説教「安心して歩む人生」

2019年7月28日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第8主日



説教・「安心して歩む人生」、鈴木伸治牧師
聖書・ サムエル記上24章17-23節

   ガラテヤの信徒への手紙6章1-10節
   ルカによる福音書7章36-50節
賛美・(説教前) 讃美歌21・358「小羊をばほめたたえよ」
   (説教後) 讃美歌21・567「ナルドの香油」

 


 本日は7月の第四日曜日でありますが、もはや終わっていますが、第二日曜日は、私の住んでいる金沢区六浦や横須賀市の追浜等は夏祭りということで賑わっていました。時間的にも車で出掛けるとき、神輿や山車が練り歩くときに重なると混雑することになります。ちょうどその日に我が家の子供たちが来ることになったのですが、やはり山車が通るというので、大分車を待たされたということでした。毎年のことながら、お祭りがあり、町中が賑やかになることは、良いことではないかと思います。しかし、良く考えれば、お祭りは神社と関わっているのであり、神道の行事に町が協力していることになります。町内会費からお祭り費用が計上されているのですから、これは問題であるわけです。いろいろな問題点を示されますが、最近は、町の皆さんがお祭りということで協力しあうことなので、まあよろしいのではないかと思っています。3年前は地域の班長の役目があり、お祭りの時には神輿や山車がやってきて、接待にも協力したのでした。どこの国もお祭りが好きなようです。スペイン・バルセロナに滞在している時にも、結構いろいろなお祭りがありました。ヒガンテスと言う大きな張り子の人形に人が入って動かし、張り子の人形が踊るのです。いろいろな町がそれぞれのヒガンテスを作り、広場に集まって踊りを競い合うのです。これも一つのお祭りでありました。あるいは人間の塔を作っては競い合います。広場に集まって、それぞれの地域が、人間の塔を作るのです。高くなると七段、八段と塔を作るのですが、そこまで作ると危険になるので、三段、五段くらいが普通の様です。これらも何らかに関わるお祭りということでした。お祭りと言っては、みんなが協力して盛り上げる、どこの国も同じなんだなあと思わせられるようになりました。日本のお祭りは神社と関わるわけですが、スペインのお祭りはキリスト教の聖人に関わる訳ですから、祭りの精神は宗教が根源であることでは変わらないのです。
「あなたの喜びの人生は、あなたの信仰によるものです」とイエス様はおっしゃっております。私たちも信仰による人生の祝福をいただきたいのであります。信仰を持って生きるというとき、生活の中で、いろいろな問題、人間関係を持たなければなりません。祈りつつ、困難な人間関係を保ちつつ歩まなければならないのです。

 祈りつつ人間関係を保つのですが、私たちはともすると相手の存在によって左右されてしまいます。相手が私に悪い感情を持っているとき、どうしてもその感情によって相手を理解しますので、相手と距離を置いたりするのです。相手がどのように私を理解しようとも、その感情によることなく、相手の存在を受け入れるとしたら、それが祝福の関係へと導かれるのです。私たちが主イエス・キリストを仰ぎ見つつ歩むとき、祝福の歩みへと導かれるということです。
 旧約聖書ダビデの物語です。サムエル記上24章が示されています。聖書の国イスラエルはもともと王国ではありませんでした。ヤコブの子供達はまことの神様を信じて歩む12部族の連合体でありました。各部族の族長がいますが、全体の中心になる人がいなかったのです。そのため各部族は周辺の国々に悩まされており、全体で行動し立ち向かうことはできなかったのです。そのためサムエルがイスラエル全体の祭司の時、人々は自分達も王国になることを求めたのでした。それにより、ベニヤミン族のサウルが初代の王様として選ばれました。これは神様の御心でもありました。しかし、サウルは当初は神様の御心に従って支配していましたが、次第に自らの思いで支配するようになりました。そのため、神様はサウルではなくダビデを王にするのです。しかし、実際はサウル王が君臨しています。ダビデはサウル王の家来になり、働くようになります。ダビデは戦いでは力強い功績を残すようになり、人々はダビデを高く評価するようになります。サウルは自分よりもダビデの名声が高まっていることが面白くなく、ダビデを殺そうとするのです。そのサウルからの逃亡生活をしているダビデです。
 そこで今朝の聖書のダビデとサウルの出会いになるのです。ダビデが家来と共に洞窟の中に隠れていると、サウルは3千の兵を率いてダビデを追っているのですが、サウルもダビデが隠れている洞窟に入ってきます。暗い洞窟で、サウルを倒すには好機であり、ダビデの家来たちは実行すべきであるとダビデに言うのです。しかし、ダビデは「主が油を注いだ方に手をかけてはいけない」と言い、サウルの衣の端を密かに切り取ったのでした。そして、洞窟を出たサウルに、ダビデが声をかけます。「ダビデがあなたに危害を加えようとしている、などといううわさになぜ耳を貸されるのですか。今日、主が洞窟であなたをわたしの手に渡されたのを、あなた御自身の目で御覧になりました。あなたの上着の端がわたしの手にあります。わたしは上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すことはしませんでした。主が裁き手となって、わたしとあなたの間を裁き、私の訴えを弁護し、あなたの手からわたしを救ってくださいますように」というのです。
 サウルはダビデの言葉を聞くと、声をあげて泣いたと記しています。「お前はわたしに善意をもって示し、わたしはお前に悪意をもって対した。今日のお前の振る舞いに対して、主がお前に恵みをもって報いてくださるだろう。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前によって確立される」とサウルはダビデに言うのです。そしてその後、サウルはペリシテの国との戦いで、息子のヨナタンと共に戦死してしまいます。それによりダビデが王様になっていくのです。その道程も困難がありますが、相手の存在を常に大切にするダビデの生き方は神様によって祝福されたということです。たとえサウル王が自分を殺そうとしても、だから自分もサウルを殺すとは考えなかったダビデであります。相手が自分をどのように思っても、相手の感情で相手を見つめるのではなく、一人の存在を受け入れるということなのです。神様はそのダビデに祝福を与えられたのです。

