説教「共に歩む導き」

2021年9月5日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第16主日」              

                      

説教・「共に歩む導き」、鈴木伸治牧師

聖書・エゼキエル書37章15-22節

   コリントの信徒への手紙<一>1章10-17節

   マタイによる福音書18章10-20節

賛美・(説教前)讃美歌21・357「力に満ちたる」

   (説教後)讃美歌21・456「わが魂を愛するイエスよ」

 

 9月の歩みになっています。もはや秋を迎えていますが、それでも猛暑日があり、大事を取りつつ歩んでいます。最近は秋の虫たちの鳴き声を楽しく聞いています。現役在任中は、9月になると「伝道の秋」を言うようになり、いろいろな企画を立てながら歩んでいたことが思い出されます。9月か10月には修養会を開催していました。10月、11月頃にはチャペルコンサートを開催していました。こうした色々なイベントを開催しながら歩むのも、教会の交わりが深まるためであり、このような集いを通して人々を招くということなのです。「バザーは宣教である」と言いつつ開催していました。多くの人々が教会、幼稚園が主催するバザーに訪れるのです。幼稚園を卒業した皆さん、家族の皆さんとの触れ合いもあり、やはり伝道が導かれているのです。以前、大塚平安教会の講壇に招かれたとき、今まで関わった方々、幼稚園で出会った皆さんが礼拝に出席してくださり、教会の群れが大きくなっていることを示されたのです。教会に出席した人、しかしその後は来なくなった人、多くの幼稚園の卒業生と保護者の皆さん、そういう皆さんが時には大塚平安教会にもどってくるのです。再び巣立った教会に戻ってきたということです。伝道の成果はその時に現れなくても、いつかは果実となって与えられるのです。

今朝は日本基督教団の聖書日課によって示されていますが、主題は「教会の一致と交わり」です。今は隠退して六浦谷間の集会としての礼拝をささげての歩みですが、この集会でいつも今までお交わりが導かれた皆さんを覚えています。陸前古川教会、大塚平安教会、横浜本牧教会、横須賀上町教会、三崎教会等、祝福された歩みを祈りつつ過ごしているのです。

 旧約聖書エゼキエル書は神様の民として一つになることが示されています。37章15節以下が今朝の聖書でありますが、聖書の民族である北イスラエルと南ユダが一つになることを示しています。もともとは一つの民族でしたが、分れてしまったのです。「人の子よ、あなたは一本の木を取り、その上に『ユダ及びそれと結ばれたイスラエルの子のために』と書き記しなさい」と神様の言葉がエゼキエルに示されています。それは何のためかと言えば、21節「そこで彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の中から取り、周囲から集め、彼らの土地に連れて行く。わたしはわたしの地、イスラエルの山々で彼らを一つの国とする。一人の王が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの国となることはなく、二度と二つの王国に分かれることはない」ということなのです。つまり、今は二つの国に分かれていますが、もともと一つの国でありました。もう一度一つの国にするといっているのであります。

 聖書の国イスラエルは一つの国でありました。最初の王はサウル王でした。しかし、サウル王は神様のお心ではない自分の腹で国を支配するようになり、神様はサウルを見離すことになります。次に王様になるのがダビデ王であり、彼は神様のお心を人々に示しつつ王としての勤めを果たしました。その次の王様がソロモン王でありました。ソロモン王については前回のメッセージで示されています。彼は何よりも神様の知恵を求め、神様の知恵を人々に示しましたので、世界の人々がソロモンの知恵を聞きにやってきたほどでありました。ダビデは後々まで名君と言われております。もう一度、ダビデのような王様が現れることが待望されるようになりました。その後のソロモンも神様の知恵を人々に示したのですから、ダビデと同じように名君と言われなければなりません。ところがソロモンは名君とは言われないのであります。実はソロモンが原因で国が二つに分かれてしまったのであります。ソロモンのあとの時代に北イスラエルと南ユダになりました。

