んでおられるのです。コロサイの信徒への手紙から示されましょう。1章3節以下、「わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです」とパウロは記しています。コロサイの教会は、実はパウロの弟子であるエパフラスが伝道して造られた教会でありました。コロサイの町は諸宗教が多く、間違った教えが横行していたのであります。そういう状況の中で、パウロは獄中にありながら、コロサイの教会の信徒を励ましたのでありました。誰が何をしたからというのではなく、ただ主の名によってコロサイの教会に連なっている、そのことだけが神様への大きな感謝でありました。「あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています」とパウロは述べています。あなたがたのところまで伝えられた福音により、今も連なりながら歩んでいること、神様の大きなお恵みであります。このお恵みを喜び、神様に感謝しているのがコロサイの信徒への手紙なのです。
 先ほども示されましたが、昨年の3月に宮城県の陸前古川教会の礼拝にて説教をさせていただいたのですが、40年前のことが思い出されています、今は天にある皆さんですが、私たちを励まし、いつも礼拝には喜びつつ出席されていた皆さんです。「神の国を生きながら」、それは「存在する救い主」に導かれる歩みなのです。そのような歩みを導かれたいと示されているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。神様のお恵みを感謝致します。このお恵みの上に立ち、新しい年も力強く歩ませてください。主イエス・キリストのみ名によりおささげいたします。アーメン。

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