 主イエス・キリストは一人の存在を大切に受け入れてくださるのです。今朝の新約聖書ルカによる福音書7章36節以下には、「罪深い女を赦す」イエス様が記されています。イエス様が一人の女性に香油を注がれるお話はそれぞれの福音書が記しています。マタイによる福音書は26章6節以下に記されます。一人の女性が極めて高価な香油の入った石膏の壺を持ってイエス様に近寄り、食事の席にいるイエス様の頭に香油を注いだと記しています。マルコによる福音書は14章3節以下に記されます。イエス様がベタニアのシモンの家で食事をしていると、一人の女性が純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持ってきて、それを壊し、香油をイエス様の頭に注いだと記します。ヨハネによる福音書は12章1節以下に記されます。ここでの女性はマルタとマリアの姉妹のマリアが、高価なナルドの香油をイエス様の足に塗り、自分の神の毛でその足をぬぐったと記しています。マタイ、マルコ、ヨハネの場合、イエス様に女性が高価な香油をイエス様の頭、足に注いだのは、イエス様の葬りの準備であると記しているのです。そして、これらの福音書は女性が罪深い存在であるとは記していないのです。罪深い女性として記しているのはルカによる福音書だけです。その意味でルカによる福音書の香油注ぎは他の福音書とは示そうとしていることが異なるのであります。ルカの場合、罪深いと人々から言われている女性に重きを置いているのです。
 あるファリサイ派の人がイエス様を食事の招待をします。イエス様は招待に応えて食事の席についていました。そこへ一人の罪深い女性が入ってきて、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエス様の足に香油を塗ったのであります。ここで聖書は「罪深い女」と記しているのですが、罪深いとはどのようなことなのでしょうか。このルカによる福音書の前の部分、7章1節以下には、百人隊長の部下が死にかかっていますが、憐れみを深く持たれたイエス様は、イエス様のお言葉で死にかかっている部下を癒しているのです。さらに、11節以下には、ナインの町のやもめの一人息子が死んでしまい、その葬式の行列に出会ったイエス様は、嘆き悲しむ母親を憐れに思い、死んだ息子に声をかけ、生き返らせているのです。一人の存在を深く受け止め、憐れまれる主イエス・キリストを証しているルカによる福音書です。一人の人がイエス様の憐れみをいただくために、イエス様のもとへ来たことが示されます。すなわち、この女性は何らかの病を持っていたのであります。病を持つ者は罪人扱いにされていた時代ですから、この女性も人々から罪深い者として理解されていたのであります。この女性は、イエス様の死者を生き返らす力のある方であることを知っていました。この病の自分がイエス様により癒されるのであるとの喜びをもってイエス様に近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、香油をイエス様の足に塗ったのであります。既に癒された者としての喜びがあったのです。
イエス・キリストに向かうということは、そこに癒しがあり、力が与えられるということであります。この後、ルカによる福音書は8章40節以下で、12年間も病の女性が、イエス様の衣に触れて癒されることが記されていますが、罪深い女性といわれる人も同じ信仰であるということなのです。主イエス・キリストはどのような存在をも顧みてくださるのです。どのような存在も生きて存在する以上、大切な存在なのです。大切な存在として、主イエス・キリストは人間を真に生きる者へとお導きになるために、十字架にお架りになり、御自分の死と共に、人間の奥深くにある他者の存在を切りすてること、排除することから救い出してくださったのであります。

 我が家の子供、星子が飼っていたインコが亡くなりました。星子と共に家族として住むこと20年にもなるということです。インコはいろいろと音を真似ますので、星子の声も扉の音なども鳴き声で真似ていたということです。なんとも愛らしいインコでした。そのインコが亡くなったので、我が家の庭に埋葬したのです。実は、その埋葬したところ、動物たちの墓地になっているのです。大塚平安教会時代に飼っていた犬が死んだので、教会の植え込みに埋葬しておきました。その後、教会が建て替えられることになりましたので、植え込みから掘り出し、我が家の庭に改葬したのでした。この墓地には子供の優が飼っていたリスなども埋葬されていますし、また私たちも飼っていたリスも埋葬しています。いろいろな動物たちが埋葬されている動物墓地でもあるのです。子どもたちもこの家の庭に動物を埋葬しているので安心しています。まことに静かな、安らぎの墓地でもあるのです。
 墓地と言えば、大塚平安教会時代に厚木霊園に教会墓地を建設しました。赴任して3年目くらいには完成しています。それまでは川崎の春秋苑に墓地がありましたが、墓碑等は建てていませんでした。教会からは遠いので、近くに建設することを検討していたのです。厚木霊園ができましたので、すぐに墓地を取得しました。そして、建設にあたり、すべてを牧師に一任されましたので、立派な納骨堂が建設されたのでした。墓地があることは、安心した人生が導かれるのですが、それは主イエス・キリストの十字架の救いを信じて歩むことが導かれているからです。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」とイエス様は祝福してくださっているのです。安心して人生を歩みたいのです。
<祈祷>
聖なる御神様。十字架を仰ぎみる信仰を与えてくださり感謝します。生涯、信仰に生きる歩みを導いてください。主イエス・キリストのみ名により。アーメン。

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