 今朝の聖書は再び一つに国になることの示しが与えられています。エゼキエル書は南ユダがバビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンに捕われの身となり、バビロンで生きている状況であります。人々にとって捕囚から解放されることが何よりの願いです。この時点では、既に北イスラエルアッシリアという大国に滅ぼされています。もはや北イスラエルはないのです。しかし、存在する国として、昔のように一つの国にするというのです。解放以上の喜びでもあるのです。一つの民となるということは大きな喜びでありました。一つの民となるということは、失われた存在を求め、探し出すことでもあるのです。従って、北イスラエルの失われた人々、散らされている人々を探し出しくれるということなのです。そして、昔のように一つの民として、神様の導きをいただくのであります。

 失われた存在を訪ね、捜してくださるのは主イエス・キリストであります。その証しは福音書の中に宝石のようにちりばめられていますが、今朝のマタイによる福音書18章10節以下の、「迷い出た羊」のたとえの中に示されるのであります。

 「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、99匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか」とのお話しであります。「山に残して」と言った場合、それは特別な意味があります。イエス様が人々に教えを与えたとき、「山」においてでありました。マタイによる福音書5章1節、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子達が近くに寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、教えられた」のであります。マタイによる福音書28章16節、「さて、11人の弟子達はガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」のであります。そこでイエス様から宣教への派遣を与えられるのであります。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」と言われたのであります。マタイにとって「山」は福音を示される場であり、宣教への派遣の場でもあるのです。それは教会という場でもあるのです。従って、「99匹を山に残して」というのは教会にいるということであります。100人の人が教会にいました。しかし、1人が迷い出たのであります。迷い出た原因については触れられていませんが、今朝の主題から示されるならば、別の生き方を選んだと考えることができるでしょう。イエス様の羊飼いが再び一つにするために、別の生き方を選んだ人を捜したのであります。神様のお心にあって、一つの生き方が私たちの歩みなのです。

 コリントの信徒の手紙の中で、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとってはおろかなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」とパウロは信仰の原点を改めて示しています。「主にあって一つ」であることは十字架の言葉を原点にしている人々が、主にあって一つになるのであります。十字架の言葉とは、神様は人間の奥深くにある自己満足、他者排除の原罪を、人間は克服することができませんので、主イエス・キリストが十字架で死んで行くとき、人間の原罪を滅ぼされたのであります。従って、人間は十字架を仰ぎ見ては、自分の原罪を滅ぼされ、この私をお救いくださったイエス様として信じるのであります。それが十字架の言葉であります。「一つ」なる人々は十字架の言葉を信じる人々なのであります。

 2009年はプロテスタント宣教150周年を迎え、プロテスタント教会発祥の地、横浜で記念の集いを超教派で行いました。色々な教派が礼拝を一緒に行うとき、信仰のあらわし方が異なりますので、戸惑うことになります。礼拝でお祈りしているときにも、大きな声で「アーメン」「ハレルヤ」と唱和しています。賛美歌は手拍子を打ちつつ歌うのです。こうした異なる信仰のあらわし方ですが、主イエス・キリストの父なる神様に礼拝をささげることにおいては「一つなる」信者の群れなのです。信仰の現し方が異なるということでしょう。大塚平安教会に在任の頃、すぐ近くに韓国系の教会が転居してきました。今までは大和にありました。開設式をするからとお招きをいただきましたので、参列しました。賛美歌は手拍子をうち、お祈り中も「アーメン」を繰り返していました。この姿も信仰の姿なのですから、受けとめたいのです。

 教会は主イエス・キリストの名によって集められた人々の群れです。イエス様のお心を共にいただき、祈りつつ歩む群れなのです。私達はそのような群れに所属している喜びを持って歩んでいるのです。イエス様の名による群れの一員であることを感謝致しましょう。

<祈祷>

聖なる神様。十字架へ導かれ、一つの心を与えられています。感謝します。共に歩む導きを与えてください。主イエス・キリストによって。アーメン。

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