説教「まことのお祈り」

2022年10月9日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第19主日

                      

説教・「まことのお祈り」、鈴木伸治牧師

聖書・創世記32章23-33節

   コロサイの信徒への手紙1章24-29節

   マルコによる福音書14章32-42節

賛美・(説教前)讃美歌21・403「聞けよ、愛と真理の」

   (説教後)讃美歌21・474「わが身の望みは」

日本基督教団は、毎年10月は幾つかの課題を祈りつつ礼拝を捧げることにしています。前週の2日は世界聖餐日・世界宣教の日でした。そして、本日の9日は伝道者を祈る日であります。伝道者を育てる神学校、そこで学ぶ神学生のためにお祈りするのです。そして、次週の16日は信徒伝道週間・教育週間としています。キリスト教を人々に宣べ伝えるのは、牧師の仕事ではありません。信徒の皆さんも伝道者なのです。一人一人がイエス様の十字架の救いを人々に証していかなければならないのです。さらに子ども達への教育です。その教育は、イエス様の十字架による救いを子どもたちに教えることです。幼き頃からイエス様を信じて歩み、成長してもらいたいのです。

今朝は10月の第二日曜日、「神学校日・伝道献身者奨励日」として定め、伝道者の育成を祈ることになっています。神学校日が近づくと、私の出身である日本聖書神学校から学校案内書が送られてきます。立派な案内書を手にすることになります。これらの案内書を見て、いろいろと考えさせられたのでした。こういう立派な案内書に触発されて神学校に入るのかと思ったりします。日本聖書神学校はこんなに良い所ですよと紹介しています。何か大学の案内書のようで、豪華な紹介でもあるのです。神学校は日本基督教団立の東京神学大学、認可されている日本聖書神学校、東京聖書学校、農村伝道神学校、同志社大学神学部、関西学院大学神学部です。それぞれ特色がありますので、献身して神学校に進むとき、これらの神学校の中から選ぶというより、既に学ぶべき神学校を決めている場合が多いということです。案内書を見て、案内書により神学校を決めるというのではありません。また、学校案内に触発されて決心するということでもないでしょう。学校案内を批判しているのではなく、案内はそれでよろしいと思いますが、献身を奨励し、伝道者の証等を示しつつ案内をすべきだと思ったのです。

 今朝は、神学校、献身者を覚えながらみ言葉を示されますが、「まことのお祈り」を示されています。イエス様のお祈りに導かれて、私たちは「まことのお祈り」をささげつつ歩まなければならないのであります。

 旧約聖書は創世記32章23節以下、ヤコブの召命が示されています。「ペヌエルでの格闘」と題されていますが、この格闘を通してヤコブがみこころに従う者へと導かれていくのであります。ヤコブは聖書でも初期の人でありますが、極めて人間的に生きた人であります。その意味でヤコブを批判したくなりますが、しかしヤコブはこの私の自分の姿であると示されるのであります。聖書の最初の人物はアブラハムであり、ついでイサクに継がれ、そしてヤコブの時代になります。ヤコブはイサクの双子の子どもとして生まれますが、弟になります。ヤコブは自分が弟であることが面白くなく、兄エサウから兄の権利を奪ってしまうのであります。兄の怒りから逃れるために、ヤコブは母の兄ラバンのもとに逃れる事になります。ここで平和な生活をすることになりますが、伯父さんの羊を飼う仕事は、いくら働いても自分の財産とはならないのであります。そのため、伯父さんの羊とは別に、自分の羊を飼うようになり、それも随分と多くの羊を飼うようになるのであります。このこともヤコブの人間的に巧みな生き方でもありました。ヤコブは、年月を経ていよいよ故郷に帰ることにしました。しかし、故郷には騙した兄がおり、その兄のもとに帰ることの危険がありますが、やはり故郷へと帰って行くのであります。故郷を前にして、ヤコブは兄エサウへ沢山の贈り物を届けさせました。そして、明日は兄エサウとの再会というとき、ヤコブは家族や僕たち全員をヤボク川の向こうに渡します。そして、その夜は一人ヤボク川のこちら側で夜を過ごすことにしたのであります。

 そこで今朝の聖書になります。もはや夕刻でありますが、ヤコブが一人でいると、何者かが現れ、ヤコブと格闘をしたと言うのであります。その辺りは詳しく記されません。一晩中格闘したと記しています。「その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた」と記しています。するとヤコブと格闘している人は「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」と言いました。するとヤコブは、「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」と言いました。すると、格闘していた相手は、ヤコブの名を確かめ、「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」と言われたのでありました。

ヤコブは兄をだまし、その祝福を狡猾な手段でもぎ取ってしまったのです。人間に対しては祝福をもぎ取ることはできました。しかし、神様の祝福はもぎ取ることはできないのです。だから、「祝福を与えてくださるまで離さない」というとき、「みこころに適うことをさせてください」と願っているのであります。そのように願うヤコブに、神様は「お前の名はなんというか」と尋ねます。「ヤコブです」とはっきり答えているのであります。ヤコブが自分の名は「ヤコブです」と答えたとき、それまでのヤコブの生き方がありました。人間的に狡猾に生きてきたヤコブです。自分の望む通りの生き方でありました。「ヤコブです」と答えたヤコブは、自分の人生のすべてを神様に申し上げたのであります。こういう私ですが、みこころに適うことを、させてくださいと願っているのであります。そのようなヤコブでありますが、神様はヤコブに御心を示しました。ヤコブは、もはや個人ではなく、イスラエル国家の中心になって行くのであります。神様のみ心に適うことを求め、また実践する者へと導かれていったのであります。もはや今までのヤコブではなく、御心を求める存在へと導かれたのでした。

神様に真実を求めたのは主イエス・キリストであります。マルコによる福音書14章32節以下はイエス様が「ゲッセマネで祈る」ことが示されています。もはや主イエス・キリストの十字架の救いの時が、目の前に迫っている状況であります。マルコによる福音書は1章15節でイエス様が「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われて、宣教を開始しました。そして、ガリラヤで伝道を始められたのです。

 今朝の聖書はイエス様の救いの時、十字架の救いの時が間近に迫ったことが記されているのであります。マルコによる福音書14章は、イエス様がお弟子さん達と最後の晩餐をします。そこで記念となる聖餐式の原型をお示しになりました。そして、食事の後、お弟子さん達と共にゲッセマネというところに参りました。イエス様は、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われ、少し離れたところでお祈りするのであります。イエス様は地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにお祈りされたのであります。「アッバ、父よ、あなたは何でもお出来になります。この杯をわたしから取りのけてください」とお祈りします。イエス様は一人の人間としてこの世に現れているのです。苦しいことは同じように苦しいのです。死にゆくこと、苦しみつつ死ぬことの恐れはあるのです。いよいよ、この時が来たのです。この時を見つめながら、神の国に生きる喜びを人々に示されてきたのです。しかし、ご自分の十字架の贖いがない限り、人々が神の国に生きることは実現できないのです。いよいよ、その時になりました。「この苦しみを過ぎ去らせてください」とお祈りしています。しかし、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」とお祈りされています。神様の御心のままにしてくださいとお祈りしているのであります。すべてを神様に委ねておられるのであります。ヤコブと同じように神様にご自身を委ねているのです。「まことのお祈り」をイエス様から示されています。

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 今朝は神学校日、伝道献身者奨励日であります。最初にも示されたように伝道をするということは、牧師の働きではありません。イエス様を信じる人は皆、伝道者として導かれているのです。神様は私たちにタラントン、賜物を与えてくださっているので、与えられた賜物を生かしつつ歩むことです。しかし、そのことを思うと、何かしなければいけないとの責任感が、何もしていない自分を見いだそうとするのです。賜物をいただいている者として、何をするのではなく、日々の生活の中で主に向いつつ歩むことです。「まことのお祈り」をささげたいのであります。

皆さんは、やはり教会の歩みが良い方向へと進むことが願いです。あるいは教会員の中に困難を覚える方がおられるので、困難が無くなるようにお祈りしています。それは当然のお祈りでありますが、私たちは、やはり自分の思うように、願っていることを神様がかなえてくださるよう、そのようなお祈りになっているのです。もう一度、イエス様のお祈りを示されましょう。イエス様も、自分の願いを神様に申しあげています。イエス様は十字架の道を歩むのです。当然のことながら避けて通りたいのです。その気持ちを率直にお祈りしています。しかし、「神様の御心のままに」とお祈りしているのです。自分の思いを申し上げながらも、すべては神様の御心に委ねているのであります。このお祈りこそ、私たちのお祈りにしなければならないのです。私たちは自分の思いを、神様に押し付けているのです。「御心のままにお導きください」と祈りたいのであります。

<祈祷>

聖なる御神様。救いの十字架を与えてくださり感謝致します。日々、祈りつつ信仰の生涯を歩ませてください。キリストの御名により。アーメン。

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